玄関の扉を閉めた瞬間、湿った冷気が靴の中まで染み込んでいたことに気づいた。制服の裾は脚にまとわりつき、髪からはしずくがぽたぽたと落ちて、床に小さな水溜まりを作っている。
リビングの奥から、静かなキーボードの打鍵音が聞こえた。宏樹はいつものように原稿に向かっている。いつもの夜。雨が降ろうが、自分が濡れて帰ろうが、それを知らせる言葉も、誰かの出迎えもない。
制服のまま、鞄も落とさず、拓海はそのままリビングへ歩いた。濡れた靴下がフローリングに吸いつく音が、部屋の静けさに紛れて不自然に響く。
宏樹が顔を上げた。
「…どうした?傘、なかったのか」
いつもの低く落ち着いた声。タイピングを止め、彼は椅子を回してこちらを向いた。
拓海は無言で立ち尽くしていた。濡れたシャツが冷えて、皮膚の上に貼りついている。雨に濡れても、走っても、歩いても、心の中のざわつきは何も変わらなかった。
「拓海?」
名前を呼ばれ、ようやく足が動いた。数歩進んで、テーブルの端に手をつく。重く、呼吸がうまくできない。目の奥が熱くて、何かが溢れそうなのを必死に堪える。
「なあ、着替えてから…」
宏樹が立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「女に…触れられないんだ」
拓海の声は、ひどくかすれていた。喉の奥から無理やり引き出されたそれは、言葉というよりも、吐息に近かった。
宏樹が動きを止める。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味。触れられると、拒否反応が出る。気持ち悪くて、鳥肌が立って、息ができなくなる」
言葉が出たあと、全身が震えていた。冷えているのか、感情のせいなのか、自分でももうわからなかった。
「今日も、学校で…女子に手を触れられて、すぐに引いた。そしたら…『やっぱ変わってるね』って、笑われた」
拓海は唇を噛んだ。唇の内側に歯が食い込む痛みで、今ここが現実だと確かめようとしていた。
「周りはみんな、『恋バナ』とかして、誰が好きとか、どの子
岸本が宏樹の家に向かって歩き出したのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。空は曇っていたが、さっきまで降っていた雨はようやく上がり、歩道には水たまりがまだらに残っていた。革靴の裏が湿ったアスファルトを叩く音を聞きながら、岸本はふと、数年前のことを思い出していた。打ち合わせ帰り、あの夕方の喫茶店のことを。当時、宏樹の新作は順調に売れていて、出版社としても期待の看板作家だった。が、あの日、彼の口から唐突に出た話題は、原稿の内容でもなければ、読者の反応でもなかった。「実は、彼女には子どもがいるんだ」岸本は、目の前のカップを持つ手を止めた。まだミルクの膜が張ったままのコーヒーの表面に、店内の照明がぼんやりと映っていた。「…彼女?」「再婚しようと思ってる」宏樹の口調は、驚くほどあっさりとしていた。まるで今日の天気について語るように。「高校生になる息子がいる。名前は拓海。俺とは、まあ…最初はお互いぎこちないけどさ」それを聞いたとき、岸本の中に浮かんだのは、一瞬の戸惑いと、ほんの少しの不安だった。宏樹という作家は、私生活では極めて無口で、他人との距離を慎重に計る男だった。そういう人間が、いきなり十代の少年と家族になろうとしている。「…無理してるんじゃないのか?」思わずそう口にしてしまったことを、岸本は今でも覚えている。けれど宏樹は、その言葉に怒るでもなく、ただグラスの水をひとくち飲んで、少しだけ目を伏せた。「彼女、美幸は…病気なんだ。完治はしないって言われてる」そのときの空気が、一瞬で変わった。店内の喧騒が遠くなる。誰かのスプーンがソーサーに当たる音が、異様に響いた。「…それで、急いでるのか」岸本の声は、無意識に低くなっていた。宏樹は少し笑った。寂しさを含んだ笑いだった。「人を一人で死なせるのが怖いんだ」その一言が、なにより強く残った。それは、誰よ
窓の外に、ひとひらの葉が舞っていた。黄と茶の混じった細い葉が、風に押され、回転しながら空を切って落ちていく。軋むような音を立てて窓枠をかすめた瞬間、宏樹はペンを握ったまま視線をそちらに向けた。書斎の空気は、妙に澄んでいた。冷たくも、暑くもない。けれど、肌を撫でる空気には明確な“変化”が混じっていて、何かが終わっていく気配がした。目の前のノートには、白紙のままのページ。万年筆のインクが紙に触れないまま、小さな影だけが落ちている。「…くそ」低く呟いて、彼はペンを置いた。微かな音すらも部屋に響く。その瞬間、背後の静けさが増幅された。拓海がいない。それだけのことが、空間のすべてを変えてしまっていた。椅子の軋む音も、シャワーの音も、リビングで交わす短い会話もない。気づけば、キッチンも、リビングも、静まり返っていた。あの少年が歩くたびに揺れていた空気の、あの熱が、ここにはもうない。宏樹は立ち上がり、書斎の棚をぼんやりと眺める。指先が無意識に引き出しの取っ手に触れ、そして躊躇なくそれを開けた。奥にあった、小さなフォトスタンド。金属の縁が少しくすんだそれには、笑っている美幸と、高校に入学したばかりの拓海が写っている。写真の中の彼女の目元に、窓から射した光が反射して、瞬いたように見えた。その瞬間、胸の奥が鈍く揺れた。「…もういいだろ」誰に向けた言葉でもなく、ただそう言って、彼はゆっくりと写真立てを裏返し、引き出しの奥にそっとしまった。ほかにも、小さなアルバム、メモ帳、端のちぎれた封筒。全部まとめて、一番下の引き出しに押し込むように仕舞い込む。音を立てないように、静かに、まるで何かを葬るように。手を離したあと、何もなかったように引き出しは閉まった。静寂が戻る。目を閉じれば、思い出す。あの夜、酔って帰ってきた自分が、どうしてあんなことをしたのか。無意識のようで、でも確かに自分の手で起こした出来事。その後の、拓海の表情。
風の音に混じって、遠くで虫の声が鳴いていた。祖母の家の一室。障子の向こうには、ほのかに月明かりが漏れている。畳の匂いに包まれながら、拓海は掛け布団の上に仰向けになっていた。部屋は静かだった。うるさいくらいだった東京の夜とは対照的に、ここでは音が一つひとつ際立って響く。携帯電話を握ったまま、指が迷っていた。連絡なんて、するつもりはなかった。出てくる前も、そして今日の昼間までも。でも、夜になると、あの人のことを考えてしまう。台所で立つ姿。コーヒーを啜る音。なぜか、目を合わせない時間。小さく息を吐き、通話履歴を辿ってタップする。呼び出し音がひとつ、ふたつと重なるたびに、心臓が妙に落ち着かなく跳ねた。「…はい」宏樹の声だった。少し掠れている。眠っていたのか、それとも酒でも飲んでいたのか、判断はつかなかった。拓海は一瞬、口を開いたまま言葉が出せなかった。「あ…俺」「…拓海か」電話の向こうも、同じように言葉を探している気がした。かすかな沈黙が、ふたりの間に挟まる。「ごめん、こんな時間に」「いや、大丈夫。…どうしてる?」「うん、別に。元気だよ」「そっか」返ってくる声は優しいでも冷たいでもなく、ただ淡々としていた。拓海はふと、昼間に歩いた田んぼ道のことを思い出した。風の音、空の青さ。何も語らない景色に包まれていた時間。宏樹といるときとは、まるで違う静けさだった。「そっちは?…仕事、進んでる?」「まあ、ぼちぼち」「…そっか」互いの声が交差しては消えていく。会話は続かない。何かを言えば、傷が深くなるような気がして、拓海は次の言葉を選べなかった。宏樹も同じだったのかもしれない。受話器の向こうから、軽く息を吐く音が聞こえた気がした。「じゃあさ…あんまり遅くなると悪いから、切るね」
アスファルトの切れ間から、稲の波が風に揺れていた。拓海はゆっくりと足を止め、陽に灼けたあぜ道に立った。風鈴の音も蝉の声もない、ただ稲の葉がすれる、かすかな擦過音だけが耳に残る。東京では感じられなかった匂いが、足元から立ち上がってくる。土のにおい。水のにおい。陽に焼けた草のにおい。手にした水筒の冷たさが、指の間から伝わってきた。喉は乾いていたけれど、口に運ぶ気にはなれなかった。空は高く、青かった。絵に描いたような、雲ひとつない八月の午後。「どこまで続いてるんだろうな」誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。返事などあるはずもなく、風だけが髪を揺らした。拓海は道路脇に腰を下ろした。遠くで農機具の音が響いていた。軽トラックのエンジン音が過ぎ、また静けさが戻る。東京にいたときは、この静けさが怖かった。考えすぎて、呼吸が浅くなるような気がして。けれど今は、違っていた。「ここでも、あっちでも…俺は、どこにもいないみたいだな」そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ疼いた。宏樹の家では、“家族”という名前の仮面をつけていた。澄江の家では、“孫”という位置に戻された。どこかに自分が根を下ろせる場所があったはずなのに、それがいつからか消えていた。というより、最初からなかったのかもしれない。目を閉じてみる。耳に入ってくるのは風と、虫の鳴き声、そしてときどき葉が擦れる音だけ。都会のざわめきに埋もれていた自分の声が、ここでは浮かび上がってくる気がした。母のいない世界に、慣れたと思っていた。宏樹と暮らしながらも、それを受け入れたつもりでいた。でも、きっとあれは慣れたのではなく、ただ見ないようにしていただけだった。「…どうしたいんだろう、俺」言葉にした途端、胸がじんと熱くなった。家族ってなんだ。場所ってなんだ。誰かの横にいることでしか、そこにいられないのなら、それは本当に“自分の居場所&rdquo
障子の向こうで虫の声が細く鳴いていた。夜の気配は家の中にまで染み込んで、畳の上に置かれた蝋燭の小さな灯が、天井に揺れる影を描いている。拓海は正座したまま、澄江が差し出した包みを見つめていた。柔らかな手拭いで丁寧に巻かれたそれは、古びた紙の匂いとともに、時の重さを滲ませている。「これね、美幸が置いていったのよ。捨てられなかったの。…拓海に渡すかどうか、ずっと迷ってたけど」その声は、どこかためらいと祈りが混ざった響きを帯びていた。拓海は、手拭いの端にそっと指をかけた。布がほどける音が、やけに大きく耳に届いた。中から現れたのは、革表紙のノートと、数通の封筒。どれも日焼けし、角が丸まっていた。ノートを開いた瞬間、そこに流れ込んできたのは、確かに知っている母の筆跡だった。丸みのある、けれど癖の強い文字。ときどき、書き損じを線で消したあとがあり、行間には貼られたシールや、幼い拓海の絵がはさまっていた。「今日、拓海が初めて“ママ”って言った。泣きそうなくらい嬉しかった。あの子の声は、何よりもやさしい音だ」読みながら、拓海は息を吸うのを忘れていた。文字の中から、母の声が聞こえてくるようだった。記憶の中の母はいつも微笑んでいたが、ここには不安も戸惑いも、怒りや疲れさえも残されていた。「夜中に熱を出して、抱きしめながら祈った。“お願い、拓海を連れていかないで”って。小さな体が、壊れてしまいそうで…怖かった」蝋燭の炎がわずかに揺れ、母の文字に影を落とした。拓海はページをめくる手を止められずにいた。そこには、母の“生”があった。苦しみながら、それでも愛していた日々の証が、ここにあった。手紙の束に手を伸ばすと、宛名はどれも「拓海へ」と書かれていた。一枚目の封を開くと、静かな香水の香りが漂った。「あなたがこれを読む頃、私はもう隣にいないかもしれません。そう思いながら書くのは、本当に辛い。でも、伝えておきたいの。私はね、あなたを育てられて幸せでした」行を追うごとに、目の奥
庭先に射す午後の陽は、どこかやわらかく、暑さの輪郭をぼやかしていた。澄江の家は古く、小さな瓦屋根の下に、緩やかな時の流れが根を張っている。縁側の敷居に腰を下ろすと、目の前の風鈴が涼しげに鳴った。ガラスの音が風に混ざり、記憶の底に沈んでいた情景をゆっくりと掬い上げていく。拓海は、麦茶の入ったグラスを手にしたまま庭を見つめていた。背の低い百日紅(さるすべり)が濃いピンクの花を咲かせ、その根元には母がかつて植えたハーブが小さく香っていた。「水撒き、してくれてありがとね」後ろからかけられた祖母の声に、軽く頷いて返す。澄江は、濡れた手を前掛けで拭きながら、拓海の隣に座った。「この時間が、いちばん好きなのよ。暑さも少し落ち着いて、風が気持ちよくて」その言葉通り、そよいだ風が頬をなでていく。家の中からは煮物の湯気の香りが流れてきて、腹の底がじんわりと温まるような感覚がした。けれど、同時に胸の奥にひっかかる違和感もある。懐かしさに身を委ねきれないのは、ここに母の記憶が染みつきすぎているからだった。幼いころ、母と手をつないでこの縁側に座ったことがある。ハーブの名前を教えてもらい、風鈴の音を数え、縁側の木のささくれを指先でなぞった。今、自分がその位置に一人で座っていることが、どこか場違いのように感じられた。「美幸がね、この百日紅が好きだったのよ」祖母の言葉に、拓海の視線が自然と花の方へ向かう。「覚えてる。よく、一緒に水撒いてた」「ふふ。そうだったわね。『夏はこの花が似合う』って言って、何年も世話してくれてた」その声ににじむ懐かしさが、拓海の胸に染み込んでくる。けれど、そこにあるのは懐かしさだけではなかった。母を想うたび、胸の奥にはうまく形にできない苛立ちのようなものがわだかまる。なぜ、あの時、母は病気を隠していたのか。なぜ、もっと言葉にしてくれなかったのか。なぜ、突然いなくなったのか。けれど問いはどれも、どこにも届かない。答えを持つ人は、もうこの世にいない。「お茶、もう少し飲む?」祖母の問いかけに、小さく首を横に振った。喉は渇い