Share

2話. 三歩、半歩

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:01

手首をつかむ力は、容赦がなかった。

それでも千紗は悲鳴を上げず、静かに呼吸を整えた。

肌に食い込む、硬いまめの感触。七年間、夜明けのトラックを一緒に走り、嫌というほど握ってきた蓮の右手だった。

「……神崎先輩」

千紗は低く、落ち着いた声で呼びかけた。

蓮の肩が、目に見えて強張る。暗がりで焦点を探していた黒い瞳に、戸惑いがよぎった。

「朝倉……千紗?」

「はい。二年の朝倉千紗です」

蓮の視線が、千紗の顔のどこかをかすめて通り過ぎた。焦点の定まらない目には、激しい不安と身を守ろうとする本能が宿っていた。

右手を見下ろすと、火傷でもしたように千紗の手首を放した。

「……ここで何してる」

冷えきった声だった。弱っているところを後輩に見られた羞恥が、鋭い棘になって突き出している。

「森川コーチに、記録表を届けるところでした」

千紗は痛む手首をさすりながら、蓮のつま先のすぐ前にある、修理中のハードルを示した。

「入り口にハードルが置いてあったので。先輩が足を引っかけそうになって、声をかけたんです」

蓮の顎に、ぐっと力が入る。

暗い床を見ようとしている。けれど、明るいトラックから急に地下通路へ入ったせいで、暗順応がまったく追いついていなかった。

通路を覆う影の中では、かろうじて感じ取れていた明暗の差さえ曖昧になる。

蓮には、ハードルがどこにあるのかも見えていなかった。

千紗は前の人生のように大騒ぎして腕をつかんだりしなかった。気の毒そうな目で見つめることもしない。

ただ三歩離れた場所から、落ち着いて方向を伝えた。

「右に三歩、よければ通れます。壁側に手すりがありますから」

蓮が眉をひそめる。

「自分でできる」

傲然と顎を上げ、一歩を踏み出そうとした。けれど、突き出したハードルの脚につま先が当たり、上半身が大きく傾いた。

「ちっ……!」

唇から、荒い息が漏れる。

床へ倒れかけたその瞬間、千紗の手が蓮の肘をしっかりと支えた。

「先輩。意地を張って足首の靱帯を傷めたら、来月の春季大会に出られませんよ」

蓮がはっとして、動きを止めた。

千紗はハードルを足で押し、道を空ける。金属が床を擦る音に、蓮の顔がぴくりと動いた。転びかけた場所がどれほど近かったのか、ようやくわかったらしい。

「支えてますから、壁の手すりをつかんでください。三歩だけです」

肘に軽く手を添え、右へ導く。蓮は荒い呼吸を繰り返しながらも、千紗に合わせて足を動かし、冷たいステンレスの手すりを握った。

確かな支えに触れると、肩に張りつめていた緊張が、少しだけほどけた。

「……見たのか?」

壁に手をついたまま、蓮が低く尋ねた。声が、かすかに震えていた。

「何をですか?」

「俺が……レーンが見えなくて、ふらついてたところ」

千紗は少し黙った。嘘でごまかしたところで、何の助けにもならない。

「はい。見ました。ほかの人に勝手に話したりはしません。でも、困っていることがあるなら、コーチには話してみてください。今だって、危なかったでしょう」

蓮がゆっくり顔を向けた。まだ焦点は合っていない。その目には、深い衝撃と疑問が浮かんでいた。

同情もせず、騒ぎもせず、噂にしようともしない後輩。

自分の知る西都体育大陸上部の、騒々しく身勝手な連中とは、まるで違う態度だった。

「先輩、私、先に行きますね。森川コーチが待ってるので」

千紗は未練なく背を向けた。以前のようにバッグを持ってやったり、寮の部屋までついていって薬を塗ってやったりはしない。

蓮は暗い通路に一人立ち、遠ざかっていく、確かで軽やかな足音を長い間聞いていた。

* * *

翌朝、グラウンドのメイントラック。

初夏のように暑い四月の日差しの下で、陸上部の全体練習が行われていた。

蓮は昨日の不安を振り払うように、サングラスをかけてブロックに立ち、無理に100メートルダッシュを繰り返していた。

タンッ、タン!

狭くなった視野で白線を踏むまいと、強引に歩幅を縮める。そのせいでスタート区間の足首がねじれ、タイムは10秒8台まで落ち込んでいた。

森川真紀(もりかわ・まき)コーチがストップウォッチを見て、舌打ちした。

「神崎! 今日の蹴り出しはどうした? 骨盤がずっと右に流れてるぞ!」

蓮は唾をのみ、汗に濡れた前髪をかき上げた。

「すみません。もう一本、走ります」

「もういい。十分休んでからだ」

遠くで見ていた千紗は、苦い息を吐いた。体の異変を隠して無理に走り続ければ、行き着く先は破綻しかない。

千紗は、自分の練習に意識を戻した。六レーンのブロックの前に座り、臀部の筋肉の弾力や、足底の筋膜が返してくる力を一つずつ確かめる。

以前の壊れてしまった体とは違う。今の体は羽のように軽く、ばねのようにしなやかだった。

軽く三十メートルを走り抜けると、足裏に吸いつくようなトラックの反発が、心地よく背筋に伝わった。

そのとき背後から、靴底がウレタンを乱暴に擦る音とともに、誰かが近づいてきた。

「朝倉千紗」

冷えきった声。

振り向くと、派手なユニフォームにコーチジャケットを羽織った四年生、桐谷沙耶が立っていた。

西都体育大の女子短距離を牛耳り、黒田監督の寵愛を笠に、あらゆる特別扱いを受けてきた先輩だ。

その手には、千紗が昨日、自分で事務室に出した春季大会の申込書のコピーがあった。

沙耶は顎を上げ、紙を千紗の胸元に投げつけるように突き出した。

「あんた、どういうつもり?」

千紗は宙を舞う書類を、軽くつかみ取った。

「選考会の申込書ですけど」

沙耶が、呆れたように鼻で笑った。

「女子の申込書は、私がまとめて出すって言ったよね? 先輩の話、聞いてなかったわけ?」

顔が触れそうな距離まで迫り、毒を含んだ目で見下ろしてくる。

「四年は卒業前で、実業団のスカウトがかかってるの。あんたみたいな二年が、もう選考会に首を突っ込む時期じゃないでしょ。先輩が先。枠が余ったら、あんたの番なの」

以前の千紗は、この言葉に凍りついて頭を下げた。先輩たちの理不尽な結束に押しつぶされ、自分で自分の名前を消した。

けれど今の千紗は、瞬き一つしなかった。

むしろ口元にすっきりと笑みを浮かべ、はっきりと言い返した。

「桐谷先輩。トラックは、学年順に並ぶ列じゃありません。記録で立つ場所を決める、スタートラインですよね?」

沙耶の顔が、白く強張った。

「何? 先輩に逆らうの?」

「事実を言ってるんです。陸連公認の標準記録、11秒60を突破した選手には、誰にでも出場する権利があります。先輩の公認ベストは11秒52。私は11秒48です。記録でも規定でも、私が外れる理由は一つもありません」

千紗は用紙をきちんと折り、ジャージのポケットへしまった。

近くで体をほぐしていた同期や後輩が、ざわめき始める。遠くのベンチでアイシングをしていた蓮も、千紗の声に顔を向けた。

沙耶の唇が、怒りで震えた。

「朝倉。今日のこと、全部黒田監督に報告するから。覚悟しなさいよ」

「はい、どうぞ。私も、大会運営委員会に規定どおり問い合わせます」

一歩も引かない千紗の瞳に、新しい季節の大きな勝負が、火花のように燃えていた。

怒りを収めきれない沙耶は、荒い息をつきながら指導者室へ歩いていった。

千紗はポケットの中の控えにそっと触れ、深呼吸した。

最初の、小さな戦いで引かなかった。

けれど、これは始まりにすぎない。

沙耶が消えた扉を見つめる。しばらくして、廊下から自分を呼ぶ声が聞こえた。千紗は控えをポケットの奥へ押し込み、歩き出した。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   30話. 夕焼けの下で言いかけたこと

    数日後、東京、世田谷署の経済犯罪捜査担当の前。黒いマスクを深くつけた神崎隼人が、捜査員に連れられ、護送車へ向かっていた。横領と業務上の背任、さらにネット上で虚偽の事実を流した名誉毀損の容疑で請求されていた身柄拘束の令状が、裁判所から発付されたのだ。カメラのフラッシュが光る中、隼人はうつむき、逃げるように顔を隠した。蓮の網膜疾患を弱みにつけ込み、治療費を奪った。他人名義の携帯電話で偽のメッセージを作り、千紗を破滅させようとした。そんな恥知らずな詐欺師の末路は、惨めだった。大学の匿名掲示板やニュースサイトには、千紗への非難に代わって、詐欺を働いた代理人の身柄拘束を伝える記事と、二人の選手を応援する言葉が、次々と並んだ。同じころ、西都体育大学の学長直属の監査室でも、厳しい処分が下された。黒田雅彦監督は、監査室の会議室へ呼び出され、冷徹な処分通知書を受け取った。「黒田監督。桐谷沙耶選手によるスパイク破損事件をもみ消そうとした職権の濫用、そして、神崎隼人の虚偽の報道工作を知りながら黙認し、手を貸した事実が、特別監査ですべて確認されました。懲戒委員会の決定により、三か月の減給とし、陸上部の選手指導、およびエントリーに関する専決権を、全面的に剥奪します」監査室長の冷静な通告に、黒田は顔面蒼白になった。だが、もう反論する理由はなかった。体育館のロビーの掲示板には、朝倉千紗選手の名誉回復と、神崎蓮選手のT11日本代表への挑戦を、全面的に支持するという、大学本部の正式な告知が掲げられた。選手の指導と出場の決裁は、森川真紀コーチへ一本化された。千紗は、その告知を写真に残した。誰が責任を持って答えるべきなのか。今度は、名前がはっきりと書かれていた。* * *蓮は上原弁護士の法律事務所で、新たな標準選手マネジメント契約書に、自筆で署名した。かつて従兄の隼人へ、白紙委任した契約。その効力と代理権は、整理された。原本は今後、責任を追及する際に必要になるため、法律事務所で保管した。新しい契約書には、決定権と代理業務の範囲が、分けて記されていた。蓮は項目を読み上げる音声を止め、自分への確認なしに変更できる予定があるのかと、問い直した。隼人が着服した、ドイツのクリニックの予約金300万円についても、銀行口座の仮差押えと、強制的な返還の手続きが、順調に進んでいた。「神崎さん

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   29話. マイクは選手の手に

    火曜日、午前九時五十分。東京・千代田区、東京プレスセンター十九階の控室。厚い防音扉の向こうから、数百人の記者のざわめきが、鈍く伝わってきた。中継カメラの三脚が床を擦る音と、フラッシュの充電音が、落ち着きなく入り混じっていた。鏡の前に立つ神崎蓮は、きちんと着込んだ黒いスーツの襟を、静かに直した。濃いサングラスの向こうには、かすかな緊張があった。それでも、握り締めた拳は、もう震えていなかった。隣にいたガイドランナーの高瀬直人が、蓮の広い肩を軽く叩いた。「緊張するなよ、蓮。お前がトラックで流した汗は、俺たちが知ってる。隣にいるから、用意した話から、一つずつしていこう」蓮の代理人を務める上原弁護士も、分厚い書類をまとめながら、うなずいた。「警視庁のサイバー犯罪捜査担当が、神崎隼人氏の他人名義の携帯電話を使った架空アカウントについて、作成時のIPアドレスと、口座の資金移動を調べるための令状申請を済ませました。アペックス・ジャパンからも、会見に合わせて、法務部名義の正式な支持声明が届いています。準備は万全です」蓮は深く息を吸った。「行こう」午前十時ちょうど。控室の扉が開き、蓮は会見場の壇上へ、大きな足取りで上がった。数十台のカメラのフラッシュが、一斉に滝のように降り注いだ。白い光の中でも、蓮は背筋を伸ばし、マイクの前に立った。ざわついていた会場が、一瞬にして、水を打ったように静まった。蓮はマイクへ向かい、淡々と口を開いた。「こんにちは。陸上短距離選手の、神崎蓮です」低く落ち着いた声が、スピーカーを通して、会場の隅々まで届いた。「最近報じられた、俺の健康状態と私生活をめぐる問題について、当事者として、自分の口から真実をお伝えするために、ここに立ちました。体の状態も、選手としての今後も、誰かに歪めて代弁されるのではなく、俺自身の声で伝えるべきだと思ったからです」蓮は壇上のスクリーンに、東都大学病院の診断書を映した。「俺は、網膜色素変性症を患っています。周辺の視野だけでなく、中心視力も大きく損なわれ、矯正しても形の判別が難しい状態です。四月二十五日、国内のスポーツクラス分けで、T11の判定を受けました。今はガイドとともに、選考会へ向けて準備しています」記者席から、抑えたため息と驚きの声が、同時に漏れた。かつて一人でトラックを駆けた日本代表が、

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   28話. 誰の口座なのか

    体育支援課の大会議室。ブラインドの隙間から、正午の鋭い日差しが差し込んでいた。本館の正面玄関には、朝早くから取材陣が詰めかけ、テレビカメラが並び、フラッシュが光っていた。ポータルサイトのトップを埋め尽くした、悪意あるゴシップ記事のせいだった。【独占】神崎蓮の盲目的な愛? 後輩のA選手、数百万円の練習費を要求した疑い……知人とのメッセージを暴露キャンパスは、ひそひそ話と、好奇心に満ちた視線で沸き返っていた。前の人生なら、千紗は頭が真っ白になって、部屋に閉じこもり、泣いていただろう。(私がそばにいるから、先輩をだめにしてしまうのかな)。そんな自責の念に息が詰まり、世間の非難を一人で背負い込んだはずだった。けれど、今の千紗は違った。森川真紀コーチに案内され、会議室へ向かう足取りには、少しのためらいもなかった。練習日誌と通帳の写し、警視庁で受け取った受理票をしっかり持つ指先は、冷静さを保っていた。「その場ですぐに答える必要はない。質問はまとめて受けて、確認できたことだけ話そう。つらくなったら、私が隣で止めるから」「はい、コーチ。準備はできています」千紗は決然とうなずいた。自分のスタートラインを守るためなら、どんな泥仕合からも逃げないつもりだった。木の会議テーブルの向こうには、蓮のメインスポンサーである大手スポーツブランド、アペックス・ジャパンのマーケティング統括部長と、社内法務部の弁護士二人が、硬い顔で座っていた。テーブルには、従兄で代理人の隼人が、スポンサーへ緊急に提出したという、四十ページの精算監査報告書が置かれていた。『選手の心身が弱った状態につけ込んだ、後輩選手による不当な金銭詐取と契約違反の疑いに関する報告』表紙にある刺激的な文言を聞かされ、蓮の顎が、冷たくこわばった。マーケティング部長は咳払いをし、書類の束を指で軽く叩いた。「神崎選手。当ブランドは、この三年間、あなたの誠実さと闘志を信じ、毎年数千万円規模の練習費と専用の用具を、全面的に支援してきました。それなのに、視覚疾患を隠したうえ、後輩の選手へ多額の練習支援金を流用した疑いまで報じられた。今日、明確な説明をいただけなければ、契約解除はもちろん、違約金を請求する訴訟も、やむを得ません」スポンサーからの、鋭い最後通告だった。前の人生の蓮なら、相手を守れなかったという自責と絶望

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   27話. 一枚の写真、二つの嘘

    月曜の朝、西都体育大学のキャンパスは、早くから蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。本館の前を行き交う学生や運動部員が、スマートフォンをのぞき込んではひそひそと話している。その声が風に乗って広がった。体育館の入り口へ向かう千紗の背中に、刺すような視線が突き刺さる。ポータルサイトのスポーツ・芸能欄。その一位に、太い文字で刺激的な見出しが躍っていた。【独占】『陸上日本代表』神崎蓮、失明に至る希少疾患で引退の危機?【衝撃】網膜色素変性症の診断を隠して活動……後輩陸上選手との密会を激写!記事の下には、先週末、大学のある街の路地で、私服姿で手をつないで歩く蓮と千紗の写真が、モザイクもなく載せられていた。『西都体育大陸上部の看板選手、神崎蓮(22)が、中心視力を失っていく遺伝性の網膜疾患を患っており、最近、ひそかに視覚障害者スポーツのクラス分けを申請していたことが明らかになった』『あるスポーツ界の関係者によると、神崎は先日の春季大会で優勝した短距離の有望選手、朝倉千紗(21)と私的に親密な関係にあり、練習の補助や個人秘書という名目で、多額の金銭がやり取りされた形跡があるという』記事を読み進める千紗の目が、冷たく凍りついた。(スポーツ界の関係者……神崎隼人)蓮の従兄で代理人の神崎隼人が、委託契約の解除通知を逆恨みして、悪意を持って情報を流したに違いなかった。蓮の病名を隠し、支援金を横領しようとして失敗した。今度は蓮の視覚障害を刺激的なゴシップとして売り払い、破滅させようとしている。醜い悪あがきだった。「千紗、これ見た?」寮のロビーへ駆け込んできた同級生の藤田美咲が、真っ青な顔でスマートフォンを差し出した。「朝から記事だらけで、学内の匿名掲示板も陸上の掲示板も大騒ぎだよ。黒田監督が、千紗と神崎先輩に、今すぐ監督室へ来いって」「わかってる、美咲」千紗は深く息を吸い、鞄を肩にかけ直した。前の人生の千紗なら、髪の毛が逆立つほどの恐怖に襲われ、泣いていただろう。「先輩を守らなきゃ、私が全部かぶらなきゃ」と、慌てて記者たちへ言い訳を並べたはずだ。千紗はコメントをさらに読もうとして、画面を消した。指が何度も同じ場所で止まってしまう。美咲に鞄を渡されて、ようやく歩き出した。嘘と歪曲だらけの報道工作に、感情で応じてはいけない。それは、相手が用意した泥沼へ、

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   26話. テザーのない土曜日

    春季大会が終わって最初の土曜日。午後二時、桜町の大学通り。初夏のみずみずしい緑が、マロニエ公園の赤い煉瓦道に、濃い木陰を落としていた。週末の人波でにぎわう、公園前の時計塔。そのベンチに、神崎蓮が、端正なリネンシャツとスラックス姿で座っていた。いつも汗に濡れた練習着を着ているときとは、ずいぶん違う。すっきりと整った青年の姿が、まぶしかった。蓮はイヤホンを耳につけ、歩く道順を案内するスマートフォンの音声地図に、黙って耳を澄ませていた。桜町駅の2番出口のエレベーターの場所。点字ブロックに沿った道筋。そして、予約しておいたレストランの入り口にある段差の高さまで。視覚障害の判定を受けてから初めて、蓮は一人で公共交通機関を使い、ここまでやって来た。二日かけて道順を確かめ、駅では係員にエレベーターの方向を尋ねた。着いてからも緊張が抜けず、シャツの袖を二度も折ったり戻したりした。千紗が来るまでに、落ち着きたかった。「神崎先輩!」澄んだ明るい声とともに、軽やかな足音が近づいた。蓮が顔を上げると、ほのかな石鹸の香りが、風に乗って届いた。水色の半袖のシャツワンピースを着た千紗が、明るく笑って立っていた。スパイクと練習着を脱いだ千紗は、トラックの上の鋭い獣ではなかった。どこから見ても、華やかな二十一歳の女子大生だった。蓮の口元に、柔らかな笑みが広がった。「早かったな、千紗」「先輩の私服、初めて見ました。いつも汗だくの練習着だったから。シャツを着ると、陸上選手っていうより、雑誌のモデルみたいですね」千紗がいたずらっぽく笑うと、蓮は照れたように耳を赤くした。「お前の声も、今日は少し違うな。練習のときみたいに急かさない」二人は、静かな路地の奥に予約しておいた、イタリアンの店へ向かった。千紗は蓮の腕を無理につかんだり、必要以上に引っ張ったりはしなかった。蓮が白杖と足先の感覚を使って、落ち着いて段差を越えられるように。ただ半歩脇で、歩調を合わせて歩いた。店内には穏やかなジャズが流れ、窓の向こうには、大学通りの赤煉瓦の塀と、そこを這う蔦が見えた。店に入ると、蓮はタブレットでメニューを撮影した。文字の読み上げ機能で、料理名と値段を順に聞いてから、注文を決めた。たんぱく質を多くとれる、低温調理のヒレステーキとリコッタチーズのサラダ。それに、無糖のグレープフル

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   25話. 11.28――私の名でつかんだ金メダル

    駒沢陸上競技場、モンド製トラックの四レーン。スタートを告げる電子ブザーが、巨大なスタジアムの静寂を鋭く破った。「女子大学の部、百メートル決勝。各レーン、位置について」審判の厳かな号令とともに、千紗はゆっくりと両足をスターティングブロックに置いた。右の五レーンには、百七十四センチという圧倒的な体格を誇る、東都体育大の怪物ルーキー、陽菜がいた。準決勝の記録は、陽菜が11秒34、千紗が11秒35。わずか0.01秒で隔てられた、二人の女王の、退くことのできない真剣勝負だった。二レーン、三レーン、六レーンにも、各大学を代表する四年生のエリートスプリンターが並んでいた。それでも、競技場のすべての空気は、四レーンと五レーンの間へ、張り詰めて集中していた。観客席の上では、西都体育大と東都体育大の大きな応援横断幕が、触れ合うようにはためいていた。フィニッシュラインの近くでは、実業団のスカウトと代表のコーチ陣が、一斉にストップウォッチとビデオカメラを握り、息を潜めた。フィニッシュラインの周りでは各大学の応援団が太鼓を打ち、声を張り上げていた。決勝の走路の赤いモンド製トラックは、昼間の熱を蓄えていた。審判たちが、電光掲示板の風速表示を最後に確認した。【Wind:+0.8m/s〈公認記録として有効〉】完璧な条件だった。風さえも、二人の真剣勝負を祝福している。千紗はブロックのペダルをかかとで軽くたたき、角度を微調整した。0.01秒で勝敗が決まる、短距離の世界。ブロックを少し動かし、足裏がペダルに触れる位置から、もう一度確かめた。スタジアムに降り注ぐ五月の日差しは、目に染みるほど強かった。遠く、観客席の最前列の手すりに、サングラスをかけた蓮が立っていた。隣にはガイドランナーの直人が立ち、四レーンを黙って見つめていた。蓮は場内アナウンスを聞き逃さないよう、耳を澄ませた。直人が、千紗がブロックを調整していると、短く伝えた。千紗はフィニッシュラインの向こうの青空を見上げ、深く息を吸った。誰かの暗闇を代わりに背負い、自分のスタートラインを奪われた。あの前の人生の悲劇は、もうなかった。今、数えているのは、誰かの出走時刻ではない。千紗は自分の指が震えていないか見下ろし、靴の中で、一度足の指を動かした。誰かの犠牲の上に乗る、偽りの勝利ではない。ただ自分の名を懸け

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status