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向日葵の証明
向日葵の証明
Author: 猫宮奈々

第1話

Author: 猫宮奈々
「おしゃべり」という理由で九十九回目の婚約破棄をされた高橋咲良(たかはし さくら)は、ついに運命の相手に出会った。

噂に聞く、寡黙で冷静沈着、誰に対しても温厚で礼儀正しい、帝都の久遠財閥の次男である久遠晴人(くおん はると)だ。

二人はあるオークション会場で出会った。たまたま彼の隣に座った咲良は、三日月のように目を細めて笑い、三十分間ノンストップで喋り倒した。

それに対して晴人は終始穏やかな表情で耳を傾け、時には同意を示すように頷いてくれたのだ。

咲良はついに理解者を見つけたと思った。

「ねえ信じてよ、九桁も出してこの宝石を買ったら絶対後悔するって!私、一昨年、十億円も出して宝石を買ったの。その時はお宝を見つけたと思ったんだけど、鑑定に出したらまさかの五百円の価値しかなかったんだから。

五百円ならまだいいわ。一昨々年、私、何を競り落としたと思う?神崎清舟(かんざき せっしゅう)の真筆だって言われたのに」

ついに、晴人の秘書が堪り兼ねて口を挟んだ。「申し訳ございませんが、当社の社長は静かな環境を好みますので」

咲良の声がピタリと止む。思わず唇を引き結び、身を引いた。

やっぱり、誰も耐えられないんだ!

そう思った矢先、晴人がふと眉をひそめ、咎めるような視線を秘書に向けた。

そして咲良の方へ軽く顎を引き、温厚で礼儀正しい表情のまま、落ち着いた声で言った。「構わない。聞いているから」

ドカン!咲良は頭の中で花火が炸裂する音を聞いた。

心臓が制御不能になり、轟音を立てる。

彼女にしては珍しく、言葉を失った。

晴人が優しく問いかけるまで。「それで?続きは」

咲良は耳まで真っ赤にし、あろうことか口ごもってしまった。

「そ、それでね、十億円で鯉の名手である神崎先生が描いた鯉の絵を買ったんだけど、偽物だって言われたの。

その鯉の絵を描いたのは月村葉翔(つきむら ようしょう)だったんだって。神崎先生の描く鯉なんて、一文の価値もないわ」

晴人はわずかに目を丸くした後、口角を上げて笑った。

目尻に微かな笑いじわを刻み、口元には浅いえくぼを浮かべている。笑うと薄い唇が控えめな弧を描き、その美しい顔は、優しげでありながらどこか薄情な冷たさを帯びていた。

その瞬間、咲良は悟った。自分が完全に恋に落ちたことを。

絶対に百回目の婚約をする。この晴人と結婚するんだ。

咲良の両親は大賛成だった。久遠家は代々続く名家であり、その資産は計り知れず、帝都一の富豪であるため、高橋家の将来にとっても有益だからだ。

友人たちも大賛成だった。おしゃべりな咲良と、寡黙で温厚な晴人。理想のお似合いカップルだと言った。

咲良自身はさらに賛成だった。ついに自分のおしゃべりを許容してくれる伴侶に出会えたのだから。

そうして両家の顔合わせ、婚約、結婚と、すべてが倍速で進んでいった。

咲良はついに晴人と結ばれ、百回目にして婚約破棄の呪いを打ち破った。

しかし結婚後、咲良は晴人の致命的な欠点に気づいてしまった。

彼は本当に口数が少なく、一言一句が極めて短い。

結婚式でのスピーチですら、ただ一言、「君を大切にする」だけだった。

おしゃべりな女と寡黙な男。一緒にいると呆れるほどの凸凹コンビだ。

咲良はあの手この手で、彼に少しでも多く話させようとした。

けれど、彼女が狂ったように晴人の耳元で話し続けても、返ってくるのはいつも穏やかな一言だけ。「聞いているよ」

わざとトラブルを起こして警察沙汰になっても、本来なら厳しく叱るべき場面で、晴人は笑って済ませる。「問題ない」

さらに、心を鬼にして彼に薬を盛り、勇気を振り絞ってベルトで彼をベッドに縛り付け、「もっと甘い言葉で私を慰めて」と要求し、そうするまでは解かないと迫った時でさえ、晴人は顔を真っ赤にしながらも、極めて優しくこう言っただけだった。

「構わない、君が好きなら」

……

これほどまでに優しく善良で、自分のあらゆるわがままや欠点を許容してくれる晴人に、これ以上を求めてはいけないと、咲良は分かっていた。

けれど、何かがおかしい。

具体的に何がおかしいのか、自分でも分からない。

そんなある日、噂の晴人の妹――久遠葵衣(くおん あおい)が帰国するまでは。

葵衣は久遠家の養女で、幼い頃から久遠家で育てられたが、十六歳の時に海外留学へ出され、それから五年間一度も帰国していなかった。

咲良は葵衣の顔を知らなかったが、初対面はバーで葵衣がチンピラに絡まれていた時だった。咲良は義侠心から突っ込んでいき、酒瓶で男の頭をカチ割った。

そして、見事に自分と葵衣を警察署の留置場送りにしたのだ。

咲良は晴人に電話をかけ、ひどく後ろめたい気持ちで言った。「今回は本当にわざとじゃないの。あの男が先に手を出してきたから、あんな可愛い女の子が傷つくのを黙って見てられなくて。だから我慢できずに突っ込んじゃって、ほら私、こういうの見過ごせないじゃない?前も……」

晴人は会議中だったにもかかわらず、咲良による十分間にも及ぶ彼女の話を根気強く聞いてくれた。

警察官が我慢できずに「本題を話せ」と注意するまで。

晴人はそこでようやく笑い、極めて穏やかに言った。「大丈夫。十分待って」

しかし咲良は十分待っても、二十分待っても……

結局三十分待っても、晴人は現れなかった。

三十分後、逆に葵衣が咲良に笑いかけた。「咲良さん、旦那様はまだ来ないの?私の引き取り手が来たから、ついでにあなたも出してもらえるよう頼んであげるわ」

その時、ドアが蹴り開けられた。

次の瞬間、咲良は乱れた様子の晴人が顔を曇らせて飛び込んでくるのを見た。

彼は怒りに震えていたが、咲良の方には向かわず、葵衣の手首を掴んだのだ。「葵衣!帰国初日に警察沙汰とは、いい度胸だな?

こういう時はまず自分の安全を確保し、衝動的になるなと言ったはずだった!」

「お兄ちゃん、私……」葵衣が必死に何か言おうとする。

しかし晴人は怒りに任せてそれを遮った。「俺の説教が聞けないのか?一言言えば十言言い返すつもりか?

海外にいた数年で誰に学んだんだ。どうしてこれほど聞き分けが悪くなった!」

咲良は真剣に数えていた。

晴人の一言一句すべてが長めで、一番長いセリフに至っては、驚くべきことに四十音節にも達した。

彼は葵衣に口を挟む隙さえ与えず、一気に四回も言葉を重ねたのだ。

いつも穏やかなあの顔が怒りに満ちている。

彼にも情緒が不安定になる瞬間があるんだ。彼だって怒ることがあるんだ……

咲良は頭から冷水を浴びせられたように、全身が氷海の底へ落ちていく感覚を味わった。心の中が一気に冷え切っていく。

そうか、彼が自分に対して穏やかで寛容だったのは、ただ骨の髄まで染み付いた教養に過ぎなかったのだ。

自分は彼の感情を波立たせることができない。でも、葵衣にはそれができる!

その時、ようやく晴人は傍らにいる咲良の存在に気づいた。

彼の目に意外そうな色が走り、すぐに一歩近づいて、温かく掌を差し出した。「君もいたのか?」

なんと滑稽なことだろう。ここに入ってきてから、葵衣のことしか見ていなかったのだ。

自分がここにいることさえ、気づいていなかった。

咲良は無表情で晴人を見つめ、初めて、一言も発しなかった。

彼女は彼の手を直接振り払い、無言のまま警察署の外へと歩き出した。

晴人は空を切った自分の手を見つめ、わずかに動きを止めた。
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