爽やかな風を受け、ハーヴィーは心の中で感嘆の声を上げていた。僕はハーヴィーが下り坂を走りやすいように、重心をやや後方へ下げ、体を安定させる。ハーヴィーは下りの勢いを殺さず、そのまま平地に入り、駆けていく。彼の荒い呼吸の音は僕のそれと重なり、リズムを刻む。ドクドクと高鳴る心臓の鼓動、地を蹴る四つの蹄の音がそこに混じっていく。 ハーヴィーと僕、本当に風になってるみたいだ……。 この感覚は、いつかふたりでボウネスに行った、あの夜のようだった。僕とハーヴィーは今、ひとつになり、風となって飛ぶように草原を駆けていた。 ゴール地点はもう、すぐそこにある。僕は体を浮かし、ハーヴィーにすべてを委ねて目を閉じた。体は自分自身の力でのみ支え、彼に負担のないように立ち上がる。すると、ハーヴィーはさらにスピードを上げる。 行って……、ハーヴィー!「よおし!」 不意にトーマスさんの声が聞こえて、僕はハッとして目を開けた。周囲には大勢の観客がいて、拍手を送ってくれている。ハーヴィーは徐々にスピードを落としながら、芝の上をゆったりと走っていく。僕はハーヴィーに方向を変えさせ、トーマスさんたちの姿を探した。「トーマスさん! ライルさん!」 大勢の観戦客の中から、やっとの思いで彼らを探し出し、声をかける。トーマスさんとライルさんはガッツポーズをしたり、拍手をしたり、人差し指を天へ掲げたり、忙しく駆け寄ってきた。「君たちは最高だ! ベストパートナーだ! いやぁ、実に素晴らしかった!」「ありがとうございます!」「点数を見たかい?」「いえ、まだ――」「あれをごらんよ!」 そう言って、トーマスさんは運営係や審査員たちがいるテントを指差している。そこへ目を向けると、そこには電光掲示板があって、その一番上に僕の番号と名前が光っていた。「一位だ……」「すごいぞ、オリバー!」 ハーヴィーの背から降りると、すぐにライルさんが僕を抱きしめ、トーマスさんもそこに加わった。僕たちは三人で団子のようになって、互いに抱きしめ合った。「よくやった、本当によくやったよ!」 もちろん、現段階での一位。つまり暫定に過ぎず、このあとの出走者の点数次第では、僕の順位は下がってしまう可能性もある。だが、二位、三位との点数の開きは大きかった。まだ何十人と出走者は残ってい
きっと気のせいだろう。祖父母とは、大会の直前まで手紙でやり取りをし、電話でも話をしている。だが、彼らは応援に来るとは話していなかった。ロンドンからだと、トラウトベックはかなり距離があるので控えたのかもしれない。老齢のふたりにとって、遠方への旅は酷だ。それをわかっている僕も、彼らに見にきてほしいとは言わなかったし、手紙で「頑張れ」と書かれているだけで、本当に十分だった。 きっと、おじいちゃんとおばあちゃんは、ロンドンで祈っててくれる。天国の父さんや、母さんや、弟のエリオットも……。 次の瞬間――。ピーッ! と音が鳴る。僕はハッとして手綱を強く握った。 ――ハーヴィー、行こう! スタートの笛だ。僕は心の中でハーヴィーに呼びかける。直後、ハーヴィーはそれに応えるように芝を蹴り、勢いよく駆け出した。出だしは悪くない。「いい感じだ!」 始めは平坦な芝のコースが続く。ハーヴィーは全速力で駆け、まず、植木で作られた障害を越えた。さらにその先の丸太の障害を越え、次の障害へ走る。どうということはない。これくらいの障害はもう散々、練習してきたのだ。道の先は林の中へ続いていく。「ハーヴィー、道が細くなってる……」 昨夜のミーティングで、記憶したコースの全貌を思い出す。僕とハーヴィーが行くのはダイレクトルートだ。林の先は一本道。しかし、その先は想像よりもはるかに、とても細くなっている。しかも、その先にも当然のごとく障害が設置されているのかと思うと、このまま全速力で駆けていくのには不安になった。ところが、不意にハーヴィーの声が脳内に響く。 ――オリバー、このまま行こう! ぼくを信じて! ドキドキしながら手綱を握り、しっかりと頷いた。ハーヴィーはスピードを落とさずに、そのまま林の中へ入っていく。歓声は遠のいていき、人の姿はまばらになった。 木々の間をすり抜け、ただ前だけを見て、僕とハーヴィーは林の中を駆ける。荒いハーヴィーの呼吸が聞こえて、僕は自然とそのリズムに自分の呼吸を合わせていく。ふと前方を見れば、障害が見えた。脇へ避けるすき間はあるが、僕とハーヴィーにある選択肢はひとつだ。「ハーヴィー!」 ハーヴィーの名前を呼ぶ。それが合図だと、彼には自然と伝わる。僕にはそれがわかっている。さっきよりも明ら
「リーさんのことは好きじゃないけど、あなたたちのことは好きだから、応援するわ」 「ありがとう。僕も君たちの健闘を祈ってるよ」 「ありがとう。お互い頑張りましょ。じゃあね」 そう言って、マーサとウェンズデイは去っていく。僕は彼女たちを見送り、ハーヴィーに言った。「あの子、僕よりずっと年下みたいだった。あんな子も試合に出るんだね」 ――彼女はたぶん、実力者だよ。ウェンズデイが言ってた。「ウェンズデイ? あの馬と話したの?」 ――うん。今日の優勝を飾るのは間違いなく彼女だってさ。悪いけど、格が違うって。 ハーヴィーは面白くなさそうにそう言った。どうやらあのウェンズデイという馬は、かなり気の強い馬だったようだ。もっともマーサも同様ではあった。パートナーという関係性ゆえか、彼女たちはきっと似た者同士なのだろう。「ハーヴィー、気にしないんだよ。僕たちは僕たちのできる限りのことをすればいいんだから」 ――わかってるさ。 首のあたりをぽんぽん、と撫でてやって――ふと、ライルさんのいる方に目をやる。いつの間にか、リーさんはいなくなっていて、そこには代わりにトーマスさんの姿があった。しかし、彼は別の男性と話している。そこにマーサが近づいていく。どうやら、トーマスさんに挨拶をしているようだ。「トーマスさん、あの子を知ってるのかな」 ――さあね。 僕は眉を上げる。ハーヴィーはあのマーサという子の乗るウェンズデイに挑戦的な態度を取られたので、少し拗ねている。仕方なく、僕はハーヴィーに再び駆歩を出すように指示を出して、ウォームアップを再開し、三十分ほどでハーヴィーとともに、ライルさんたちのそばへ戻った。「やぁ、お疲れ様。調子はよさそうだね」 「はい。トーマスさん、さっき挨拶してた女の子、知ってる子ですか?」 「あぁ、彼女は友人の娘さんだよ」 「ご友人の……」 「友人はグラスミアの方で牧場をやってるんだ。引退した競走馬の面倒を見たり、羊を飼ってる。大牧場でね、あの子はそこの娘さんなんだよ。オリバー、彼女を知ってるのかい?」 「あぁ、いえ……。ちょっとさっき話をしたので……」 グラスミアは、ウィンダミアの近くにある湖の名前であり、そこに隣接する村の名前でもあった。ウィンダミア湖よりは少し小さい湖
僕はホッとして、再び常歩を指示し、放牧地の中をラウンドする。柵の外で見守っているライルさんも、親指をぐっと立てて見せている。きっとこの安定感が彼の目にも見えているのだ。僕は彼に返すように、親指を立てて、手を挙げた。しかし、その時だ。「やぁ! しばらくだね、ライル君」 ひとりの男がライルさんに近づき、声をかけているのが視界の端に見えた。聞き覚えのある声にビクッと体が震える。全身から冷や汗が滲み出る。この低い声は間違いない。あの男だ。 デクスター・リー……。 動揺しながらも、その名前を思い浮かべる。手綱を握る手もじっとりと汗ばんでいく。すると、常歩でゆったりと歩いていたハーヴィーが突如、駆歩を出した。僕は驚いて、慌てて手綱を引く。だが、彼は首を振って、まるで言うことを聞かない。「スノーケルピー、待って……! 落ち着いて……!」 ――嫌だ。あの人が来てるよ。「大丈夫だよ、あの人は君になにもしないさ。僕が一緒にいるんだから、大丈夫」 ――嫌だ。会いたくない。あの人の顔なんか見たくもないよ。「ハーヴィー……っ」 ――わかるだろ、オリバー。あの人は、ぼくたちを引き裂こうとしてるんだ。 彼は足を止めず、放牧地の端まで一気に駆けていく。まるで、リーさんから逃げるかのように。もうライルさんもリーさんも、とても小さくなって、声は当然聞こえない。そこでようやく、ハーヴィーは止まった。「ハーヴィー、だめだよ。僕たちは特別の相性なんだってところを、彼に見せなくちゃ。そうすれば大丈夫だって、そう話していたのは君じゃないか」 ――もちろん、わかってるよ。でも、今は本当に会いたくないんだ。せっかく、いい気分だったのに、ここであの人に会ったりなんかしたら全部台無しにされる。 ごもっともだった。僕だってあの男には会いたくない。しかし、騎手としては馬主が来ているのに、挨拶をしないわけにもいかないのだ。「でも……、挨拶しなくちゃ」 僕はそう言って、首のあたりを撫でる。すると、そこへ。不意に一頭の人馬が近づいてきて、騎手が僕に声をかけた。「こんにちは」「あ――……。こ、こんにちは……」「いい馬ね。とても賢そう。それに綺麗
仕方なく僕は体を起こす。それから、ナイトランプを点け、サイドテーブルに置かれている一枚のパンフレットを手に取り、目を通した。トーマスさんから渡された大会のパンフレットだ。そこには簡素ではあるが、明日のコースが描かれている。 明日、僕はこのコースをハーヴィーと一緒に走る。ひとつになって走って、上位五位以内に入るんだ……。 トーマスさんたちと何度も確認した、全長六キロのコース。思っていたよりも、うんとその距離は長い。当然だが、ウィンダミア乗馬クラブに即席で作られたコースとはまるで比較にならなかった。このコースを走り、上位五位以内入賞。初心者の僕に、そんなことが本当にできるのだろうか。「頑張らなくっちゃ……」 もし、できなければ、ハーヴィーは輸送車に乗せられて、途方もなく遠くへ行ってしまう。たぶん、もう二度と会えなくなるだろう。誰か知らない人のものになるか、最悪の場合はどこか遠い外国へ売られて、肉にされてしまうかもしれない。皮は剥がされて鞄や財布に加工され、あの美しい毛は高級なブラシにされる。それを想像すると、途端に身震いがした。 だめだ。弱気になってる場合じゃない……。絶対に勝たなくちゃ……。ハーヴィーのことは僕が守るって、誓ったんだから。 再び、ベッドに潜り込む。それから深く息を吐いて目を閉じ、ハーヴィーの心臓の鼓動を思い出した。彼の温もりと、とくん、とくん――と鳴る心地よいリズム。時折、額に落とされる優しいキス。耳と体に沁み込んでいるその記憶に浸り、自分の呼吸をゆっくりと合わせていく。 おやすみ、僕のハーヴィー……。 そう心の中で呟く。すると、僕の意識は次第に遠くなり、穏やかな眠りの底へすとん、と落ちていった。*** 翌日の朝。僕たちは朝四時には目を覚まし、会場であるストーク伯爵の屋敷へ向かった。会場内ではすでにコースチェックが始まっていて、真っ白なテントが連なる出店にも貸し馬房にも、多くの人が出入りしているのが見えた。まだ観戦客は入れない時間帯なのにもかかわらず、これだけの人間がいるところを見れば、この大会がアマチュアとはいえ、どれほどのファンに愛されているかを知ることができる。ひとまず、僕は逸る気持ちで、トーマスさんたちと馬房へ向かった。「スノーケルピー、おはよう
トラウトベックに到着するころ、時刻は午後三時を過ぎていた。ストーク伯爵の屋敷の庭は広大で、それが庭だとはとても思えない。ウィンダミア乗馬クラブも敷地は広いが、ここはその何倍もありそうだ。「これが庭なんですか。すごいところ……」「そうとも、立派だろう?」 トーマスさんはまるで自分の家を自慢するかのように言う。ただし、この人のこういうところは、僕は好きだ。「ここのコースはアマチュア大会の中でも、群を抜いて素晴らしいんだ。なにしろ広いし、貸し馬房に、放牧エリアに……競技用の馬場までついてる」「へえ……」 要するにとにかく広く、馬術の大会を行うのに、ここはなにひとつとして不備はないようだった。 すでに庭にはクロスカントリーのコースが出来上がっていて、美しい芝の絨毯の上には、いかにも難易度の高そうな障害が設置されている。古い屋敷の近辺には、真っ白なテントがずらりと並んでいた。テントに掲げられた看板を見る限り、馬のグッズや、軽食の店など、どれも観戦客のために設置された出店であるようだ。 僕はハーヴィーを引き、首のあたりを撫でながら「思っていたよりもすごい大会みたいだね」と、こっそり耳打ちした。 その日、ハーヴィーは獣医師による馬体のチェックを行ってから、貸し馬房に入れられた。そのあと、夕飯を食べさせれば、あとは明日の試合に備えて休むだけだ。ただし、僕たちは今夜、近隣のホテルに部屋を取っているので、ハーヴィーとは分かれて休むことになる。「トーマスさん。スノーケルピー、知らないところにひとりぼっちで……大丈夫でしょうか?」「大丈夫さ。緊張はしてるかもしれないけど、隣にはローリィもいるしね。彼は孤独じゃないよ」「はい……」 僕は貸し馬房で、ハーヴィーの体を撫でながら返事をする。ハーヴィーが本当に普通のサラブレッドなら、心配はない。だが、彼はそうではないのだ。「でも、ホテルは近くだし……。僕、夜にでも一度、様子を見に――」「いやいや。それはよくない。馬房にはよその馬もたくさんいるし、あまり騒がしくするとみんなを驚かせてしまうよ」「そうですよね……」「なあに、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。明日のために、今夜はゆっくり休もう」 トーマスさんにぽん、と