INICIAR SESIÓNグランドオープンを数日後に控えた社長執務室には、強い緊張感が漂っていた。
隼人は病室から復帰して、再び陣頭指揮を取っている。デスクの上には、Mが残した評価シート――『条件付きの四つ星』という屈辱的な紙切れが置かれていた。
隼人はその紙を睨みつけたまま、幹部たちに向かって新しいマニュアルを放り投げた。「変更だ。全スタッフに徹底させろ」
幹部の一人が恐る恐るマニュアルを手に取る。その顔に困惑が浮かんだ。
「……社長。これは?」
「Mの指摘は『人間味の欠如』だ。よって、今日からオペレーションを修正する。スタッフの私語を一部解禁し、接客時の笑顔の持続時間を20パーセント増やす。客への声かけ頻度も倍に設定しろ」
室内がざわついた。効率と静寂を至上命題としてきた『聖域(サンクチュアリ)』において、それはあまりに唐突で、方向違いな命令だった。
病室から戻った隼人は、未だ迷走の中にある。
掴んだはずの温かさを手放したくない同僚が、ためらいがちに翔吾の方へ近づいてくる。 いつもは軽口を叩く男が、今日はひどく強張った顔をしていた。「……翔吾さん。これ、見ましたか」 同僚は自分のタブレット端末を、翔吾のテーブルの上にそっと置いた。 画面には、実加が見たものと同じ週刊誌のWeb記事が表示されている。『アーク・リゾーツ社社長の母・真澄さんはギャンブル依存とアルコール依存の末に多額の借金を抱え、現在は行方不明』『社長の弟・黒崎翔吾さんは、父親が独身時代に交際していた女性――黒崎真澄さん――との間に生まれた子ども。当時、彼女は別の男性とも交際しており、まさに奔放な関係の末に生まれた子である』『アーク・リゾーツ社社長の黒崎隼人氏とは、同母・異父兄弟になる。つまり隼人氏にも問題の母親の血が流れている』 黒の太字で強調された文字の羅列が、直接脳内に流れ込んでくる。 翔吾の指先から一気に熱が引いていく感覚が走った。 先ほどまで頭の中にあった完璧なスケジュールが、あっという間に消し飛んだ。「……こんなの、何かの間違いですよね?」 同僚の探るような声が、ひどく遠くに聞こえる。 自分が、兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚点を付けてしまった。(僕のせいで。僕が兄さんを頼ったから) その思いが翔吾の心を蝕んだ。 周囲の音が急速に遠のき、自分の浅く早い呼吸音だけがやけに大きく耳に響くようだった。 翔吾はとっさにテーブルの端を強く握り、何とかその場に立ち留まった。 同僚への返事は、できなかった。◇ 記事の影響は、瞬く間にサンクチュアリの現場を侵食し始めた。 ロビーのフロントカウンターで、翔吾はキーボードを叩きながら、耳元のインカムマイクに手を当てた。「東館の清掃チーム、11時の段階でリネン交換に5分の遅れが出ています。西館からヘルプを2名
『現在も、彼女は同ホテルで清掃員として働いている。赤ん坊の我が子を社内保育所に預けっぱなしにするなど、育児放棄の疑いも持たれている』 ――育児放棄。 その言葉にギリッと奥歯が鳴った。 過去の愚かさは否定しない。男を見る目がなかったことも、特攻服を着てイキがっていたことも事実だ。 だが理玖のことは別だった。 さっきまで腕の中にあった、確かな重みと無邪気な笑顔が蘇る。 自分の食事を切り詰めてでも、あの子のミルクやおむつを優先してきた。 実加がシングルマザーになったのは、理玖の父親にあたる男が暴力を振るったからだ。 実加に対してだけであれば我慢できたし、反撃もした。 だが小さな理玖に手を挙げたのを見た瞬間、彼女は息子を連れて家を飛び出した。 それなのに。(育児放棄だと? ウチが、あの子を愛してないって……?) 視界の端がじわりと歪んだ。 育児放棄はしていない。 けれど過去の愚かな行いは事実だ。 小夜子や翔吾が作り上げた、この誇り高い『サンクチュアリ』という居場所とアーク・リゾーツというブランド。 彼女の過去という拭い切れない汚れが、それにべったりと張り付いてしまった。 喉の奥に熱く固い塊がせり上がり、実加は息をするのも忘れてその場に立ち尽くした。◇ アーク・リゾーツ本社の社員用ラウンジは、太陽の光をふんだんに取り込んだ明るい空間だ。 黒崎翔吾はいつもの窓際の席で、淹れたてのブラックコーヒーの入った紙コップを手にしていた。 適度な酸味と深いコクが鼻から喉へと抜けていく。 この一杯を飲みながら、タブレット端末で本日のチェックインのピーク時間、VIPの導線、スタッフの配置状況を確認する。 脳内で完璧なスケジュールを組み上げる、彼にとって欠かすことのできない朝のルーティンだった。 しかし、今日のラウンジは何かがおかしかった。
近々、正社員登用試験も控えている。 この小さな命を守るためなら、デッキブラシを握り続けることも慣れない専門用語を覚えることも、少しも苦ではない。 全てが順調。あとは実加自身の努力にかかっていた。ならばやり遂げるだけだ。(母ちゃん、今日も気合い入れてくるからな。いい子で待ってろよ) 理玖の背中をポンポンと叩き、実加は立ち上がった。◇「それでは実加さん、僕はここで」「おう。今日の仕事もお互い頑張ろうな」 出勤した実加は、翔吾と別れて従業員専用エリアのロッカールームへ入った。 壁際に並ぶスチールロッカーからは、芳香剤のフローラルな香りと、誰かが置き忘れた湿ったタオルの匂いが混ざり合って漂っている。「さて、着替えねえと」 実加が自分のロッカーを開けて、制服のブラウスに手を伸ばした時だった。 ジジッ、ジジッ。 バッグの中のスマートフォンが、短い振動を繰り返した。 実加は眉をひそめる。こんな朝早くに連絡が来る相手など、限られている。 保育所からの緊急の呼び出しでないことを祈りながら、画面をタップした。 表示されたのは、メッセージアプリの通知だった。 地元の昔の不良仲間たちで作った、今はほとんど動いていないグループチャットだ。『おい実加、これお前じゃね?www』『やばw 全国デビューおめ!』『サンクチュアリって、あの超高級ホテルの? お前、あんなとこで清掃やってんの?w』 嘲笑を含んだ短いメッセージの連投が、目に入る。 その後にニュースサイトのURLが貼り付けられていた。(なんだこれ。久々でこの言い草かよ) 実加は首を傾げながら、そのリンクをタップする。 画面が切り替わり、目に飛び込んできたのは、毒々しい赤黒いフォントで彩られた週刊誌のWeb記事だった。『アーク・リゾーツの闇! 若きエリート役員は奔放な関係の末に生まれた愛人の子』
朝の澄んだ空気が、社員寮の廊下を通り抜けていく。 山内実加は、重みのあるマザーズバッグを肩にかけて、生後7ヶ月になった理玖を両腕に抱え込んで歩いていた。「ほら、理玖。今日もいい天気だぞ」 ふっくらとした頬を指先でつつくと、理玖はきゃっきゃと声を上げて笑う。 実加の髪を、小さな手で掴んできた。「こらこら、髪を掴むな、髪を。いてーだろうが」 実加は息子の小さい指を優しく開いてやった。 理玖は日々成長している。 そうと実感するのは、実加の喜びだった。「理玖くんは今日も元気ですね」 隣を歩く黒崎翔吾が言う。 彼も指を赤ん坊に伸ばすと、しっかりと捕まってしまった。「指を握る力も強くなったのでは?」「なった、なった。チビは毎日成長しているもんなー!」「あう、あうー!」 3人は笑い合う。「実加さん。そのバッグ、重いでしょう。僕が持ちますよ」「いいんだよ。清掃道具に比べりゃどうってことないし」 他愛のない会話は信頼の証だ。 しばらく歩いて、社内保育所『こぐまの森』のドアを開ける。「おはようございます、山内さん。翔吾さんも」「おはようッス。今日もよろしくお願いします」「おはようございます」 顔なじみの保育士に挨拶を交わし、色鮮やかなジョイントマットの上に理玖を降ろした。 靴箱に荷物を押し込み、振り返る。 実加の視界の先で、理玖がこちらへ向かってきていた。 小さい手足を懸命に動かし、ハイハイで進んでくる。ほんの数週間前までは、うつ伏せでもがくだけだったのに、今ではけっこうな勢いの移動速度だ。「おっ、速い速い。お前、いつの間にそんなに動けるようになったんだよ」 実加は床に膝をつき、飛び込んできた小さな体を受け止めた。 ミルクとベビーパウダーの甘い匂いがする。じんわりと温かい体温が、ブラウス越しに伝わってくる。「山内さん、理玖くん本当に活
口では理屈を並べながらも、翔吾の脳裏にはあの肉厚な椎茸の香りが鮮明に蘇っていた。(確かに、あの野性味あふれる味は、この完璧な厨房では出せない。……認めたくはありませんがね)「へっ、相変わらず理屈っぽい野郎だ。でもさ」 実加はカレーを飲み込むと、スプーンを置いて正面から翔吾を見た。 その大きな瞳には、強い光が宿っている。「ウチ、決めたんだ。次の正社員登用試験、絶対に一発で受かってやる」 翔吾は箸の手を止めた。「小夜子師匠みたいにさ、目に見えないお客様の気持ちまで拾い上げられる、最高のホテルマンになるんだ。理玖に母ちゃんの仕事はかっこいいんだぞって、胸張って言いたいからさ」 力強い宣言だった。 彼女の手のひらには、デッキブラシを握り続けたことでできたマメの跡が残っている。 それは逃げずに戦い抜いた誇り高い証だ。「……あなたなら、合格圏内でしょう。現場での行動力は、既にマニュアル以上の付加価値を生み出していますから」 翔吾は視線を少しだけ下げ、味噌汁のお椀に手を伸ばした。「僕も、今の給与プランなら1年以内に借金を完済できます。そうすれば大学に復学できる。でも、ただ学生に戻るだけじゃありません」 翔吾は顔を上げて、実加の目を見返した。「この現場で学んだ『数値化できないおもてなし』を、僕なりの論理として体系化します。兄さんや小夜子さんの背中を追うだけじゃなく、新しいアーク・リゾーツの基盤を僕の計算式で作ってみせる」「おっ、言うねえ! インテリの逆襲ってやつか!」 実加が身を乗り出して笑う。「逆襲ではありません。システムのアップデートです。僕が黒崎社長と小夜子総支配人に逆襲するわけないでしょう」「あっはは! そりゃそうだ! 師匠に逆襲するとか、命がいくつあっても足りねえわ」 翔吾が答えると、実加は大きな声で笑った。 翔吾もふっと口元を緩めた。(山内実加。あなたが隣で無茶苦茶な行動を
「どうぞ、それをご覧ください」 探偵の男が手で促したので、御子柴は封筒から数枚の写真と報告書を引き出した。 1枚目の写真には、派手な化粧をしてパチンコ台の前に座る中年の女が写っている。「黒崎翔吾の実母、真澄です。多額の借金を抱え、現在はその日暮らし。何より面白いのは、翔吾本人が黒崎家の嫡子ではなく、真澄が不倫した時に産んだ『不義の子』だという事実ですよ」「ほう」 探偵が舌なめずりをする。 御子柴は冷笑を浮かべ、次の写真を手に取った。 そこには、金髪で特攻服を着た少女時代の山内実加の姿と、酒に酔った赤ら顔で路上に座り込む柄の悪い男が写っている。「山内実加は筋金入りの不良少女。おまけに、元夫はDVでの逮捕歴があるゴロツキです。現在も金に困っているようで、元妻の居場所を探り回っています」 御子柴は写真を束ねて、デスクの端でトントンと揃えた。 社長である黒崎隼人の弟、翔吾の汚れきった生まれ。 彼の相棒である実加の過去。 これらを世間に晒せば、美しくクリーンなアーク・リゾーツのブランドイメージは、泥にまみれる。「ご苦労。報酬は指定の口座に振り込んでおく」「毎度あり。で、このネタ、どこに売り込みます?」「一番部数を持っていて、最もえげつない記事を書く週刊誌だ。ネットに強い所が良い。明日にでもリークしろ」 御子柴の口元が、三日月の形に歪んだ。(これであの目障りな兄弟も、やかましい女も、すべて終わりだ) そう確信した。◇ 翌日の昼下がり。アーク・リゾーツ本社の社員食堂は、多くの従業員で賑わっていた。 高い天井まで届く大きな窓からは、東京の摩天楼がどこまでも広がっている。 窓際のテーブル席で、翔吾と実加は向かい合ってランチをとっていた。 翔吾のトレイには、カロリー計算が完璧になされた日替わり定食が並んでいる。 対する実加のトレイには、大盛りのカツカレーと山盛りのサラダが乗っていた。
黒塗りの車が、砂利を踏みしめて停車した。 午後2時30分、老舗旅館『月影(つきかげ)』の玄関を小夜子は車の窓から見上げた。 築百年を超えるという木造建築は、確かに歴史の重みを感じさせる。だが今の小夜子の目には、それが「重厚さ」というより「重苦しさ」として映った。どこか薄暗く空気がよどんでいる。「降りるぞ」 隼人が短く告げてドアを開けた。さきほどまでの車酔いの青白い顔はどこへやら、その横顔はすでに冷徹な「再生屋」のものに戻っている。 小夜子も後に続いて車を降りた。 玄関前には、支配人を先頭に仲居や板前
トラブルの報告を聞いた瞬間、隼人の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。(……これだ) トラブル、反発、敵意。それこそが彼の得意とするフィールドだ。生っちょろい温もりから抜け出し、冷徹な「再生屋」としての自分を取り戻す、絶好の機会。「すぐに車を用意しろ。現地へ行く」「はっ。……お一人で向かわれますか?」 隼人は一瞬考え、意地悪な思いつきを口にした。「いや。妻も連れて行く」「奥様を、ですか? しかし現場は殺気立っておりますが&h
「胃薬をお探しでしたら、棚の2段目にございます。……ですが、もしよろしければ」 小夜子はダイニングテーブルの椅子を引いた。「薬を飲む前に、少しお腹を温めてはいかがですか? 空きっ腹に薬は、胃を荒らしますので」 押し付けがましさのない、淡々とした提案だった。 隼人は拒絶しようとした。他人が作った食事など、信用ならない。 幼少期、冷え切った弁当やコンビニの味しか知らなかった彼にとって、家庭的な温かさなどというものは、煩わしい幻想でしかなかった。 けれど胃の痛みとひどい空腹が、理
(ここは人が暮らす場所ではないわ。まるで氷の城ね) そんな小夜子の迷いなど意に介さず、隼人はさっさとリビングへと進んでいく。 彼は上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに無造作に掛けた。 広大なリビングの中央に鎮座する、黒い革張りのソファ。 隼人はそこに深く腰掛けて、ガラステーブルの上の瓶とグラスを手に取った。中にはウィスキーだろう、琥珀色の液体が満ちている。 カラン、と氷がグラスに当たる硬質な音が、広い空間に反響する。酒が注がれる音だけが、この部屋の沈黙を埋めていた。 隼人はグラスを傾け、氷越しに小夜子を見据えた