تسجيل الدخول昼休み、涼介は一人でビルの屋上に出た。
ここは涼介の秘密の場所だった。社員のほとんどは社員食堂やコンビニで昼食を済ませるので、屋上に来る人間はほとんどいない。風が強い日は特に誰も来ない。今日は曇り空で、冷たい風が吹いていた。
涼介はベンチに座り、イヤホンを耳に押し込んだ。音楽が流れ始める。低く、甘い、囁くような声。
この声を聴いている時だけ、涼介は「自分」でいられる。
オフィスで被っている仮面を外し、誰にも見せない本当の自分に戻れる。感情を持ち、傷つき、求めている自分。誰かに認められたいと願い、誰かに優しくされたいと渇望している自分。
涼介には、もう一つの秘密があった。
ゲイであること。
それは、この会社で生きていく上で、絶対に知られてはいけないことだった。
総合商社という男社会で、ゲイであることがバレたらどうなるか。涼介は、想像するだけで背筋が凍る思いだった。陰で何を言われるか分からない。出世に響くかもしれない。最悪の場合、居場所を失うかもしれない。
時代は変わりつつある、と人は言う。LGBTQへの理解が進み、多様性を認める社会になりつつある、と。だが、涼介が生きているのは「理想の社会」ではなく、「現実の職場」だ。飲み会での下ネタ、「彼女いないの?」という何気ない質問、「男なんだから」という無意識の偏見。それらが日常的に飛び交う環境で、カミングアウトする勇気など、涼介にはなかった。
だから涼介は、完璧に「普通の男」を演じてきた。
合コンに誘われれば営業スマイルで参加し、「いい人いないの?」と聞かれれば「仕事が忙しくて」と笑ってごまかす。女性と付き合ったことがないのは「奥手だから」で通してきた。飲み会では適度に相槌を打ち、下ネタには曖昧に笑い、誰とも深い関係を築かないようにしてきた。
誰も疑わない。涼介は完璧に「普通の男」を演じていた。
でも、それは演技だ。
本当の自分は、誰にも見せられない。
「お、黒川。ここにいたのか」
声がして、涼介は顔を上げた。山下が屋上のドアから出てくるところだった。
「山下……」
「一人で何してんの? 飯、まだだろ? 一緒に食おうぜ」
「いや、俺は――」
「遠慮すんなって。今日の会議、お前の資料のおかげでうまくいったんだから。お礼に奢るよ」
山下が涼介の腕を掴んで立ち上がらせる。涼介は抵抗する気力もなく、山下に引きずられるように屋上を後にした。
社員食堂は、昼時で混雑していた。周囲の喧騒の中、山下は涼介の向かいに座った。
「なあ黒川、お前さ、もうちょっと自己アピールした方がいいんじゃないの?」
「……どういう意味だ?」
「だって、今日の資料、全部お前が作ったんだろ? なのに、お前は会議室の隅で黙ってるだけ。もったいないよ」
涼介は箸を止めた。
「俺は、人前で話すのが苦手なんだ」
「分かってるよ。でもさ、このままじゃいつまで経っても評価上がらないぞ。お前、仕事はできるのに、上には『裏方向きの人材』としか思われていない」
山下の言葉が、涼介の胸に突き刺さる。
分かっている。分かっているのだ。
でも、変われない。人前に立つことが怖い。注目されることが怖い。本当の自分を見透かされることが、何より怖い。
「まあ、俺がお前の分もアピールしてやるから、安心しろよ」
山下が笑いながら言う。その言葉に、涼介は複雑な感情を抱いた。
感謝すべきなのか。それとも、利用されていると感じるべきなのか。山下に悪意がないことは分かっている。彼は純粋に、涼介のことを心配してくれているのかもしれない。でも、その「善意」は、涼介にとっては時に重荷になる。
「そういえばさ、今度の金曜、合コンあるんだけど。来ないか?」
山下が話題を変えた。涼介は内心でため息をついた。
「……また?」
「いい子いるって。広告代理店の子たちでさ、みんな可愛いらしいぜ。お前、最近全然彼女いないだろ。そろそろ本気で探した方がいいんじゃないの」
「考えとく」
「お前さあ、いつもそう言って来ないじゃん。もしかして、誰か好きな人でもいるの?」
山下の目が、探るように涼介を見る。
涼介は、その視線から逃れるように目を逸らした。
「いないよ。仕事が忙しいだけだ」
「ふーん」
山下は何か言いたげな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。涼介は内心でほっとしながら、味のしない定食を口に運んだ。
その日の夜、涼介は深夜まで残業した。
新しいプロジェクトの資料作成を任されたのだ。今度こそ、自分でプレゼンしたい。そう思って、涼介は誰よりも早く資料に取り掛かった。
だが、結局また同じことの繰り返しになるのだろう。涼介が資料を作り、山下がプレゼンをする。涼介の努力は、山下の評価に変わってしまう。
オフィスの窓から、東京の夜景が見える。無数のビルの明かりが、まるで星のようにきらめいている。あの光の一つひとつに、誰かの人生がある。涼介と同じように、残業している人がいる。涼介と同じように、何かを隠して生きている人がいる。
みんな、何かを演じながら生きている。
涼介だけが、特別なわけじゃない。
終電を逃し、タクシーで帰宅する。
マンションに着いたのは、午前一時を回った頃だった。
涼介が住んでいるのは、東京郊外の中規模マンションだ。築十五年、駅から徒歩七分。都心から電車で四十分という立地は、決して便利とは言えない。
同僚たちの多くは、会社の近くに住んでいる。港区や渋谷区の高級マンション、あるいは都心のタワーマンション。「通勤時間がもったいない」「仕事帰りに飲みに行きやすい」――彼らの言い分は正しい。
でも、涼介はあえてこの郊外のマンションを選んでいた。
新人時代に借りて以来、六年間住み続けている。仕事が忙しく、引っ越しを考える余裕がなかったというのも事実だ。でも、本当の理由は別にある。
同僚と距離を置きたかったのだ。
会社の近くに住めば、休日に偶然会うこともある。飲み会の帰りに「ちょっと寄っていこう」と言われることもある。プライベートと仕事の境界が曖昧になり、自分を「演じる」時間が増える。
涼介にとって、この郊外のマンションは「素の自分」に戻れる場所だった。誰にも詮索されない、誰にも干渉されない、自分だけの城。ゲイであることを隠すためにも、プライベートを詮索されない環境は必要だった。
エントランスのオートロックを解除し、エレベーターに乗る。四階で降り、四〇二号室の前に立つ。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって、習慣のように呟いた。返事などあるはずもない。
シャワーを浴び、ベッドに横たわる。
疲れ切った体が、マットレスに沈み込んでいく。
目を閉じると、今日一日の出来事が脳裏に蘇った。
山下のプレゼン。上司の言葉。「裏方向きの人材」。合コンの誘い。「好きな人でもいるの?」という山下の問い。
涼介は枕に顔を埋めた。
このまま、一生「裏方」として生きていくのだろうか。
誰にも認められず、誰にも見てもらえず、ただ黙々と仕事をこなすだけの人生。本当の自分を隠し続け、「普通の男」を演じ続ける人生。
涼介は、静かに目を閉じた。
眠りに落ちようとした、その時だった。
――聞こえた。
壁の向こうから、かすかな声が。
挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。
シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、
赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、
5-1 束の間の穏やかさ 涼介がシンガポール赴任を打ち明けてから、五日が経った。 九月に入り、東京の空気は少しずつ秋の気配を帯び始めていた。朝晩の風には涼しさが混じり、蝉の声も聞こえなくなっている。夏の終わりを告げる季節の移ろいが、涼介の胸を締め付けた。街路樹の葉も、わずかに色づき始めている。季節は確実に移り変わっていく。それと同じように、涼介と奏の時間も、刻一刻と終わりに近づいていた。 赴任まで、あと九日。 その事実が、涼介の頭の中で時計のように、常に刻まれていた。奏と過ごせる時間が、一日また一日と減っていく。その焦燥感が
赴任の返事をしてから、涼介は自分の様子がおかしくなっていることを自覚していた。 奏と一緒にいる時も、どこか上の空になってしまう。会話をしていても、反応が遅れる。笑おうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。奏と目を合わせようとしても、罪悪感で視線を逸らしてしまう。 そして、奏も涼介の変化に気づいているようだった。 奏の態度が、少しずつ変わってきている。涼介を見る目には、以前にはなかった不安の色が滲んでいる。涼介が何か言おうとすると、奏は身構えるような表情をする。何か悪い知らせを待っているかのように、怯えた目で涼介を見つめる。
仲直りから一週間後、涼介の人生を変える出来事が起こった。 その日の朝、涼介は上司の村田部長に呼び出された。村田のデスクに近づくと、村田は珍しく緊張した面持ちで涼介を見た。「黒川、人事から話がある。十時に第三会議室に来てくれ」 村田の表情は、いつもより硬かった。涼介は嫌な予感を覚えながら頷いた。 十時になり、涼介は第三会議室に向かった。ドアをノックして中に入ると、すでに人事部の課長と村田部長が席についていた。窓から差し込む朝日がテーブルの上に長い影を落としている中、涼介は指定された席に座り、二人の顔を見た。「
喧嘩をしてから、三日が経った。 その間、奏からの連絡は一切なかった。涼介がメッセージを送っても既読がつくだけで、返信はない。インターホンを押しても応答がない。完全に拒絶されていた。 涼介は地獄のような三日間を過ごした。 仕事は相変わらず忙しかったが、頭の中は奏のことでいっぱいだった。会議中も資料作成中も、奏の泣き顔が浮かんで消えない。「帰って」と言われた時の奏の声が、耳にこびりついている。あの冷たい声が、何度も涼介の頭の中で再生される。 眠れない夜が続いた。ベッドに横たわっても、壁の向こうの静寂が涼介を責め立てるようだった







