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第14話

Author: 身不二
医者は彼の反応に驚き、首を傾げた。「どうしてそんなに動揺するの?確かに高梨夏希さんが一晩中付きっ切りで看病していたよ。私がこの目で見たんだから。あの時、彼女は高熱を出していたのにね」

「その後、婚約者の小山千春さんが来ると、何も言わずに立ち去った。『彼に知らせないで』って……甲板に出た途端、そのまま倒れちゃってね。私が部屋まで運び込んだのよ」

直人の顔から血の気が引き、唇が震えだした。

「……あの夜、彼女だって……本気で?」

医者が頷いた。「間違いないよ。手当ての仕方が丁寧だったから、私は余計な口出しをしなかっただけ」

直人の胸がぎゅっと締め付けられる。真っ先に浮かんだのは、高熱に浮かされながらも必死に世話を焼いていた夏希の青ざめた顔だった。

あの時、確かに彼女の様子がおかしいとは感じていた。でも朦朧とした意識の中で見たのは幼馴染みの面影で、問い詰めたら嘲笑われた。怒りに任せてベッドで……

思い至った瞬間、直人は苦悶の表情で額を押さえ、声を絞り出すように呟いた。

「そんな……あり得ない。なぜ彼女が……」

まるで悪夢に囚われたように呟く言葉が、医者への問いなのか自分自身への問いなのか、判然としない。

医者は立ち上がり、空になった点滴瓶を交換しながら肩をすくめた。「さあね。多分、あなたが好きなんでしょう」

「そんなわけない!」

直人は突然豹変して怒鳴りつけた。もし夏希がまだ自分を想っているのなら、なぜあんな酷い真似を?あの言葉を吐いた?

全ては彼女の偽りの仮面に過ぎない!

震える指先が止まらない。胸中に渦巻く混乱は収まる気配すら見せなかった。

脳裏を駆け巡るのは夏希の表情の数々--笑顔、涙、茶目っ気、そして無表情。彼女がどうしてそこまで残忍に変わったのか、本当にそんな女ならなぜ自分の献身を隠し通したのか。

「まあ、ゆっくり休んでください。食事は摂った方がいいよ。また倒れますから」

医者が器具を片付け終え、退出しようとしてふと足を止めた。ポケットから擦り切れた携帯を取り出す。

「そういえば、高梨さんがこれを置き忘れていた。倒れた時に落としたのを拾ったんだが、ええ、その後ずっと返す機会がなくて、あなたが彼女を……」

医者は鼻をかすかに皺め、ベッドサイドに携帯を置いた。

「今の時代、こんなボロ携帯まだ使ってるなんてね」

ドアが閉まる音
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    「ピピピ──」耳元で鋭い機械音が鳴り続けている。直人は意識を取り戻すと、全身の骨が砕かれたような激痛に襲われた。口の中に広がる鉄臭い血の味。呼吸するたびに肺が引き裂かれるような痛みが走る。ぼんやりとした会話が聞こえてきた。「今日のバイタルは?」「安定してます。でも、どうしてまだ目を覚まさないんでしょう……三日も昏睡状態ですよ。最新の医療機器を全て使っているのに」「車に跳ね飛ばされて即ICU送り、何度も危篤状態になったらしいわ。もう一歩で助からなかったとか……」「若いのに……左足は多分、残せないみたいです」直人はまぶたを重く開くと、天井の白い照明が目に刺さり、うめき声を漏らした。看護師が駆け寄る。「神尾さん!ご意識が戻られたんですね!」「ご家族を呼んで!」頭の霧が徐々に晴れ、体の痛みよりも先に記憶が蘇った。「高梨夏希……夏希を……俺は夏希に会わなきゃ……」直人はチューブを引き千切り、ベッドからよろめき立ち上がる。しかし左足に稲妻のような痛みが走り、床に膝を突いた。「神尾さん!」「誰か来て!」騒ぎの中、扉を開けて入ってきた秘書が青ざめて駆け寄り、直人の体を支えた。「社長!落ち着いてください!」直人は眼前がちらつくほどの痛みを押し殺し、秘書の腕をがっしり掴んだ。「高梨夏希は……」秘書は直人の充血した瞳を見て、声を詰まらせた。「社長……まずはご自身の足のことを--」「足なんてどうでもいい!」しゃがれ声で遮った。「お前の電話……あれは嘘だろ?あり得ない……あの人がそんな……」言葉を続ける前に、まためまいが襲った。秘書は直人をベッドに押し戻し、苦渋に満ちた表情で告げた。「高梨さんは……亡くなられました」直人の顔から血色が一気に引く。「筋萎縮性側索硬化症による呼吸器感染……余命宣告を受けていた上、無理な骨髄採取で両足が麻痺した状態で……火事に巻き込まれて」「逃げ遅れたと。そして遺体は特殊な献体契約で……一切残されていないそうです」麻痺。火災。献体。言葉が脳裏を渦巻き、直人は頭を抱えてうずくまった。「……嘘だ」「遺体がないなら……偽装かもしれない。連絡を取って俺を騙してるんだろう?」直人の喉が軋んだ。しかし秘書の声が再び冷たく続いた。「社長、高梨さんの死には不

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    直人の視界がぐらつき始めた。それでも耳元で鳴り続ける声は鮮明に脳裏を刺す。「あの病院は俺が個人出資したとこだ。中でやってることはお前の想像を超えてるぜ」「最初の頃は従順だったからな、電気ショックに窒息プレイ、ストレッチ療法……どれもこれも試したんだ。反抗しようとしても結局土下座するんだからな」「そしたらこいつが隠し持ってた携帯で助けを求めてやがった。俺がぶっ壊すまでな」「あれからはベッドに縛り付けてやった。反抗すれば電気、失敗すれば首締め、気に入らなきゃ鞭だ。お前だってあの女が泣き崩れる動画見たら溜飲が下がるだろうよ」「でな、どうしたと思う?こいつの体にお前の名前を刻んでやがった!このクソ女がまだお前のこと考えてるなんて!この写真見てみろ!」スマホ画面に拡大表示された写真。痩せ細った白い腕に、醜く乱れた刻印が無数に走っている。【直人、ナオト、神尾……】文字は次第に乱れ、深く抉られた線からは、見る者の五臓六腑を震わせるほどの苦痛が滲み出ていた。直人の視界が渦を巻き、喉元が痙攣して声も出せない。首筋を掴み、酸欠状態で思考が真っ白になる。直人の様子に気付かない界人は憎々しく呟いた。「急いで戻った理由はな、こいつが逃亡したからさ!捕まえたらお前に引き渡す。お前の手でとことん痛めつけてやれ!」その刹那、拳が風を切って顔面を直撃した。「ぎゃあっ!」悲鳴を上げて倒れる界人。粉々に砕けたスマホを蹴散らし、鉄拳が容赦なく降り注ぐ。「てめえ!直人!正気か!?」充血した両目が血の涙を流すかのような直人が咆哮する。「誰が許可した!?あの女にそんなことをする権利がどこにある!」歯を折られた界人が血を吐きながら喚く。「お前だって憎んでるんだろ!俺はお前のためを思って……!」直人の体がよろめく。胸を押さえ、突然横向きになって血を吐き出した。「痛いのは俺の方だ!お前が血を吐くわけねえだろ!」赤く染まった瞳が理性を失っていた。「精神病院に……五年も閉じ込めておいただと……」瞼を閉じれば、記憶が洪水のように押し寄せる。初めて高梨夏希に再会になった日。追いかけられていた彼女を、盗みの嫌疑で当然のように断罪した。あの怯え方は、再び監禁される恐怖からだったのか。無理矢理抱いた時、泣きながら必死に服を握りしめたのは、醜い傷跡を

  • 君は時の流れに消えていく   第20話

    直人の目が真っ赤に充血していたが、今は床に倒れた千春に構っている余裕などない。彼が探し求めているのは高梨夏希だ--この全ての真相を、彼女から聞き出さねばならない。これまで確固たるものだと信じ込んでいた思いが、ようやく揺らいでいた。遅ればせながら気付いたのだ。あの優しかった夏希が、そんな残忍な人間であるはずがない……震える手でスマホを取り出す。夏希に連絡しようとして初めて、自分が彼女の行方を全く知らないことに気がつく。代わりに秘書に電話をかけた。「神尾社長?ご指示がおありで……」「高梨夏希はどこだ!?」咆哮のような声に秘書は背筋を凍らせた。「私、存じ上げませんが……」直人は深く息を吸い込み、焦りを抑え込むように低い声で命じた。「今すぐ全ての手を尽くして、高梨夏希の居場所を突き止めろ」受話器の向こうで汗のにおいが伝わってくるようだった。「え、えっと……なぜ高梨さんを?」「余計な質問はするな!」電話を切り、直人は足早に外へ向かう。他の連絡先にも次々と電話をかけ、人脈を総動員して高梨夏希の行方を追わせた。聞かなければならないことが山ほどある。何より、彼女の身体に何かあったのか?焦燥感が内臓を焼くように疼く。会社の玄関を出た瞬間、誰かとぶつかった。「痛っ!歩き方見ろよ……あれ?直人!?」金髪をひらめかせた男がにやにやと笑っている。山崎界人(やまさき かいと)だ。「そんな急いでどこ行くんだよ?久しぶりだろ。メールも無視するなんて冷たいじゃねえか。飯おごれよ」直人は眉をひそめながら歩き続けた。「今は無理だ。急用が」界人がぶつぶつ文句を言いながら後を追った。「ちょっと待てよ直人!そんなに急ぐなって……久しぶりの再会だろ?メール既読無視とか冷血すぎんじゃねえの?せっかくお前のために面白いネタ仕入れてきたのにさ」直人の表情は岩のように硬い。「後で聞く」「高梨夏希の話なんだけどな」直人の背筋がぴたりと止まった。ゆっくりと振り向く視線の先で、界人が悪戯っぽく片眉を吊り上げた。「へへ、やっぱ食いつくと思ったよ。骨の髄まで憎んでるくせに、まさか興味ないなんて言うかと思ったぜ」直人はスマホの画面をちらりと見た。検索網は既に展開されている。今はこの男の話を聞くしかない。喉の奥で鈍い痛みを感じながら、低く

  • 君は時の流れに消えていく   第19話

    卓也は、直人がもう救いようがないと悟った。彼は失望に満ちた目で直人を見つめ、声を嗄らせて言った。「直人……お前は本当に、道理をわきまえない奴だ」直人は虚ろな表情で床に横たわり、頭上からの明かりが目を眩ませる。「高梨夏希のためなら、神尾家の全てを捨てるというのか?」直人の声は低く、砂を噛んだようだった。「……当然の報いだ。姉の株式も私の分も全て譲る。償いの……一端にでもなれば」「そんなもので償えると思うな!」卓也の顔が歪んだ。「幸子の弟と名乗る資格はない!彼女にすまないと思わんのか!出て行け……消えろ!」最後の言葉は、ほとんど絶叫に近かった。直人はよろめきながら立ち上がり、ドアを押し開けて外へ出た。この先に何が待っていようと、受け入れる。ただ、もう一度夏希に会うために--ドアは枷のように感じられていた。ようやく解き放たれ、己の本心と向き合う覚悟が決まった瞬間だった。しかし数歩も歩かないうちに、耳を劈くような声が背後から響いた。「神尾直人!」冷たい表情で振り返ると、千春が走り寄ってくる。直人の瞳には微塵の感情も浮かんでいない。「何の用だ?」顔を歪ませ、目は充血している千春の様子が明らかに異常だった。「約束したでしょう!私に適合する骨髄を見つけて治すって!嘘つき!」直人は眉を顰めた。「馬鹿げたことを言うな。適合ドナーは見つかり移植も終わったはずだ」「それが誰よ!」千春は泣き叫んだ。「あんたの選んだドナー、病気持ちじゃないの!骨髄の活性が低すぎて、合併症で私の骨髄まで侵されていくって!医者にはもう助からないって言われたのよ!」直人の顔色が一瞬で褪せた。「……戯言を」千春が検査結果を彼の顔に叩きつける。直人は慌てて紙を掴み、一行一行追うごとに顔が青ざめていく。夏希と千春の骨髄が適合していた。もしドナーに問題があれば--つまり夏希が……「殺す気なのね!この人殺し!」千春が爪を立てて襲いかかるが、直人が腕を掴んで制止した。「……そんなはずがない!」直人は首を振り、自分に言い聞かせるように呟いた。千春は泣き笑いしながら絶叫した。「あんたなんて冷血よ!私は神尾家の医療資源を利用するためにあなたに近づいたんだから!五年前に火事から助けたって嘘も平気でついたわ!」直人が千春の手首を握り

  • 君は時の流れに消えていく   第18話

    乾いた目を瞬かせ、直人は墓石の脇に咲くマーガレットの花束を疑うように見つめた。「姉さん……」膝で進みながら、彼は突然墓碑に抱きつき、泣き笑いを始めた。自分を欺き続ける醜さに深く嫌悪しつつも、心の奥では狂おしいほどの喜びが渦巻いていた。--ほら、姉さんはもう夏希を許してくれたんだ。もはや心に嘘はつけない。この苦しみから逃れるためなら、高梨夏希を縛りつけてもいい。藤の蔓のように絡み合い、腐れ縁になろうとも構わない。神尾幸子の墓前で、直人は丸一日跪いていた。一滴の水も口にせず、充血した目でマーガレットの花束を見据えたまま。夜が明け、朝日が昇る頃、ようやく硬直した体を動かし、よろめきながら立ち上がった。膝の痺れが刺すように疼く。歩く足取りは不自然に引きずりながらも、彼の表情には晴れやかな覚悟が浮かんでいた。墓碑に目を落とし、呟く。「……姉さんが許さないなら、あの世で詫びるよ」ふらつく足取りでその場を離れ、直人は真っ先に小田卓也の元へ向かった。手にした書類を全て机に押し付けると、卓也は困惑した面持ちでそれに目を通した。「……どういうつもりだ!?」卓也の声が震えた。直人はしばし黙り込み、かすれた声で答えた。「俺は神尾グループの全株式を譲る。今日からお前が実質的な経営者だ」卓也の顔が一瞬で蒼白になり、やがて怒りに歪んだ。直人がペンを差し出すと、彼はそれを激しく払いのけた。「直人……お前、正気か!?高梨夏希を追う気か!?幸子を殺した女だぞ!忘れたのか!?」直人の顔から血色が引いたが、視線は揺るがなかった。「……忘れてない。でも、どうしようもないんだ」声は押し潰された獣の嗚咽のようだった。「どうしようもない……!」「忘れられない!夏希に会えなきゃ、俺は死んだも同然だ!」怒号が部屋に響く。抑え込んでいた苦悩が一気に爆発し、充血した目から血の涙が零れそうだった。「バシッ!」と頬を殴打される音。卓也の手が震えていた。「そんな言葉……幸子に顔向けできるのか!?」次の瞬間、拳が直人の顔面を直撃した。床に倒れても、彼は抵抗せず雨あられの暴撃を受け続けた。「姉さんに顔向けできるのか!?」血を吐きながらも、直人は静かに首を振った。「……悪い」「狂ってる……それほどまでに諦められないのか!?

  • 君は時の流れに消えていく   第17話

    その瞬間、直人の顔から血の気が引き、足元がふらついた。バーの喧噪の中、千春の甲高い声が周囲の視線を集めている。「神尾直人、そんなに彼女を憎んでるくせに未練たらしくして!偽善者ね!」「芝居打って追い出したじゃない!いなくなったら今さら涙もじょうずだなんて!」「……黙れ」直人はテーブルを蹴り上げ、ガラスの割れる音が響いた。千春が蒼白になって後ずさりする様を、直人は獣のような赤い目で睨みつけた。千春はその様子に遅れて恐怖が込み上げ、よろめきながら数歩後退すると、考える間もなく外へ駆け出した。額の血管が脈打ち、脳髄を刃物で抉られるような痛みが走る。あの女の言葉が耳朶に刺さっていた。『飛び込んだのは自分、あなたは高梨夏希を海に突き落とした』なぜ自分に言わなかった?なぜ夏希は沈黙していたのか?ふと気付いた。あの事故以来、彼女の顔すら見ずに手術台に縛りつけたことを。胸が締めつけられるように疼き、膝を抱えて喘いだ。出会って以来の自分を思い返す。雑用を押し付け、罵声を浴びせ、波間に突き落とし、無理やり謝罪させ--ベッドで泣かせるまで追い詰めた。あの頃とは違う。愛し合っていた頃は、いつだって彼女の頬を撫でながら、甘える声に耳を澄ませていた。敏感な夏希が苦しまぬよう、どんなに我慢しても優しく溶かすように抱いた。自分の首筋に顔を埋め、「直人くん、大好き」と囁くあの子。わざと「愛してないの?」とからかえば、きっとキスで応えてくれたはずだ。「夏希は神尾直人を世界一愛してるの!」--バーを出た直人が震える手でタバコに火をつけた。高級スーツの膝が路上の埃にまみれても構わず、燃え尽きるまま放置した。指先が焦げる痛みで我に返り、墓園行きのタクシーに飛び乗った。階段を重い足取りで登りきると、陽射しを浴びて微笑む神尾幸子の墓石が待っていた。直人が墓碑に額を押し付けると、ひび割れた声が零れた。「姉さん……もう限界だ」胸から夏希を引き剥がそうとすればするほど、根を張った蔓のように心臓を引き裂く。このまま引き抜けば、空洞になった胸に何が残るというのか。「どうすれば」ふと目に入ったのは墓石の隅に置かれたマーガレットの花束。しなびかけているが、丁寧にリボンを結んだ形跡が残る。忌日以外に墓参りしない小田卓也が供えるはずがない。思い当たる名

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