เข้าสู่ระบบ都内屈指の高級住宅街にある白河家本邸。かつては近隣住民が足を止めるほど手入れが行き届いていた日本庭園は、見るも無残な姿に変わり果てていた。
毎朝、小夜子がほうきで掃き清め、整えていた枯山水の白砂は、風で吹き溜まった枯れ葉に埋もれて美しい波紋は跡形もなく消えている。剪定(せんてい)を忘れられた立派な黒松は、ボサボサと勝手気ままに枝を伸ばし、かつての威厳ある姿は見る影もなかった。
屋敷の中も同様だった。玄関ホールに飾られたカサブランカは枯れ果て、花瓶の水は濁って異臭を放っている。それなのに誰も水を変えようとしない。
磨き上げられていた廊下のフローリングはほこりで白く曇り、歩くたびにジャリジャリという不快な感触が足裏に伝わる。居間では、この世の終わりのような悲鳴が響いていた。
「いやあああっ!!」
義姉の麗華が、アイロン台の前で泣き叫んでいる。
「焦げた! 私のヴィンテージのワンピースが!」
彼女の手元にあるシルクのドレスには、茶色いアイロンの跡がくっきりと焼き付いていた。
「どうしてよ! 説明書通りにやったのに!」
これまで小夜子が完璧な温度調節で仕上げていたため、彼女はシルクが高温に弱いことすら知らなかったのだ。
「うるさいわねえ!」
キッチンから、義母・緑の怒鳴り声が飛んでくる。
「こっちはそれどころじゃないのよ! ……あちっ!」
ガシャーン。皿が割れる音がした。緑は指をやけどして、高級な伊万里焼の皿を床にぶちまけていた。
「なんなのよ、この食洗機! 全然汚れが落ちてないじゃない! 予洗い? そんな面倒なこと、誰がやるのよ!」
シンクには、数日分の汚れた食器が山のように積み上げられ、油の腐った臭いが漂っている。
今日の夕食は高級デリバリーの冷え切ったピザだった。それを盛り付ける皿すら、まともなものが残っていない。そこへ、当主の清次郎がよろめくように帰宅した。その顔色は土気色で、かつての偉そうな姿は見る影もない。
「……おい
プレオープン最終日。 メインダイニング『ルミエール』は、選ばれた者だけに許される静かな空気に包まれていた。天井から降り注ぐシャンデリアの光はテーブルの銀食器に反射して、磨き抜かれた床の上で星のように瞬いている。 人々は上品に笑いあって、一流の料理の数々を楽しんでいた。「完璧だ、小夜子。今日の配置に抜かりはない」 隼人は、隣に座る小夜子にだけ聞こえる低い声で言った。彼の視線は、3つ先のテーブルに座るマダム・ローズに固定されている。 彼女は今夜、世界最高級のキャビアと隼人が自らヴィンテージを選んだシャンパンを堪能している。 マダム・ローズは世界でも有数の投資家。人脈も広く、最も『M』の可能性が高い人物だ。「スタッフの8割をあちらのVIPエリアに集中させています。ソムリエも、給仕長も、今夜は彼女の呼吸一つ逃さないように訓練した」「……効率的、ですね」 小夜子は淡々と答え、手元のコンソメスープにスプーンを運んだ。「ですが旦那様。あちらの一般招待客のエリア、少しスタッフの動きが粗くなってはいませんか?」「気にするな。あそこにいるのは、取引先の縁故者や地元の名士だ。彼らには『一流の雰囲気』を味わわせるだけで十分だ。だがマダム・ローズは違う。彼女の機嫌一つで、このホテルのブランド価値はゼロにも百にもなる」「リソースを一点に集中させる。ビジネスとしては正解なのでしょう」「そうだ。無駄なことに割く時間は、今の我々にはない」 隼人の言葉通り、マダム・ローズのテーブルには常に3人のスタッフが影のように付き従っている。グラスが空く前に注ぎ足し、パン屑一つ落ちるのを許さない。 一方で小夜子が注視している壁際のエリアでは、スタッフが足早に通り過ぎ、呼び止めようとする客の手に気づかない光景が繰り返されていた。 その時だった。給仕スタッフの一人が、マダム・ローズのテーブルへ急ぐあまり、手元のトレイを隣のテーブルにわずかに接触させた。 ガタンと不快な音が響き、老婦人の膝に熱いオニオンスープがこぼれた。昨日小夜子が絆創膏を
小夜子はバッグから折り畳み式の小さな低反発クッションを取り出して、老婦人の背中とソファの間に差し込んだ。 さらに手早く絆創膏を貼り、ホテルの備品よりも柔らかい携帯スリッパを差し出す。 小夜子のバッグは家政婦道具をたくさん詰め込んでいるのだ。「これで、少しはお楽になるかと」「あら……。本当に楽になったわ。ありがとう、お嬢さん」 老婦人の表情が和らぐ。彼女は小夜子の手を見つめた。「貴女の手、綺麗ね。……よく働く人の手だわ」「ええ、家政婦ですから」 小夜子は少しだけ誇らしげに答えた。 老婦人は不思議そうに目を瞬いて、それから微笑む。 その時、投資家との挨拶を終えた隼人が戻ってきた。 膝を突き、地味な老婦人の世話を焼く小夜子の姿を見て、隼人の眉間に深い皺が寄る。「……小夜子、何を。……失礼。行きましょう」 隼人は老婦人に形式的な会釈だけを向けると、小夜子の腕を強引に引いて、人気のない通路へと連れて行った。「……何をしていた」 隼人の声は低く、怒りを孕んでいた。「言ったはずだ。Mを探し出し、完璧な迎撃をしなければならないと。あんな身元の知れない、収益にも評価にも繋がらない相手に時間を割くな」「旦那様、あの方は現に困っていらっしゃいました。痛みを抱えたままでは、このホテルを『聖域』と感じていただくことはできません」「理想論を言うな。リソースは有限だ。優先順位を間違えるなと言っている。……二度とあのような無駄な真似はするな。お前の役割は社長夫人として、影響力のある人間に価値を提供することだ。分かったな」 隼人の正論は、経営者としては正しい。小夜子は静かに目を伏せ、短く答えた。「……承知いたしました」 その手のひらには、老婦人が去り際にそっと握らせてくれた、小さく
1時間後、2人はホテル1階のメインロビーに立っていた。クリスタルのシャンデリアが輝き、ドレスアップした正装に身を包んだ招待客たちが、優雅に談笑している。 招待客は多くがセレブだ。著名人も少なくない。「小夜子、あちらだ」 隼人が視線で示したのは、窓際の特等席に座る壮年の女性だった。「イギリスの貴族とも親交が深い投資家だ。彼女がMである可能性は30パーセント。俺が行く。お前はあちらの、宝石商の夫人の相手をしろ。夫人もMである可能性が否定できない」「はい。ですが、旦那様。……その前に少し、よろしいでしょうか」「なんだ」「あちらのソファに座っていらっしゃる、あの方ですが」 小夜子が指したのは、メインの動線から大きく外れた大理石の円柱の陰にある小さなソファだった。 そこに一人の老婦人が座っていた。地味な茶色のスーツに、使い古された布製のバッグ。華やかなVIPたちのなかで、彼女だけが背景に溶け込むように気配を消している。「ああ、あの婦人か。名簿によれば、リネンサプライ業者の親族だ。地域貢献の一環で招待した枠だろう。失礼のない程度に挨拶だけしておけばいい。今はMの捜索が最優先だ」「……そうですか」 隼人はそれだけ言い残し、投資家の方へと迷いのない足取りで去っていった。 残された小夜子は、円柱の陰の老婦人をじっと見つめる。(あの方は、先ほどから3分おきに座り直していらっしゃる。このソファ、高さが3センチほど合っていないのだわ。それに……) 老婦人は時折、顔をしかめて右の踵を気にしていた。小夜子は自らのハンドバッグに手を触れた。 そこには、家政婦時代から欠かさず持ち歩いている「7つ道具」が入っている。 小夜子は隼人の指示を無視して、静かに歩み寄った。「失礼いたします。宜しければ、こちらの絆創膏と、予備のスリッパをお使いになりませんか?」 老婦人が驚いたように顔を上げた。その瞳は濁りがなく、深く澄んでいる。
グランドオープンまであと10日。ホテル『サンクチュアリ』の空気は、極限まで張り詰めていた。 現在はプレオープン期間の中盤。招待客を迎えるロビーには高価な香水の香りと、それ以上に濃い「緊張」が漂っている。 プレオープンとは、グランドオープンを前に招待客たちにホテルを解放する、いわば試験営業である。 本番と同様の営業を行うことで、料理提供の動線やスタッフの動きなどを確認し、課題を改善するのだ。 グランドオープンしてからでは改善が難しい事柄も、小規模なプレオープンであれば対処しやすい。 またプレオープンの客が満足すれば、クチコミやSNSでの宣伝が見込める。 現在はグランドオープンを目前にした、最終調整の局面だった。 この段階での大きな失敗は許されない。 グランドオープンの成功は、今にかかっていると言っても過言ではなかった。◇ アーク・リゾーツ社、最上階の社長執務室で、黒崎隼人は一枚のレポートをデスクに叩きつけた。「……隣町のホテル『ベルヴェデーレ』が、星を一つ落としたそうだ」「昨夜のことですね」 小夜子は淡々と答えながら、隼人のデスクに一杯のコーヒーを置いた。『ベルヴェデーレ』は、この地域でサンクチュアリの最大のライバルとされる老舗ホテルだ。その格付けが下がった理由は、たった一つ。「匿名評論家『M』か」 隼人の目が鋭く光る。 正体不明。性別も国籍も不明。だがその審美眼は誰よりも正確で、彼――もしくは彼女――に「NO」を突きつけられたホテルは例外なく没落の道を辿る。「Mはベルヴェデーレを去った後、消息を絶っている。……だが、次は間違いなくうちに来る。このプレオープンの混乱を狙ってな」 隼人は立ち上がり、窓から見える眼下の街並みを睨み据えた。 プレオープンの客は、完全招待制。一般客は入場できない。 ゆえに全員の身元が割れているのだが、Mらしき人物は見つからなかった。 その焦りが隼人の
「ご挨拶に伺っただけですわ、郷田様。父が大切にしていた『伝統』を理解してくださる方は、もう貴方様しかいらっしゃいませんもの」 麗華は郷田の杯に酒を注いだ。徳利を持つ指先を、これみよがしに艶めかしく見せる。「悔しいのです。白河の暖簾(のれん)が、あんな……礼儀も伝統も知らない『成り上がり』に汚されていることが」 郷田の眉がピクリと動いた。成り上がり。その言葉は、保守派である彼の逆鱗(げきりん)に触れるスイッチだった。「黒崎のことか」 郷田が苦々しく吐き捨てた。「あの若造は気に入らん。挨拶もそこそこに、すぐに数字の話をしおる。ホテルは『心』だ。効率だのITだのと、客をデータ扱いするような奴に、真の『おもてなし』など分かるはずがない」 郷田にとって、アーク・リゾーツの急成長は目障りな存在だった。自分の既得権益を脅かす、礼儀知らずの侵略者だと考えている。「おっしゃる通りですわ」 麗華は同調し、さらに毒を盛る。「あいつは白河の家柄だけを金で買い、中身を捨てました。私の義妹、小夜子もそうです。卑しい生まれの娘が黒崎の金に目が眩んで、白河の顔に泥を塗っています」 麗華はハンカチを目元に当て、嘘泣きの演技をした。「近く開かれる『サンクチュアリ』のグランドオープンパーティ……。あんな場所に、伝統を汚す者たちが我が物顔で立つなんて。先祖に申し訳が立ちません」 サンクチュアリは隼人肝いりの新ホテルである。 郷田が杯をダンッ、とテーブルに叩きつけた。「サンクチュアリだと? ふん、何が聖域だ。どうせ金ピカの成金趣味だろう」 郷田の顔に、どす黒い愉悦の色が浮かんだ。新しい獲物を見つけた猛獣の目だった。「面白い。そのパーティ、わしも招待状を持っているが行く気はなかった。だが、気が変わったぞ」 郷田はニヤリと笑い、麗華を見た。「正しい伝統とホテルの心の何たるか、若造に教えてやる必要があるな。……白河の娘、麗華だ
白河邸の一室にて。 小夜子の義姉・白河麗華は、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。 少し前までは華やかだったはずの女性はそこにおらず、いるのはみすぼらしく顔色の悪い女だった。 目元のくまをファンデーションで厚く塗り隠す。 唇には派手な赤いルージュを引いた。かつては毎月のようにオーダーしていたハイブランドの洋服も、今はクローゼットに残った数少ない過去の栄光を引っ張り出して着るしかない。 それらの服も手入れを怠っていたので、本来の美しさを失っていた。(……許さない) 麗華はルージュのスティックを握りしめた。あの薄汚いメイド――小夜子のせいで、白河家は笑いものだ。 借金取りの電話は鳴り止まず、社交界からは冷ややかな視線が注がれている。 両親は毎日怒鳴り合いの喧嘩をするばかりで、不毛な時間が流れている。 かつて名門老舗旅館グループのお嬢様としてちやほやされていた自分が、今や腫れ物扱いだ。 全てはあの女が黒崎隼人に取り入り、調子に乗っているからだ。 3億円で成金に売られたはずの義妹・小夜子は、あろうことかその成金から愛されて大事にされている。 冷遇されて泣いているとばかり思っていたのに。 雑誌に溺愛されている記事が掲載されて、嘘だと思ったけれど本当だった。小夜子を取り戻しに黒崎隼人の会社に乗り込んだら、追い返されたのだ。(私の人生を盗んだ泥棒猫が。引きずり下ろしてやるわ。黒崎の妻の座は私が座るはずだったのに) 成金を嫌って小夜子に役目を押し付けた過去は、麗華は都合よく忘れ去っている。 今の彼女にあるのは、醜い嫉妬だけだった。◇ 麗華はハンドバッグを掴み、夜の街へと繰り出した。 向かった先は会員制の高級割烹。没落した今の白河家には敷居が高いが、父の古い名刺と、最後の小銭をはたいてコネクションを作った。 狙いは一人。財界の重鎮、郷田重造(ごうだ・じゅうぞう)である。 個室の障子が開くと、紫煙の向こうに太った中年の男が座っ