Se connecter――左手の甲が、熱い。
アーク・リゾーツ本社、最上階の社長室。小夜子はいつものように、淹れたてのブラックコーヒーを革張りのデスクに置いた。 コーヒーを淹れるのは秘書の役割だったが、いつの間にか小夜子が社長室まで出社し、給仕をすることになっていた。湯気越しに視界に入った自分の左手を見て、心臓が嫌な音を立てる。
昨夜、洗面所で隼人に押し付けられた唇の感触。それが火傷のように皮膚に残っていた。血管の奥で、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえるような気がする。(……メンテナンス、とおっしゃっていたけれど)
上書き。俺の商品。彼の言葉は事務的だった。だが、あの時の濡れたような瞳と首筋にかかった荒い吐息は、とても「業務」とは思えなかった。
小夜子は、窓際で腕を組んでいる隼人の背中を盗み見た。彼は今朝から、極めて機嫌が悪い。「……コーヒーが濃い」
隼人は小夜子の方を見向きもせず、一口飲んでカップを置いた。
「えっ、基本給が倍になるのって、最初の半年だけなんですか!?」 20代の若いベルボーイが、配られた資料を見つめながら素頓狂な声を上げた。「ああ。半年後にはリストラが待ってる。ここに書いてある通り、過去のホテルじゃ8割の人間がクビを切られてるんだ」 フロントマネージャーが厳しい顔つきで答える。「うそでしょ……。私、車のローンが一気に返せると思って、昨日からディーラーのサイトばっかり見てたのに」 パートの女性スタッフが、がっくりと肩を落とした。「AIシステムって何ですか? 俺たちの仕事、機械に奪われるってことですか?」「客室の清掃管理やシフト作成をシステム化して、人員を極限まで削るらしい。残った人間にはとんでもないノルマが課せられる。未達なら即減給だ」 フロントマネージャーの説明に、休憩室は騒然となった。「そんなの詐欺じゃないですか!」「前の会社にいた時、外資に買収されて同じような目に遭った先輩を知ってます。成果主義って聞こえはいいけど、結局は人件費を削るための口実なんですよね」 30代の男性スタッフが、忌々しげに舌打ちをした。「ボーナス保証なんて言葉も、全部嘘だったんですね。危うく信じるところだった」 スタッフたちの間で、次々と不満と怒りの声が上がり始める。 昨日までの買収に対する期待やフワフワとした幻想は、現実の冷酷なデータによって完全に打ち砕かれていた。 ざわめきの中、ひときわ大きな声が休憩室に響き渡った。「だから、ウチは最初から信じないって言ったじゃないですか!」 山内実加だ。 彼女はパイプ椅子から勢いよく立ち上がり、腰に両手を当てて周囲のスタッフたちを見回した。「あんなの、どこの誰とも知らないスーツ着たおっさんが、勝手に言ってるだけッスよ。ウチらの顔も、名前も、どんな風に仕事してるかも知らないくせに、給料倍にしますなんて、そんなうまい話あるわけないじゃないですか」 実加の言葉はぞんざいで飾り気がなかったが、不思議な説得力を持
「AI導入による業務効率化で、8割の従業員をリストラ……? なんだよこれ。残ったスタッフも、厳しいノルマで減給続きじゃないか」 フロントマネージャーの目が、レポートのグラフに釘付けになっている。「この3ページ目の口コミを見てください。買収された『ホテル・シーサイド』の元従業員の声です」 小夜子が促すと、宴会部門のリーダーがその部分を声に出して読み上げた。「『給料が上がるという言葉を信じて同意したが、半年後に突然退職勧奨を受けた。拒否すると、今まで経験のない深夜の清掃部門に回され、体調を崩して辞めざるを得なかった。残った同僚も1人で3人分の仕事を押し付けられている』……ひどすぎる」「これが、彼らの言う『正当な報い』の正体です」 小夜子は真っ直ぐにチーフたちを見つめた。「彼らは、皆様の生活を守る気などありません。今提示されている好条件はホテルを内部から切り崩すための、ただの甘い毒です。飲み込めば、半年後には取り返しのつかないことになります」「そんな……」 チーフたちの顔から、先ほどのよそよそしさは消え失せていた。 代わりに浮かんでいたのは、騙されかけていたことへの怒りと、安易な条件に飛びつこうとした自分たちへの後悔だ。「俺たち、すっかりあの動画の言葉に乗せられてました……」 フロントマネージャーが手で顔を覆った。「危ないところでした。もしこのまま彼らのペースに乗せられていたら、現場のスタッフたちを全員路頭に迷わせるところだった」 レストラン部門のチーフがレポートを強く握りしめる。紙の端がくしゃりと折れ曲がった。「総支配人、この資料、現場のスタッフに見せてもいいですか? 全員に真実を知らせる必要があります」 宴会部門のリーダーの言葉に、小夜子は深くうなずいた。「ええ、お願いします。トップからの頭ごなしの説明ではなく、日頃から苦労を共にしている皆様の言葉で伝えていただくのが、一番確実ですから」
チーフらの視線は泳ぎ、小夜子と目を合わせることを避けていた。 よそよそしい態度から、彼らの本音が待遇改善案に大きく揺れていることがうかがえる。「お忙しいところ、集まっていただきありがとうございます」 小夜子はグレーのスーツの背筋を伸ばし、テーブルの上座から彼らに語りかけた。「昨晩のニュースや、ロッカールームに撒かれたビラの件で、皆様が動揺されているのは承知しております。本日は、現場を預かる皆様の率直な意見を伺いたくて、お時間をいただきました」「……それは」「…………」 部屋に重い沈黙が落ちる。しばらくの間、エアコンの稼働音だけが聞こえていた。 やがてフロントマネージャーが、ネクタイの結び目を無意識に触りながら口を開いた。「……総支配人。正直に申し上げます。現場のスタッフたちは、かなり疲弊しています。先日のネット炎上の際も、フロントには嫌がらせの電話が鳴り止みませんでした。クレーム対応の最前線に立たされるのは、いつも現場の人間なんです」 彼の言葉を皮切りに、せきを切ったように他のチーフたちも話し始めた。「レストラン部門も同じです。あんな騒ぎの後は、お客様の目線が気になって、スタッフたちの笑顔も強張っています」 レストラン部門のチーフが腕を組み、眉間に深い皺を寄せた。「その上、基本給2倍なんて話が出れば、そりゃあ心も揺らぎますよ。うちの若いスタッフの中には、来年子供が受験を控えている奴もいます。親の介護費用が嵩んで、毎月のシフトを増やしてくれと泣きついてくるパートさんもいるんです」「宴会部門も、キャンセル対応で連日残業続きでした。大手の傘下に入って、外資系のコンプライアンスで守ってもらえるなら、その方が安心なんじゃないかって、そういう声が出るのも当然です」 宴会部門のリーダーの口調には、経営陣に対する微かな非難の色が混じっていた。 彼らの言葉は、日々の生活と直結した切実なものだ。 小夜子は彼らの言
見えない不安と闘うのは難しいものだ。 しかし相手の手口が具体的な数字として現れた以上、対処の方法はいくらでも考えられる。 小夜子の思考はすでに次のフェーズへと切り替わっていた。「見事なデータだ、翔吾。これで相手の虚言を完全に崩せる」 隼人がソファから身を乗り出して、タブレットの画面をスワイプした。「問題は、この事実をどうやって現場の従業員たちに伝えるか、ですね」 小夜子は顔を上げて、隼人と翔吾を交互に見た。「全体集会を開いて一斉に発表するのは、避けた方が良いと思います。今の疑心暗鬼に陥った空気の中で経営陣がマイクを握っても、『買収を焦った経営側の引き留め工作だ』と誤解されかねません」「僕も総支配人の意見に賛成です」 翔吾がうなずき、手元の資料をトントンと机で揃えた。「人間は自分が信じたい情報を優先する傾向があります。特に生活がかかっている今は、数字だけを見せても反発される可能性があります。実加さんでも一目でわかるような、シンプルなグラフと、実際に買収されたホテルの元従業員たちの生々しい口コミを交えたレポートをすぐに作成します」 実加の名を口にする時、翔吾はちょっとだけ笑ってみせた。 この緊張感漂うミーティングの中で、ほんのわずかの温かさが宿ったようだった。 小夜子は微笑み返す。「助かります、翔吾さん。……では、伝え方はこうしましょう。トップダウンの指示や発表ではなく、各部門のチーフやリーダーたちと少人数でのミーティングを開きます。直接彼らの不安や本音を聞きながら、会話の中でこの資料を提示するのです」 小夜子の提案に、隼人が短くうなずいた。「わかった。俺と小夜子で手分けして、各部門の責任者たちと話をしよう。翔吾、レポートの印刷を急いでくれ」「承知しました、社長」 翔吾は手早くタブレットを抱えて一礼すると、足早に社長室を後にした。◇ それからしばらく後の、午後1時。
社長室に満ちてるのは淹れたてのコーヒーの香りではなく、プリントアウトされたばかりのインクの乾いた匂いだった。 室内のエアコンは規則的な送風音を立てている。窓の外には陽光に照らされた東京の街並みが広がっているが、部屋の中の空気は緊張感に包まれていた。 小夜子はグレーのスーツの膝に手を置き、デスクの向こう側に立つ翔吾の言葉に耳を傾けていた。 彼女の隣では、隼人が腕を組んだままタブレットの画面を見つめている。「黒崎社長、総支配人。グラン・ヘリックスが過去3年間に買収した六つのホテルチェーンについて、詳細な追跡調査のデータがまとまりました」 翔吾は手元の資料を1枚めくり、指先で紙の端を弾いた。パラリという乾いた音が鳴る。「結論から申し上げますと、御子柴氏がメディアで語った『基本給2倍』という甘い言葉は、買収を成立させるための半年間限定の撒き餌に過ぎません」 翔吾の眼鏡が、頭上のダウンライトを反射して光る。 彼は手元のタブレットを操作し、大型モニターにグラフを映し出した。「買収後、最初の半年間は確かに基本給が引き上げられます。しかし7ヶ月目に入ると『AIシステム導入による業務効率化』を理由に、大規模な人員整理が始まります。過去の事例では、買収時の従業員の約8割が1年以内にリストラ、あるいは過酷な配置転換による自主退職へと追い込まれていました」 モニターの棒グラフが、1年目以降に急激に右肩下がりになっている。「残った2割のスタッフはどうなるのですか?」 小夜子が尋ねると、翔吾は手元の資料を小夜子の前に差し出した。「外資系基準の完全な成果主義に移行します。客室稼働率や単価アップのノルマが各個人に課せられ、未達の場合は容赦なく減給されます。結果として残った2割のスタッフの大半も、買収前を下回る待遇で働かされているのが実態です。充実した福利厚生も、適用されるのはごく一部の幹部候補のみでした」 小夜子は提示された資料の文字列を目で追った。そこには数字という客観的な事実が並んでいる。 御子柴は、従業員の生活や人生を向上させる気など毛頭ない。 ホ
――と。 コンコン、と控えめなノックの音が鳴ってドアが開いた。「黒崎社長、総支配人。失礼します」 翔吾が、手元のタブレットに視線を落としたまま部屋に入ってきた。「翔吾さん。現場の状況は把握していますか?」 小夜子が尋ねると、翔吾はタブレットから顔を上げ、こくりと頷いた。「ええ。ロッカールームのビラも、SNSの個別DMも確認済みです。実加さんも、鼻息を荒くして怒っていましたよ。全く、手回しが早くて嫌になりますね」 翔吾はデスクの上にタブレットを置いた。 画面には、おびただしい数のデータやグラフが表示されている。「ですが、ただ手をこまねいているわけではありません。あの甘い条件の裏付けを取るために、グラン・ヘリックスが過去3年間に手がけた買収事例を徹底的に調べています」「裏付け、とは? 何か見つかったのか?」 隼人が身を乗り出す。「基本給2倍、充実した福利厚生。彼らが本当にその約束を守っているのか、という実態調査です」 翔吾の目が、メガネの奥で鋭く光った。「投資ファンドが、無条件で人件費を倍にするような慈善事業を行うはずがありません。必ず数字のカラクリがあるはずです。例えば半年後にAI導入を理由にした大規模なリストラが待っているとか、成果報酬型への移行で実質的な賃下げが行われるとか。過去の事例をいくつか見ましたが、既に怪しいデータがいくつか散見されます」「なるほど。甘い毒の正体を、データで暴き出すということですね」 小夜子の言葉に、翔吾は「ええ」と頷いた。「感情的な説得では、お金の誘惑に勝てません。客観的なデータと事実をもって、彼らの約束が虚構であることを証明し、全従業員に突きつけます。そうすれば、疑心暗鬼に陥っているスタッフたちの目も覚めるはずです」「頼む、翔吾。一刻も早く、そのデータをまとめてくれ」 隼人の声に力が戻る。「承知しました。全力で取り組みます、黒崎社長」 翔吾が足早に部屋を出ていくと、社長室には再び静寂が戻った。