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君といた、朝露と蛍火の頃
君といた、朝露と蛍火の頃
Author: 燃灯

第1話

Author: 燃灯
高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。

そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。

裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。

「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」

声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。

涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」

彼女には、どうしても理解できなかった。

自分こそが、彼の妻だったはずなのに。彼は自分を、誰よりも愛してくれていたはずなのに。

彼はかつて、一家の財産を捨て、久我家に軟禁されながらも、元は介護士だった自分を選んでくれた。

なのに、母が亡くなったあと、彼女は何度も泣いて縋った。今日の朝に至っては、九十九度目の嘆願だった。彼の足元に膝をつき、離婚すら持ち出して、どうかこの裁判だけは手を引いてほしいと願った。

だが、彼の返事はこうだった。

――「咲良、俺を追い詰めないでくれ」

苛立ったようにネクタイを緩めながら、慎也は静かに言った。「玲奈は違うんだ。彼女は十年も俺を想い続け、命まで救ってくれた」

「だから俺は、守らなきゃいけない。たとえ相手が、世界でいちばん愛してる妻であっても」

そう言うと、彼は手にしていたタブレットを操作し、画面を咲良に突きつけた。

「考える時間は二分。……自分のためじゃなくても、お母さんのことを思って、サインしてくれ。そうしたら、お母さんの遺骨を返す」

その画面の中では、海の上で、数人の屈強な男たちが檀木の骨壺を掲げている。その手が緩めば、骨壺は海に――

咲良の目から、涙が溢れ出た。「……あなた、本気なの?」

彼は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い放った。「無駄なことはやめよう。君の母さんが、ずっと海に沈んだままでいいのか?」

「慎也っ!」咲良は彼を睨みつけ、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。「……私はあなたと離婚する」

けれどその言葉にも、彼の表情は変わらなかった。

「残り、三十秒だ」

その瞬間、咲良の心臓は、何本もの針で刺されたような痛みに襲われた。

――なんて、皮肉なんだろう。この男も、かつては彼女を命よりも愛していたのに。

八年前、慎也は咲良に一目惚れをした。

当時、咲良は慎也の祖父の介護士であり、身分差は天と地ほどあった。それでも彼は、百回にも渡って想いを伝えた。

彼女がキキョウの花を一瞥しただけで、庭のバラをすべて植え替えたこともあった。

足を捻った彼女のために、病院のワンフロアを丸ごと貸し切ったこともあった。

そして、あの頃、彼女は知った。慎也の背後には、幼なじみの令嬢・白石玲奈(しらいし れいな)の存在があることを。彼女は財閥の娘であり、彼を一途に想い続けていた。

けれど慎也は、決して目移りしなかった。

――「咲良、俺が愛してるのは君だけだ。玲奈と釣り合うかどうかなんて、関係ない。彼女には嫌悪しか感じないよ」

久我家は、そんな息子を諦めさせようと彼の持ち株を取り上げ、さらには海外の孤島に強制的に送り込んだ。

それでも慎也は、二十日間の絶食という手段で周囲を屈服させた。咲良の心をも完全に打ち抜いた。

そして、ふたりは結婚した。慎也は、言葉通り彼女を命よりも大切にした――

半年前、すべてが変わるまでは。

長らく海外にいた玲奈が、突然帰国したのだ。

彼は国際会議をキャンセルしてまで空港に迎えに行き、三日間家に戻らず、彼女のために豪華な帰国パーティーを開いた。

咲良が悲しげに見つめる中、彼はこう言った。「一年前、俺はイギリスで事故に遭った。……玲奈は俺を助けて、丸一年昏睡状態だったんだ」

「咲良、俺が愛してるのは君だけだ。けど、彼女には借りがある。……一年だけ、時間をくれないか」

咲良は、その言葉を信じた。

だが、玲奈の帰国パーティー当日。咲良は持病の発作で倒れ、緊急搬送された。何度連絡しても、慎也とは繋がらなかった。

連絡がつかず、やむなく咲良の母が代わりに会場の豪華クルーザーまで向かった。

……そしてそのまま、帰ってこなかった。

誰もが「自殺だった」と口を揃えた。

現場にいなかった慎也さえも、その説を信じてしまった。

だが、救急室から出た直後、咲良は、一本の電話を受けた。電話の向こうから聞こえたのは、混乱した騒音、玲奈の怒声、そして、母の悲鳴だった。

――母は、殺された。誰かに追い詰められ、海に落ちたのだ!

この半年、咲良は自責と悲しみに押し潰されながら、それでも必死に証拠を探した。ようやく一人の元乗組員から証言を得ることができた。

そして慎也に、何度も何度も助けを求めた。

けれど彼は、咲良の願いを突き放し、母を殺した張本人を守る側についた。

彼は、母を殺した相手をかばい、証言するどころか、咲良を逆に追い詰めた。「謝罪文」へサインするよう迫り、挙句の果てには母の骨壺を利用して脅してきたのだった。

目の前の男が、まるで地獄からやってきた悪魔のように思えた。

絶望と諦めの中、咲良は震える指で、謝罪文にいびつな署名をした。

「……これで満足でしょ。早く、海から引き返させて」

かすれた声で言い終わるより先に、法廷内がざわめいた。

玲奈が突然、頭を抱えてうずくまったのだ。「慎也……助けて……また、頭が……」

その瞬間、慎也はタブレットを放り出し、彼女のもとへ駆け寄った。

だが画面の向こうでは、すでにカウントダウンが終わっていた。命令がなかったため、護衛たちは骨壺を開け――

「やめて!サインしたじゃない!慎也、早く止めて!」

咲良が叫んでも、彼女の言葉に誰も耳を貸さなかった。

彼の心は、玲奈しか見えていなかった。咲良を押しのけ、彼女を抱えて法廷を出ようとした。

彼の肘が咲良にぶつかり、彼女は床に倒れ込んだ。額が机の角にぶつかり、タブレットの上に涙が落ちていった。

遅かった。

船の上から、母の遺骨が撒かれていく。冷たい海風にあおられ、灰は波の中へと消えていく――

心を引き裂くほどの後悔と絶望が、咲良を飲み込んだ。

母は、寒いのが苦手だった。冷たい海が、大嫌いだった。そんな場所に、彼女を閉じ込めてしまった。

「……ごめんなさい、お母さん……」咲良は泣き崩れた。

ああ、どうしてあの男を愛してしまったのか。どうして彼と、結婚なんかしてしまったのか。

後悔の鐘が、頭の奥でひたすら鳴り響いた。

視界がぐらりと揺れ、世界が暗く沈んでいく――耳に届いたのは、遠くで聞こえる彼の声だった。

「玲奈、頑張れ……お願いだから、君が元気でいてくれれば、俺は何だってする!」
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