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1-1-2

Penulis: 海野雫
last update Terakhir Diperbarui: 2026-01-02 11:00:14

 昼休み、涼介は一人でビルの屋上に出た。

 ここは涼介の秘密の場所だった。社員のほとんどは社員食堂やコンビニで昼食を済ませるので、屋上に来る人間はほとんどいない。風が強い日は特に誰も来ない。今日は曇り空で、冷たい風が吹いていた。

 涼介はベンチに座り、イヤホンを耳に押し込んだ。音楽が流れ始める。低く、甘い、囁くような声。

 この声を聴いている時だけ、涼介は「自分」でいられる。

 オフィスで被っている仮面を外し、誰にも見せない本当の自分に戻れる。感情を持ち、傷つき、求めている自分。誰かに認められたいと願い、誰かに優しくされたいと渇望している自分。

 涼介には、もう一つの秘密があった。

 ゲイであること。

 それは、この会社で生きていく上で、絶対に知られてはいけないことだった。

 総合商社という男社会で、ゲイであることがバレたらどうなるか。涼介は、想像するだけで背筋が凍る思いだった。陰で何を言われるか分からない。出世に響くかもしれない。最悪の場合、居場所を失うかもしれない。

 時代は変わりつつある、と人は言う。LGBTQへの理解が進み、多様性を認める社会になりつつある、と。だが、涼介が生きているのは「理想の社会」ではなく、「現実の職場」だ。飲み会での下ネタ、「彼女いないの?」という何気ない質問、「男なんだから」という無意識の偏見。それらが日常的に飛び交う環境で、カミングアウトする勇気など、涼介にはなかった。

 だから涼介は、完璧に「普通の男」を演じてきた。

 合コンに誘われれば営業スマイルで参加し、「いい人いないの?」と聞かれれば「仕事が忙しくて」と笑ってごまかす。女性と付き合ったことがないのは「奥手だから」で通してきた。飲み会では適度に相槌を打ち、下ネタには曖昧に笑い、誰とも深い関係を築かないようにしてきた。

 誰も疑わない。涼介は完璧に「普通の男」を演じていた。

 でも、それは演技だ。

 本当の自分は、誰にも見せられない。

「お、黒川。ここにいたのか」

 声がして、涼介は顔を上げた。山下が屋上のドアから出てくるところだった。

「山下……」

「一人で何してんの? 飯、まだだろ? 一緒に食おうぜ」

「いや、俺は――」

「遠慮すんなって。今日の会議、お前の資料のおかげでうまくいったんだから。お礼に奢るよ」

 山下が涼介の腕を掴んで立ち上がらせる。涼介は抵抗する気力もなく、山下に引きずられるように屋上を後にした。

 社員食堂は、昼時で混雑していた。周囲の喧騒の中、山下は涼介の向かいに座った。

「なあ黒川、お前さ、もうちょっと自己アピールした方がいいんじゃないの?」

「……どういう意味だ?」

「だって、今日の資料、全部お前が作ったんだろ? なのに、お前は会議室の隅で黙ってるだけ。もったいないよ」

 涼介は箸を止めた。

「俺は、人前で話すのが苦手なんだ」

「分かってるよ。でもさ、このままじゃいつまで経っても評価上がらないぞ。お前、仕事はできるのに、上には『裏方向きの人材』としか思われていない」

 山下の言葉が、涼介の胸に突き刺さる。

 分かっている。分かっているのだ。

 でも、変われない。人前に立つことが怖い。注目されることが怖い。本当の自分を見透かされることが、何より怖い。

「まあ、俺がお前の分もアピールしてやるから、安心しろよ」

 山下が笑いながら言う。その言葉に、涼介は複雑な感情を抱いた。

 感謝すべきなのか。それとも、利用されていると感じるべきなのか。山下に悪意がないことは分かっている。彼は純粋に、涼介のことを心配してくれているのかもしれない。でも、その「善意」は、涼介にとっては時に重荷になる。

「そういえばさ、今度の金曜、合コンあるんだけど。来ないか?」

 山下が話題を変えた。涼介は内心でため息をついた。

「……また?」

「いい子いるって。広告代理店の子たちでさ、みんな可愛いらしいぜ。お前、最近全然彼女いないだろ。そろそろ本気で探した方がいいんじゃないの」

「考えとく」

「お前さあ、いつもそう言って来ないじゃん。もしかして、誰か好きな人でもいるの?」

 山下の目が、探るように涼介を見る。

 涼介は、その視線から逃れるように目を逸らした。

「いないよ。仕事が忙しいだけだ」

「ふーん」

 山下は何か言いたげな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。涼介は内心でほっとしながら、味のしない定食を口に運んだ。

 その日の夜、涼介は深夜まで残業した。

 新しいプロジェクトの資料作成を任されたのだ。今度こそ、自分でプレゼンしたい。そう思って、涼介は誰よりも早く資料に取り掛かった。

 だが、結局また同じことの繰り返しになるのだろう。涼介が資料を作り、山下がプレゼンをする。涼介の努力は、山下の評価に変わってしまう。

 オフィスの窓から、東京の夜景が見える。無数のビルの明かりが、まるで星のようにきらめいている。あの光の一つひとつに、誰かの人生がある。涼介と同じように、残業している人がいる。涼介と同じように、何かを隠して生きている人がいる。

 みんな、何かを演じながら生きている。

 涼介だけが、特別なわけじゃない。

 終電を逃し、タクシーで帰宅する。

 マンションに着いたのは、午前一時を回った頃だった。

 涼介が住んでいるのは、東京郊外の中規模マンションだ。築十五年、駅から徒歩七分。都心から電車で四十分という立地は、決して便利とは言えない。

 同僚たちの多くは、会社の近くに住んでいる。港区や渋谷区の高級マンション、あるいは都心のタワーマンション。「通勤時間がもったいない」「仕事帰りに飲みに行きやすい」――彼らの言い分は正しい。

 でも、涼介はあえてこの郊外のマンションを選んでいた。

 新人時代に借りて以来、六年間住み続けている。仕事が忙しく、引っ越しを考える余裕がなかったというのも事実だ。でも、本当の理由は別にある。

 同僚と距離を置きたかったのだ。

 会社の近くに住めば、休日に偶然会うこともある。飲み会の帰りに「ちょっと寄っていこう」と言われることもある。プライベートと仕事の境界が曖昧になり、自分を「演じる」時間が増える。

 涼介にとって、この郊外のマンションは「素の自分」に戻れる場所だった。誰にも詮索されない、誰にも干渉されない、自分だけの城。ゲイであることを隠すためにも、プライベートを詮索されない環境は必要だった。

 エントランスのオートロックを解除し、エレベーターに乗る。四階で降り、四〇二号室の前に立つ。

「……ただいま」

 誰もいない部屋に向かって、習慣のように呟いた。返事などあるはずもない。

 シャワーを浴び、ベッドに横たわる。

 疲れ切った体が、マットレスに沈み込んでいく。

 目を閉じると、今日一日の出来事が脳裏に蘇った。

 山下のプレゼン。上司の言葉。「裏方向きの人材」。合コンの誘い。「好きな人でもいるの?」という山下の問い。

 涼介は枕に顔を埋めた。

 このまま、一生「裏方」として生きていくのだろうか。

 誰にも認められず、誰にも見てもらえず、ただ黙々と仕事をこなすだけの人生。本当の自分を隠し続け、「普通の男」を演じ続ける人生。

 涼介は、静かに目を閉じた。

 眠りに落ちようとした、その時だった。

 ――聞こえた。

 壁の向こうから、かすかな声が。

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