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79:ハイエナの嗅覚

last update Date de publication: 2025-12-31 10:15:35

 ――左手の甲が、熱い。

 アーク・リゾーツ本社、最上階の社長室。小夜子はいつものように、淹れたてのブラックコーヒーを革張りのデスクに置いた。

 コーヒーを淹れるのは秘書の役割だったが、いつの間にか小夜子が社長室まで出社し、給仕をすることになっていた。

 湯気越しに視界に入った自分の左手を見て、心臓が嫌な音を立てる。

 昨夜、洗面所で隼人に押し付けられた唇の感触。それが火傷のように皮膚に残っていた。血管の奥で、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえるような気がする。

(……メンテナンス、とおっしゃっていたけれど)

 上書き。俺の商品。彼の言葉は事務的だった。だが、あの時の濡れたような瞳と首筋にかかった荒い吐息は、とても「業務」とは思えなかった。

 小夜子は、窓際で腕を組んでいる隼人の背中を盗み見た。彼は今朝から、極めて機嫌が悪い。

「……コーヒーが濃い」

 隼人は小夜子の方を見向きもせず、一口飲んでカップを置いた。

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   343

    (私たちの聖域が……みんなの居場所が、壊される……) 小夜子は強く手を握りしめた。 隼人の方を向くと、彼はモニターを見つめたまま微動だにしなかった。 その表情は嵐の前の海のように静かで、深い。「黒崎社長、対抗策はどうしますか? ホワイトナイトを探しますか? 自社株買いでしょうか?」 翔吾が言う。 ホワイトナイトとは、買収防衛策の1つだ。 新たに友好的な買収者(ホワイトナイト)を見つけて協力し、買収もしくは合併する手法である。 ホワイトナイトにとっては想定外の買収になるので、資金繰りの問題が発生する。そう簡単には見つからないのが普通だ。 翔吾の言葉に隼人は首を横に振った。「……今のキャッシュフローでは、タイタン・キャピタルの物量作戦には太刀打ちできん。正面から買い増しを挑むのは下策だ」「じゃあ、指をくわえて見ていろと言うのですか!?」「そうは言っていない」 隼人は立ち上がると、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。「御子柴は1つ大きな間違いを犯している。彼は『人間』を、ただのコストとしか見ていない。だがこのホテルを支えているのは、数字では測れない『信頼』という資産だ」 隼人が小夜子に向き直った。 その瞳には、絶望の影はない。「小夜子。これはビジネスという名の戦争だ。奴らは札束で人の心を買い叩こうとしている。だが、お前が育てたスタッフたちのプライドまで買えると思ったら大間違いだ。そうだろう?」 小夜子は隼人の言葉を聞いて、深く息を吸い込んだ。 肺の奥まで新しい空気が入り込み、混乱していた思考が少しずつ整っていく。(そうね。私は元々、捨てられた娘。何も持たずに白河家を出て、そこから一歩ずつ、自分の手で居場所を作ってきた。今更、お金で脅されたところでどうということもありません) 小夜子は一歩前に踏み出した。「隼人さん。私にできることを教えてください。総支配人として、

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   342

    「これは……仕掛けられているな」 隼人の声が低く、厳しく響いた。 このような勢いで株価が上がるのは、あまりにも不自然だ。通常の取引ではありえない。 隼人はすぐに買い占めの可能性に気づいた。「ただの買い占めじゃない。浮動株が根こそぎ攫われてる。犯人は――」 その言葉を遮るように、壁の大型モニターが自動的にニュース速報に切り替わった。『速報です。グラン・ヘリックス日本支社が、ホテル大手アーク・リゾーツに対し、敵対的TOB(株式公開買付け)を開始すると発表しました。買付け価格は市場価格の50パーセント増し。グラン・ヘリックスは、背後に控える北米最大の投資ファンド「タイタン・キャピタル」からの全面的な資金援助を受けており――』 画面には、高価なスーツに身を包んだ御子柴玲二の姿が映し出されていた。 御子柴はカメラに向かって、薄ら笑いを浮かべながら宣言した。『アーク・リゾーツの経営陣は、前時代的な「おもてなし」という幻想に執着し、株主の利益を損なっている。我々グラン・ヘリックスは、最新のAI技術と徹底した合理化により、この組織を真の収益モデルへと変革させる。感情という名のバグを排除し、完璧なシステムを構築する。そうして向上した収益は、株主へと還元する。それが株主への誠意だ』 小夜子は思わず身を乗り出した。ローテーブルに添えた手から血の気が引いている。「そんな……。御子柴さん、まだ諦めていなかったのですね」「総支配人、それだけではありません。この買付価格を見てください。市場価格の50パーセント増しなど、普通ではありえません。個人株主や機関投資家がこぞって売りに出し始めています。このままだと一週間もしないうちに、過半数を握られる可能性すらあります!」 翔吾の声には、これまでにない焦りが混じっていた。 彼の論理とデータは、アーク・リゾーツの不利をはっきりと描き出してしまっている。 部屋の中に、重い沈黙が流れた。 御子柴の狙いは明らかだ。 せせらぎ亭での完全敗北と、スキ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   341

     バックオフィスでは、黒崎翔吾が複数のモニターを並べ、複雑な数式と格闘している。「翔吾さん、少し休憩してはどうですか? 目が疲れていますよ」「……あ、総支配人。いや、これ、新しいスタッフ配置の最適化システムを組んでるんです。せせらぎ亭での経験を反映させたら、もっと効率が上がるはずだと思って」 19歳の翔吾は、かつての「冷徹なAI少年」の面影を残しつつも、その内面には温かな熱が宿り始めていた。「数字も大事だけど、人間には休息が必要ですよ。はい、目薬」「あ、ありがとうございます。……あ、そうだ。実加さんに伝えておいてください。今日のシフトが終わったら、理玖の離乳食の作り方を教えると」「あら、翔吾さんが教えるのですか?」「彼女、この前『栄養バランスとか面倒くさい』とか抜かしたんですよ。僕の論理的な献立案を無視するなんて万死に値する。だから徹底的に叩き込みます」 そっけない言い方だ。 けれどそこには実加と理玖への深い思いやりが透けて見えた。 小夜子は(ふふ、名コンビね)と思いながら、エレベーターに乗った。目指すは上階の社長室だ。 社長室の扉を開けると、そこには最愛の夫であり、最高のビジネスパートナーである黒崎隼人がいた。 彼は書類の山に囲まれつつも、小夜子の気配に気づくと顔を上げた。「小夜子、ちょうどいいところに。……その香りは、ミントか?」「ええ。少しお疲れのようだったから、リフレッシュできるハーブティーを淹れてきました。お茶請けは昨日焼いたガレット・ブルトンヌです。バターをたっぷり使ったので、脳の栄養補給にぴったりですよ」 小夜子が手際よくカップに茶を注ぐと、澄んだ液体から爽やかな湯気が立ち上る。 隼人はそれを一口飲み、深い息を吐き出した。「助かる。……お前の淹れる茶を飲むと、自分がただの『社長』ではなく、一人の『人間』に戻れる気がするよ」「まあ、大げさですね。私はあなたの妻であり、

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   340:全面戦争開始

     太陽の光がホテル『サンクチュアリ』のガラス外壁に反射し、眩しいほどの輝きを放っている。 黒崎小夜子は、総支配人としてのモーニングルーティンをこなしていた。 手には黒い革表紙のメモ帳を持つ。ロビーの隅々まで目を光らせ、わずかな埃も見逃さない。「おはよう、佐藤さん。あそこの観葉植物、葉の先が少し乾いています。霧吹きをしてあげて」「あ、はい! すぐやります、総支配人」 名指しされたスタッフはすぐに霧吹きを持ってきて、乾いていた葉先に水を吹きかけた。 きびきびと動くスタッフたちの姿に、小夜子の口元が自然と緩んだ。(やっと、この場所がみんなの『家』として機能し始めましたね) 少し前まで、ここはスキャンダル攻撃によって重苦しい空気が支配していた。 しかし今は活気と自信に満ちている。 ライブ配信で真実が伝わったあの日から、世間の風向きは完全に変わった。 応援の声は予約数となって現れ、連日満室という嬉しい悲鳴が続いている。(さて、次は……) 小夜子はリネン室のバックヤードへと足を運んだ。 そこには、大量のシーツをカートに積み込む山内実加の姿があった。「実加さん、調子はいかがですか?」「師匠! 仕事は問題ないっす。そんで聞いてくださいよ。理玖が今朝初めて『マンマ』って言った気がするんです!」 実加は顔を輝かせ、大きな瞳をさらに見開いた。 18歳のシングルマザーである彼女は、この数ヶ月で見違えるほどプロの顔つきになった。 以前の荒々しさと刺々しさは消えた。 今は「理玖を立派に育てる」という目標が、彼女の芯を強くしている。「それは嬉しいですね。きっと実加さんの頑張りが伝わったのでしょう」「へへ。だからウチ、今日中にこのフロア全部、ピッカピカにしてやりますから。シーツのシワ一つ許さねえッス!」「頼もしいわ。でも、無理はしないでくださいね。先ほど保育所の『こぐまの森』へ様子を見に行ったら、理玖くんはお昼寝をしていました。天使のよう

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   339

     SNSのメッセージはなおも続いている。『社内保育所完備とか、アーク・リゾーツって従業員を全力で守る最高の会社じゃん』『炎上した社員をクビにするんじゃなくて、記者会見までして守ってさ。そりゃあ片方は社長の弟だけど、もう1人は他人でしょ?』『過去を乗り越えた兄弟のホテル、絶対泊まりに行く!』『来月の旅行、サンクチュアリに予約入れた! 応援してます!』 SNSのメッセージは、アーク・リゾーツ社へ味方するものばかりに変わっていた。 スキャンダルによってブランドを失墜させるという御子柴の目論見は、完全に崩れ去った。 それどころか、ピンチを逆手にとった彼らの行動は、世間の絶大な共感と支持を集める結果となってしまったのだ。 結果としてアーク・リゾーツ社の株価は急反発を見せている。 傍らの端末では、サンクチュアリへの新規予約が殺到している様子が見て取れる。 予約サイトはあっという間に満室になっていた。 御子柴は忌々しげにネクタイを緩めると、モニターの中の隼人を冷酷な目で見つめた。「綺麗事でいつまで持つか。現場の熱だの、人の情だの、そんな曖昧なもので会社が守れると思っているなら大間違いだ」 薄い唇が三日月の形に歪む。 彼にとって会社の経営とは、ただ利益という数字の追求以外にない。 そのやり方で御子柴はのし上がった。30代にして大手外資ホテルチェーンの支社長にまで成り上がった成果が、正しさを証明している。 だから彼は、アーク・リゾーツの主張を認めるわけにはいかないのだ。 認めてしまえば、自分を構成する経歴が足元から揺らぐ。 切り捨ててきた人々の悲鳴を踏みつけ、犠牲をものともしなかった道が間違っていたなど、到底認められない。 せせらぎ亭の嵐の夜に感じた温かさは、今となっては彼の汚点でしかない。 御子柴のやり方でアーク・リゾーツに打ち勝ち、あの会社を飲み込むことだけが存在意義の証明になる。「次は力でねじ伏せてやる。――TOBの準備を進めろ。奴らの城を、根こそぎ奪い

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   338

    「アーク・リゾーツには、従業員のための素晴らしい社内保育所があります。保育士さんたちが愛情を持って理玖の面倒を見てくれているからこそ、アタシは夜遅くまで安心して働くことができるんです。育児放棄なんかじゃない! 理玖を立派に育てるためなら、トイレ掃除でもベッドメイキングでも、なんだって全力でやります。それがウチの母親としての責任です!」 実加の飾らない、心の底からの叫びだった。 その言葉はカメラのレンズを越えて、画面の向こう側にいる同じように働く母親や、理不尽な状況で苦しむ人々の心に強く響いた。 会場の空気が完全に反転したのを確かめて、隼人が立ち上がる。「アーク・リゾーツは、過去の出自や経歴で人を切り捨てるような会社ではありません」 隼人の声は、会場の隅々にまで響き渡る重みを持っていた。「過去の出自や経歴で人を見限るのではなく、今、現場で汗を流し、お客様のために全力を尽くす彼らこそがアーク・リゾーツの誇りです」「ええ、そのとおりです。アーク・リゾーツ社は責任感のある人を歓迎します。真面目に働くのであれば、過去は関係ありません。採用試験は随時行っておりますよ」 小夜子が微笑む。「我々の言いたいことは、以上です」 4人が立ち上がって一斉に頭を下げた。 フラッシュの嵐が再び巻き起こる。 けれど向けられているのはもはや好奇の目ではなく、明らかな称賛だった。「素晴らしい理念です。悪意のある世論に惑わされず、芯を貫いている」「感銘を受けました」 記者たちが拍手を始める。 鳴り響く拍手の中、4人は深く頭を下げ続けていた。◇ 同じ頃、グラン・ヘリックス日本支社の社長室。 ――ガツンッ! 白とグレーで統一された無機質な空間に、硬質な音が響いた。 御子柴玲二が、手元のクリスタルグラスを乱暴にテーブルに叩きつけたのだ。 氷が激しく揺れて、琥珀色の液体がテーブルに飛び散る。「……ふ

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