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3話. 一枚の受付控え

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:06

体育館の二階へ続く階段には、重い緊張が漂っていた。

先を歩く四年生、桐谷沙耶の足取りは荒い。固く結んだ唇の隙間から、苛立った息が何度も漏れた。

後ろに続く千紗の歩調は、静かで乱れがなかった。

廊下には、西都体育大学陸上部が全国総合体育大会や種目別選手権で獲得したトロフィーと、色あせた写真が並んでいた。

一見すれば、華々しい栄光の殿堂。けれどその内側は、黒田監督と一部の有力選手の私欲で、膿みただれている。

前の人生の千紗は、この廊下を通るたびに、先輩の顔色をうかがって縮こまっていた。

(私が少し我慢すれば、チームは丸く収まる)

(先輩たちの進路が決まれば、いつか私にも順番が来る)

そのお人好しな諦めこそが、青春を蝕み、二十八歳の孤独な死へと導いた毒だった。今なら、痛いほどわかる。

先輩のスパイクを代わりに磨き、遠征先では雑用を引き受ける。「いい後輩だね」というわずかな褒め言葉のために、自分の権利を消していた、愚かな歳月。

けれど今、千紗の目は冷静に澄んでいた。

バンッ!

沙耶が乱暴に監督室のドアを押し開けた。

「監督!」

革張りのソファに浅くもたれ、新聞をめくっていた黒田が、音を立てて湯飲みを置いた。

「何だ。練習中に、廊下で何を騒いでる」

沙耶は待ってましたとばかりに机へ近づき、大げさにため息をついた。

「これ、聞いてください。二年の朝倉が、勝手に事務室へ行って、春季選考会に個人で申し込んだそうです」

黒田の濃い眉が、不快そうに動いた。

「何? 個人で?」

沙耶は千紗を睨み、声をさらに張り上げた。

「四年の分をまとめて、監督の決裁をいただいてから提出するって、ちゃんと伝えましたよね。実業団のスカウトを控えた先輩の枠を先に確保するのが、うちの伝統なのに。後輩がこんなふうに順番も守らず出てきたら、部の規律はどうなるんですか。前のリレーで金を取れたのも、後輩たちが犠牲になったおかげなのに、この子、自分だけよければいいんです」

黒田は眼鏡を直し、千紗を上から下まで眺めた。

視線は顔より先に、ジャージの胸についた大学のロゴへ向かう。この部屋では、選手の名前より所属が優先されるのが常だった。

以前の千紗は、その目に怯え、息さえまともにできなかった。

部から追い出す。その脅し一つで、自分の夢もスタートラインも手放し、蓮の目の代わりとなって雑用に追われるようになった。悲劇は、ここから始まったのだ。

今の胸にあるのは、恐れではない。冷たい怒りと、曇りのない理性だった。

「朝倉」

黒田が咳払いをし、威圧的な声を出した。

「沙耶の話は聞いてるな。陸上は一人で走るように見えて、結局はチームスポーツだ。先輩が実業団に入って道を作るから、お前たち後輩も翌年、チャンスをもらえるんだぞ」

引き出しの朱肉と決裁印を弄びながら、説教を続ける。

「うちでは、二年が個人種目に欲を出すもんじゃない。今回の選考会は沙耶と四年に譲れ。申込書は事務室に電話して差し戻させる。お前は余計なことを言わず、練習していればいい」

前の人生と、一言一句変わらない。恥知らずな説得だった。

先輩の席を買うために、後輩の翼を折る。そのためだけの、醜い結託。

千紗はポケットから、丁寧に折った受付控えを取り出し、机の上に置いた。

「監督。お話はわかりましたが、お断りします」

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。沙耶は口を開けたまま固まり、黒田の眉間には深い皺が刻まれる。

「何だと? 今、監督の言うことを断ると言ったのか?」

「はい。大会の参加要項と、大学の受付手続きを確認しました」

千紗は姿勢を崩さず、明瞭な声で続けた。

「私の11秒48は、申込基準の11秒60を突破しています。受け付けも済んでいます。外れなければならないなら、先輩が先という話ではなく、要項に沿った理由を説明してください」

「朝倉、あんた口答えする気?」

沙耶が声を張り上げた。千紗はそちらを見もせず、黒田の目をまっすぐに見た。

「先輩たちの実業団入りが大切なのはわかります。でも、それは私の正当な機会を奪う理由にはなりません。トラックは譲り合う場所ではなく、記録で証明する場所ですから」

「お前……!」

黒田が立ち上がり、机を叩いた。

ドンッ!

「生意気な! 監督に向かって規定だと? 出場名簿から名前を消せば、それで終わりだ! 推薦状の一枚ももらえず、競技をやめたいのか!」

千紗は一歩も引かず、スマートフォンの画面を掲げた。

「事務室の正式な控えは、もう受け取っています。陸連のオンラインシステムにも、私個人の登録番号で申請済みです。正当な理由なく名前が抜けていたら、陸連の公正委員会と大学のスポーツ倫理センターへ、正式に異議を申し立てます」

低い声だった。けれど、その切っ先は鋭かった。

もう、理不尽な権力の前で泣き震えていた、何も知らない二十一歳の女子大生ではない。

机の上で、控えの端がわずかに揺れた。千紗は手のひらで紙を押さえた。声だけは、乱さなかった。

「それと、監督」

スマートフォンの、録音中の表示を指さす。

「今のお話は録音しました。私の名前が消えたら、この会話と控えを、一緒に提出します」

黒田の顔が、赤くなり、青ざめた。

規定に沿って抵抗する千紗を強引に押さえつければ、自分がひそかに管理していた交際費や練習費名目の裏金まで、監査の対象になりかねない。

そのとき、半開きのドアの向こうで、重い足音が止まった。

隙間から見えたのは、蓮の姿だった。

サングラスをかけ、腕を組んだまま、監督室へわずかに顔を傾けている。

暗い通路で、慌てず手すりの場所を教えてくれた後輩。

そして今、監督の激しい圧力に屈せず、自分のスタートラインを守ろうとしている朝倉千紗。

蓮は廊下に立ったまま、拳を握りしめた。

千紗があんな言葉を浴びせられている間、自分は自分の視力とタイムのことしか考えていなかった。ドアノブに手をかけ、また離す。初めて見る光景のはずなのに、長い間目をそらしてきたことに、今さら向き合ったような痛みが胸を刺した。

沙耶は怒りを抑えきれず、床を踏み鳴らした。

「監督! 規定を振りかざしてチームをかき回す子を、放っておくんですか?」

黒田は廊下の気配に気づいたらしく、咳払いをして、湯飲みを乱暴に置いた。

「いいだろう。ずいぶん規定がお好きなようだ」

歯を食いしばり、冷たく言い放った。

「書類を出す権利は認めてやる。だが、うちの最終エントリーを決めるのは、実力だけだ」

千紗を睨み、宣戦布告した。

「四日後、部員全員の前で100メートルの公開テストをする。そのご自慢の標準記録がまぐれじゃないと、全員に証明してみろ。沙耶より0.01秒でも遅ければ、そのときは自分で申込書を破って出ていけ」

沙耶が勝ち誇った笑みを浮かべ、千紗を嘲った。

「自信があるなら、走ってみれば。朝倉」

千紗は揺るがず、胸を張った。

「わかりました。四日後、トラックで記録をお見せします」

丁寧に一礼し、監督室を出る。

廊下にいた蓮と、向き合った。

蓮は階段へ向かう千紗の足音を追って顔を動かした。引き止める言葉が見つからず、手すりの端を指で一度、押した。

千紗は蓮の脇を通り、階段を下りていった。

背中に冷たい春風が吹きつける。それでもポケットの中の控えは、これまでになく熱を帯びていた。

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