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見透かされたくない

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-08-25 16:16:32

夜のリビングは、どこか乾いていた。

雨上がりの湿気が窓にうっすらと残り、外の景色を曇らせている。テレビはついていたが、誰も真剣に見ているわけではない。淡々とニュースの声が部屋に流れ、それが静けさを際立たせていた。

拓海はソファに背を預けたまま、視線だけを横に滑らせる。

ローテーブルの向こう、机に向かう宏樹の背中があった。少し猫背で、指はキーボードを叩いていたり、時には止まって資料を見返していたり。無造作な髪が光を鈍く弾いていて、左手には消えかけた煙草が握られていた。

「ただいま」と言ったとき、宏樹は顔も上げずに「おかえり」とだけ返した。

それで会話は終わった。声の奥に責めも干渉もなかった。優しいといえば優しかった。でも、まるで他人の言葉みたいだった。

いつも、こんな感じだ。

二人暮らしになって、もうすぐ一年になる。

家の中は落ち着いている。宏樹は、何かを強制してくるような大人ではない。口うるさくもない。だけど、それはたぶん、責任や情ではなく、必要以上に関わらないという暗黙の了解の上に成り立っていた。

「今日は雨だったね」

ふと、言葉が喉まで上がった。でも、声にはならなかった。

そんな会話を交わす必要があるのか、ないのか。自分でもわからない。

言ったところで、宏樹は何と答えるだろう。

そう考えるうちに、口の中に残った温度が冷めていく。

テレビの中で誰かが笑った。けれど、拓海の胸の奥は静かだった。

気づけば、自分の目線は壁の写真に向いていた。

木製のフレームにおさめられた一枚。母、美幸の笑顔がそこにあった。白いブラウス、淡いメイク、光の中で少し髪が透けて見える。

その顔を、拓海はいつの間にか“鏡”のように見るようになっていた。

「似てきたな」と言われたことがある。

親戚も、先生も、時には宏樹も。

鏡を見るたび、どこかでその言葉を意識してしまう。目元、鼻筋、唇の形。たしかに、重なる部分はある。

でもそれは、本人にとっては複雑な感情を呼び起こす材料でしかなかった。

母なら――

この違和感の正体を、聞けただろうか。

恋がわからない、誰かを好きになれない。自分のことなのに、自分がいちばん置いてけぼりを食らっている。

それを話したら、母はどんな顔をしただろう。

笑ったのか、泣いたのか、それとも、黙って抱きしめたのか。

わからない。

でも、話してみたかった。

宏樹には…話せなかった。

血のつながりがないから?

男だから?

“父親”という肩書きがあるから?

いや、違う。

宏樹の目が、見透かしすぎるからだ。

黙っていても、何かを気づいているような眼差し。

「言わなくてもいいよ」と優しく思いやる風を装って、その実、すべてを悟っているような静けさ。

それが、こわかった。

ほんの少しでも語れば、たちまち心の奥まで見られてしまいそうで。

そのとき、自分のなかの「変さ」が、すべて明らかになるようで。

自分自身も気づいていない部分まで、言葉にされてしまうようで。

拓海は膝を抱えるようにして、リビングのクッションに身体を預けた。

足元のカーペットは微かに湿っていて、冷たさが皮膚に伝わる。

「…拓海」

突然、名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

振り返ると、宏樹が顔を上げていた。眼鏡を額にずらし、煙草の灰を落としながら、ぼんやりとした表情でこちらを見ている。

「眠いなら、先に風呂入れよ」

「…うん」

それだけ言って、拓海は立ち上がった。

背後から視線を感じたが、振り返らなかった。

見られたくなかった。

黙っていても滲んでしまうものを、言葉にしてしまったら、もう隠せなくなる。

見透かされたくなかった。

風呂場に向かう途中、またふと、美幸の写真に目がいった。

その笑顔は、何も言わない。何も答えない。

でも、あの目だけは、拓海のなかの何かを赦してくれそうな気がしてならなかった。

ただ、それはもう、この世にいない人の目だ。

今の自分を赦せるのは、自分しかいない。

そう、頭ではわかっている。

でも、心がそれを認めるには、もう少しだけ時間が必要だった。

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