「バレたらクビかな」
「クビにはならねぇだろ。一応理由も嘘は言ってねェし」 「それはそうだけど……」 「……まぁ、あとで木崎に何か奢る羽目にはなるかもしれねェけどな」あのあと、河原は怪我を理由に早退し、俺もその付き添いだと言って一緒に店を出た。普通に考えれば河原一人帰せばいい話だが、そこは事情を知っている木崎が横から上手い具合に説明してくれた。
だからまぁ、そのうちまた面倒なことを言ってくるかもしれないが、今ならそれくらい安いものだとも思う。「……でも、やっぱりちょっと」
「気が引けるって?」 「うん……」その後はもちろん病院にも行った。だが思いの外俺の処置が適切だったらしく、結局簡単な消毒をしたのち同じように包帯を巻き直されただけで、あとは経過観察とされてしまった。
「つっても、もう帰ってきちまったもんは仕方ねぇだろ」
「そう、だけど……」 「じゃあ、もういいから黙れよ」そうして俺と河原はいつものように同じマンションに帰ってきた。更に言えば、同じ部屋――俺の部屋に。
マンションのエントランスを抜け、いつものようにエレベーターが降りてくるのを待っていた。間もなくドアの開いた箱の中は空っぽで、それをいいことに俺は河原の手を取り、引っ張り込むようにしてその中へと乗り込んだ。
突然のことに河原は驚いたように目を瞠り――それでも、繋いだその手を振り解いたりはしなかった。ただ戸惑うように視線をうつむかせ、頬を淡く染めて、ひどく緊張している時のように冷えた指先をかすかに震わせていた。……まるで初めて会った日のように。
だからだろうか。気がつくと俺は記憶を辿るように河原の顔を覗き込み、そのまま誘われるようにキスをしていた。六階で扉が開く寸前、掠め取るように唇の表面を触れ合わせただけのそれは、けれどもあの時よりもずっと熱を帯びた余韻をそこに残した。
***
「……河原」
部屋に入るといっそう理性は霞み、シャワーを浴びるどころか寝室に行くのももどかしく、俺は急くよ
***「お前……本当に俺のこと好きだったんだな」 今になってようやく実感する。直接気持ちを伝えられても、まだどこか夢のように思っていたのかもしれない。「俺、そう言ったつもりだったけど……」 珍しく不服そうに呟いた河原の額を、そっと撫でる。 分かってる。それはもう伝わってる。今更信じてないわけじゃない。 元々偏見はなかったらしいが、かと言って男に興味があったわけでもない河原が、俺に抱かれることを受け入れてくれた時点でそれはもう疑う余地もなかったのだ。「でもお前、待てとか嫌だとかばっか言いやがるし」 「そ……れは、だから……」 そのくせ、この期に及んで試すようなことを言ってしまうのは、可愛くない俺の性分ゆえか、それとも、「俺にも……その、心の準備が……」 「心の準備な」 ただそんなふうに恥ずかしがる河原をもっと見たいと思ってしまうからだろうか。……多分、どっちも合っている。 俺は思わず緩みそうになる口元を引き締め、澄ました顔で目を眇めた。「――まぁ、どのみちこれ以上は待たねぇけどな」 言うなり、不意打ちのように河原の下肢を割って置いていた膝をその下腹部へと密着させる。すると河原は過剰なほどびくりと腰を震わせ、俺の袖を片手で掴んだ。「んぁ……! あ、待……っ」 「だから待たねぇって言ってんだろ」 逃げたいように身動いだ河原のそこは、しっかりと兆したままだった。俺は密やかに安堵しながら、片手でその腰を撫で、急くようにベルトに手をかけた。 続けざまに前たてを寛げ、晒した下着の中に断りもなく手を入れる。とっさに閉じそうになる河原の下肢を更に膝で広げさせ、指先に触れたそれを手の中に包み込んだ。「くれ、しっ……」 河原の顔がたちまち赤く染まる。 リビングの窓が壁一面にあるおかげで、照明をつけなくても明度はそれなりに保たれていた。既に目が慣れていたこともある。だからその表情はちゃんと見える
俺は無言で顔を伏せ、緩く隆起する他方の突起に舌を伸ばした。 「っふ、……ぁ!」 周囲の淡い色付きから先端まで、何度も焦らすように舌先を触れさせては離し、河原の呼吸の隙を見て、不意打ちのように口内に引き入れる。 すると反射のように河原の背中がびくりと浮いて、上擦った短い声が口から漏れた。思わず口端がかすかに上がる。「や、待っ……、そこ、は、もう……っ」 「そんなに言うほど弄ってねぇだろ……」 「でも、嫌……だっ、離しっ……」 そう言って緩く首を振る河原は、目元や頬だけでなく、耳や首筋まで赤く染めていた。思いがけず自分が上げてしまった声に、一瞬我に返ってしまったようにも見える。 だからと言って、もちろん俺がそこで退くわけもない。 河原が制止を求めたり、躊躇して見せるのはとにかく恥ずかしいからに違いない。それは表情や反応、下肢に当たるそれが兆していることからも明らかだった。 それに――。「今更嫌だなんて言わせねぇよ」 「あ……違、そういうわけじゃっ……」 「なら、いい加減観念しろよ。……大丈夫、優しくするから」 俺自身、もう待ってやれるほどの余裕はない。「っ、んんっ……!」 唇を添わせていただけの胸の先に再び舌先を絡めると、河原は咄嗟に息を呑んだ。それでいて俺の肩口や髪を掴む手に、痛みを伝えるほどの力が込められることはない。 俺の言葉にどうにか従おうとしてくれているのがわかる。そんなところも健気で可愛いと思う。愛しくてたまらなくなる。「んっ……ぅ、ぁ……っ」 相変わらず口元は必死に押さえようとしていたけれど、次第に甘さを帯びた声が漏れ出るようになってくる。俺の手や舌の動きにつれて戦慄く唇が、声を抑えようと押し付けられる手の甲との隙間で熱っぽい吐息をこぼすのだ。「んあ……!」 河原が酸素を求めるように口を開く。その瞬間、俺はあえて高い水音を立てて突起を吸い上げた。河原は一際熱っぽい嬌声を上げ、びくりと胸元を跳ねさせる。「河原……なぁ、わかってるか」
「バレたらクビかな」 「クビにはならねぇだろ。一応理由も嘘は言ってねェし」 「それはそうだけど……」 「……まぁ、あとで木崎に何か奢る羽目にはなるかもしれねェけどな」 あのあと、河原は怪我を理由に早退し、俺もその付き添いだと言って一緒に店を出た。普通に考えれば河原一人帰せばいい話だが、そこは事情を知っている木崎が横から上手い具合に説明してくれた。 だからまぁ、そのうちまた面倒なことを言ってくるかもしれないが、今ならそれくらい安いものだとも思う。「……でも、やっぱりちょっと」 「気が引けるって?」 「うん……」 その後はもちろん病院にも行った。だが思いの外俺の処置が適切だったらしく、結局簡単な消毒をしたのち同じように包帯を巻き直されただけで、あとは経過観察とされてしまった。「つっても、もう帰ってきちまったもんは仕方ねぇだろ」 「そう、だけど……」 「じゃあ、もういいから黙れよ」 そうして俺と河原はいつものように同じマンションに帰ってきた。更に言えば、同じ部屋――俺の部屋に。 マンションのエントランスを抜け、いつものようにエレベーターが降りてくるのを待っていた。間もなくドアの開いた箱の中は空っぽで、それをいいことに俺は河原の手を取り、引っ張り込むようにしてその中へと乗り込んだ。 突然のことに河原は驚いたように目を瞠り――それでも、繋いだその手を振り解いたりはしなかった。ただ戸惑うように視線をうつむかせ、頬を淡く染めて、ひどく緊張している時のように冷えた指先をかすかに震わせていた。……まるで初めて会った日のように。 だからだろうか。気がつくと俺は記憶を辿るように河原の顔を覗き込み、そのまま誘われるようにキスをしていた。六階で扉が開く寸前、掠め取るように唇の表面を触れ合わせただけのそれは、けれどもあの時よりもずっと熱を帯びた余韻をそこに残した。 ***「……河原」 部屋に入るといっそう理性は霞み、シャワーを浴びるどころか寝室に行くのももどかしく、俺は急くよ
逃げるのをやめようと思ったのは、なにもその成就を望んだからじゃない。 ただ俺が、見城のことで妙な誤解をされたままでいるのがどうしても堪えられなかったからで、と同時に、本当にこれで全てを終わらせてしまおうと思ったからだ。 それに、「……だからって、別にお前になにかを望んでるわけじゃねぇ」 もし河原が、なにも知らないまま、気持ちも伴わないまま見城に手を出されたらと思うと黙っていられなかったが、こうしてちゃんと理解して、その上で受け入れるというならもうなにも言うことはない。そもそも、そんなふうに先に手を出してしまったのは俺の方だったし――。「安心しろよ。……今後は一切口出ししねぇから」 終止符を打つように言葉にすると、不覚にも声がわずかに揺れた。 ――あぁ、本当に情けない。 すぐさま笑み交じりの呼気を吐いてはみたが、さすがにこの状況で上手く誤魔化せたとは思えない。 その上、気が付けば煙草を持つ指にも無意識に力が入っていて、それが未練なのだと自覚すると不覚にも泣きたいような気分になった。「……お前、今日はもうこのまま上がれよ。そんなんじゃ仕事にならねぇだろうし、帰りに一応病院行っとけ」 俺は逃げるように視線を逸らすとそのまま立ち上がった。こんな心境知られるわけにはいかないし、なによりこの話はもうここで終わりにしたかったからだ。 「……」 けれども、河原はなにも答えなかった。答えないどころか、ともすれば時が止まったかのように動かなくなっている。 ソファの片側から重さが消えて、必然と身体が振られても、それすら気付かないみたいにどことない中空を見つめたままだった。 さすがに呆れられただろうか。呆れるどころかひかれてしまったかもしれない。 まぁ、どっちにしても想定内だ。 そんな河原の様子を視界の端に、俺は小さく息を吐く。そしてその数秒後には、いつまでも未練がましい胸の痛みを吹っ切るようにゆっくり背を向けた。――物理的にも彼から距離をとりたくて。「店長には、俺からちゃんと伝えといてやるから――」 「ま
「それにさっき暮科……こっち側の人間がどうとか言ってたし。それって要するに、そういうこと、だよな? 暮科も将人さんも〝そっち側〟の人間? で、二人は過去にそういう関係にあったって……俺はそうとったんだけど、違うかな」 一応探るようではあったけれど、河原の声に迷いは感じられなかった。 俺は再び口を噤んだ。どう答えればいいか迷うばかりで言葉にならない。そうだともそうじゃないとも言えないまま、まっさらな煙草を持つ手を見詰めるだけだ。 そんな胸中を知ってか知らずか、河原は独り言のように呟いた。「……少なくとも、あれ? ってなってからは、俺にも分かったよ。将人さんが暮科のことをどう思ってるかってことは……」 その声がどこか上擦っているように聞こえたのは、俺がそう思いたいからだろうか。「……」 どのみち、もう誤魔化しきれない。 今更冗談にもできないし、なにも知らないと言い通すこともできない。……そうかと言って、ここから逃げ出すことも。 ……自業自得か。 俺は静かに瞑目した。 少なくともあの日――俺が河原に触れた夜――、他でもない自分の手で、それまでの関係を壊した自覚はある。そしてそれがあったから、河原は今俺にこんな話をしているに違いない。 俺と見城との関係を踏まえて、俺との間に明確な線を引くために――。「なぁ、暮科。……せめてこれだけでも教えてほしいんだけど」 「……なんだよ」 いまだ火を点けることもできないのに、まるで唯一の拠り所みたいに未練がましく手放せない煙草。俺はそれを口端に添えると、緩く髪を掻き上げながら静かに問い返す。 視線は上げない。伏目がちのまま、瞼だけをわずかに上げる。視界の端で、なんの変化もない煙草の穂先をぼんやり眺める。 もういい。これ以上聞きたくない。 そう思う一方で、これでどこか楽になれるのではないかとも思っている。 そうだ。これで完全に諦められる。 ――そう覚悟を決めた矢先、「お前もまだ、将人さんのことが好き、なのか……?」
「気付かねェっていうか、どう見てもあいつが見てたのは……お前だったろ」 「俺じゃない、暮科だよ。将人さんは真面目にお前のことが好きで……でも、昔酷いことをしたから、許してもらえないかもしれないって。それでも、できることならやり直したいって……」「昔……」 どことない中空を見つめたまま反芻するように呟くと、河原が「あ……」と小さく声を漏らす。言い過ぎたとでも思ったのかもしれない。 けれどもそれもあとの祭りで、俺はそんな河原を視界の端に捉えたまま、小さく息を吐いた。 正直頭が混乱していた。 河原の言うことが本当だったとして、それをそのまま鵜呑みにはできない。 見城《あの男》のことだ。河原の気を引くための方便だという可能性もある。むしろどうせそんなところだろうと思ってしまう。 ……だけどそう言い切るだけの根拠がない。 例えばそれは嘘だと、お前は見城にだまされているのだと言ったところで、河原は信じないだろうし、俺だってそこまで確信があるわけじゃない。「暮科……?」 そのまま黙り込んでいると、横から心配そうな声がかかる。 俺は深いため息を一つ吐き、緩慢に顔を上げると河原が持ったままだった煙草を抜き取った。「……煙草、吸っていいか」 「え……あぁ、うん」 とにかく頭を冷やしたくて、ソファへと戻るなり早速ライターを構える。それを横目に、隣に河原が腰を下ろす。 けれども、こんな時に限ってなかなか火が点かない。カチカチと言うチープな音だけが部屋に響く。そんな中、先に口を開いたのは河原だった。「昔……付き合ってたのか? 将人さんと」 煙草の先はまだ真っ白なままだ。なのに俺はその言葉に思わず手を止めてしまった。 俺との過去について、見城がどんなふうに話したかは分からない。分からないが、例えありのままを口にしていたとして、いつもの河原ならもっと言葉を濁していただろう。 そう思うからこそ言葉が出なくなる。いつものように誤魔化せなくなる。顔もろくに上げられず、視線は手元の煙草から離せない。「暮