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1-2 声の虜囚

Penulis: 海野雫
last update Terakhir Diperbarui: 2026-01-02 19:00:38

 また、だ。

 あの夜から一週間が経っていた。毎晩のように、壁の向こうから声が聞こえてくる。一か月前に越してきた隣人の存在を意識し始めたのは、つい最近のことだった。

 涼介は息を殺し、耳を澄ませた。

「……今夜も、聴いてくれてありがとう」

 低く、甘い、囁くような声。

 息を含んだ、柔らかな響き。

 涼介の全身に鳥肌が立った。普通の人なら絶対に聞き取れないほどの微かな音だ。このマンションはコンクリート造りで、通常の生活音はほとんど聞こえない。なのに、涼介の耳にはすべてが克明に届いてしまう。呼吸のリズム、唇が動く気配、声帯が震える振動までも。

「疲れてる? 大丈夫……僕がそばにいるから」

 心臓が跳ね上がる。

 その声を聴くたびに、涼介の体は正直に反応した。背筋がぞわりと震え、指先が痺れ、下腹部に熱が溜まっていく。声のトーン、息遣い、言葉の間。すべてが涼介の神経を刺激する。

 ――まずい。

 自分でも分かっていた。これは、まともな状態じゃない。見知らぬ隣人の声に、こんなにも支配されるなんて。普通じゃない。異常だ。

 でも、やめられなかった。

「目を閉じて。深呼吸して。今日も一日、頑張ったね」

 声が、耳の奥に染み込んでくる。まるで蜂蜜のように甘く、羽毛のように柔らかく。涼介の全身を包み込み、疲れ切った心を優しく撫でていく。

 まるで自分に向けて語りかけられているような錯覚に陥る。涼介の呼吸が浅くなる。下腹部に熱が溜まっていくのを感じて、涼介は唇を噛んだ。シーツを握りしめる手に、力が入る。

「おやすみ……また明日ね」

 声が途切れた。

 静寂が戻る。

 涼介は呆然と天井を見つめていた。心臓がまだ激しく脈打っている。額に汗が滲み、シーツを握りしめた指が震えていた。

 たった数十秒の声だった。それだけで、涼介の体は限界まで熱を持っていた。

「……くそ」

 自分の声が掠れている。

 下着の中で、自分が完全に勃起していることに気づいて、涼介は愕然とした。

 まさか。

 たった一度聞いただけの――いや、もう何度目だろう。見知らぬ隣人の声で、ここまで興奮してしまうなんて――。

 涼介は枕に顔を埋めた。

 眠れるはずがなかった。

 翌日から、涼介の生活は一変した。

 仕事中も、あの声が頭から離れない。低く、甘い囁き。息を含んだ響き。思い出すだけで、背筋がぞわりと震える。鼓膜の奥で、あの声が何度も再生される。会議中には上の空になり、上司に声をかけられて我に返った。資料作成中にはキーボードを打つ手が止まり、画面を見つめたまま動けなくなる。

 何をしていても、あの声のことばかり考えてしまう。

「黒川、大丈夫か? 顔色悪いぞ」

 山下が心配そうに声をかけてきた。

「……ああ、ちょっと寝不足で」

「珍しいな。お前、どこでも寝られるタイプだろ」

 涼介は曖昧に笑って受け流した。

 まさか、「隣人の声が気になって眠れなかった」などと言えるはずがない。

 その夜も、涼介は深夜まで残業した。

 だが、その日は、いつもとは違う感情が涼介の中にあった。

 早く帰りたい。

 あの声を、また聴きたい。

 涼介は自分の感情に愕然とした。こんなことは、今までなかった。仕事が終わらなければ帰れない。それが涼介の信条だった。仕事こそが、涼介のアイデンティティだった。

 だが、今夜は違う。

 涼介は、終わりかけの資料を明日に回すことにした。

 こんなことは、入社以来初めてだった。

 電車に乗り、郊外のマンションに向かう。心臓が、いつもより速く脈打っている。車窓の向こうを流れる夜景を見つめながら、涼介は自分の異常さを自覚していた。

 マンションに着いたのは、深夜零時を少し過ぎた頃だった。

 シャワーを浴び、ベッドに横たわる。

 涼介は息を殺し、壁に耳を澄ませた。

 ――聞こえた。

「こんばんは……今日は、どんな一日だった?」

 低く、甘い囁き。昨夜と同じ声。

 涼介の全身が熱くなる。

「僕はね、今日はずっと家にいたよ。原稿を読んだり、練習したり……退屈な一日だった」

 原稿? 練習?

 声の主は、何かの仕事をしているのだろうか。声を使う仕事――ナレーターか、声優か。

「でも、夜が一番好き。こうして、誰かに声を届けている時が、一番幸せなんだ」

 声が、耳の奥をくすぐる。

「聴いてくれてる? ……聴いてくれてるよね」

 まるで、涼介に語りかけているような錯覚。

 違う。これは配信だ。ASMR――涼介も何度か聴いたことのあるジャンル。囁き声で、リスナーをリラックスさせる配信。

 そう、これはただの配信だ。自分に向けられた言葉じゃない。不特定多数のリスナーに向けた、ありふれた言葉だ。

 分かっている。分かっているのに――。

「今日も一日、お疲れ様。頑張ったね」

 その言葉を聞いた瞬間、涼介の目から涙がこぼれた。

 頑張ったね。

 その言葉を、涼介はどれほど待ち望んでいたことか。

 仕事で成果を出しても、「黒川は冷静だから当然だ」で片付けられる。努力を認めてもらえない。頑張りを見てもらえない。誰も、涼介の苦労を知らない。

 でも、この声は違う。

「大丈夫。君は十分頑張ってる。僕が、ちゃんと見てるから」

 涼介は声を殺して泣いた。

 こんなに優しい言葉をかけてもらったのは、いつ以来だろう。親にさえ、こんなことを言われた記憶がない。いつも「もっと頑張れ」「まだ足りない」「お前ならできるはず」――期待という名の重圧ばかりだった。

「おやすみ。いい夢を見てね」

 声が途切れた。

 涼介は、涙を拭いながら天井を見つめた。

 自分が何をしているのか、分かっている。

 見知らぬ隣人の声に癒されるなんて、異常だ。変態だ。ストーカーと変わらない。

 でも、やめられなかった。

 それから、涼介の夜は「あの声」を軸に回るようになった。

 毎晩、深夜零時を過ぎると、壁の向こうから声が聞こえる。配信は一時間ほど続き、その間、涼介はベッドの上で息を殺して聴き入っていた。

 声の主は、さまざまなことを語った。

 今日あった出来事。好きな本の話。季節の移り変わり。時には、自分の過去についても。

「昔はね、声優になりたかったんだ」

 ある夜、声の主はそう語った。

 涼介は、その言葉に耳を傾けた。

「養成所に通って、毎日練習して。オーディションを受けて落ちて、また受けては落ちて」

 声に、微かな陰りが混じる。

「何百回オーディションを受けても、一度も受からなかった。『君の声は特徴がない』って言われた時は、本当に悔しかった」

 涼介は息を呑んだ。

 こんなに美しい声なのに。こんなに心を揺さぶる声なのに。

 特徴がない? そんなはずがない。この声は、涼介の人生で聴いた中で、最も美しい声だ。

「結局、二十五歳で諦めた。夢を追いかけるのは、もう疲れたから」

 声が、わずかに震える。

「でもね、今はこうして、声を届けることができてる。誰かが聴いてくれていると思うと、また声を出したくなるんだ」

 涼介の目から、知らず知らずのうちに涙がこぼれていた。

 この声の主は、涼介と同じだった。

 夢を諦め、傷を隠し、それでも何かにすがって生きている。

「ありがとう。聴いてくれて」

 その言葉が、涼介の胸に深く染み込んだ。

 二週間が経った。

 涼介の生活は、完全に「あの声」に支配されていた。

 残業を早めに切り上げ、終電に間に合うように帰宅する。シャワーを浴び、ベッドに横たわり、深夜零時を待つ。

 声が聞こえてくる瞬間が、一日で最も幸せな時間だった。

 仕事のストレスも、将来への不安も、孤独も――すべてが、あの声を聴いている間だけは消えてしまう。

「今夜は、特別な話をしようと思うんだ」

 ある夜、声の主はそう切り出した。

 涼介は耳を澄ませた。

「最近ね、気づいたことがあるの」

 低く、甘い囁き。だが、どこか熱を帯びている。いつもとは違う、切実な響き。

「壁の向こうに、誰かがいる気がするんだ」

 涼介の心臓が、止まりそうになった。

 まさか。気づかれている?

「毎晩、僕の声を聴いてくれてる人。……聞こえてる?」

 涼介は息を呑んだ。

 体が動かない。声も出ない。

「最初は気のせいだと思った。でも、確信したんだ。誰かが、僕の声を待ってくれてる」

 声が甘く震える。

「嬉しいよ。すごく、嬉しい」

 涼介の目から、涙がこぼれた。

「だから今夜は、君のためだけに話すね」

 声が、耳の奥に染み込んでくる。

「疲れてるでしょう? 毎日遅くまで働いて、大変だよね」

 どうして、分かるんだ。

 涼介の帰宅時間を、知っているのか。

「でも、大丈夫。僕がここにいるから」

 声が、涼介の全身を包み込む。まるで温かい毛布のように、まるで優しい抱擁のように。

「目を閉じて。深呼吸して。今日の疲れを、全部吐き出して」

 涼介は言われた通りにした。目を閉じ、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

「そう、上手だね。偉いね」

 褒められた。

 たったそれだけのことで、涼介の目からまた涙がこぼれた。

「頑張ってるね。ちゃんと、見てるよ」

 涼介の心の奥底にある、誰にも見せられない部分を、この声は見透かしているようだった。

「おやすみ。また明日ね」

 声が途切れた。

 涼介は、泣きながら眠りに落ちた。

 翌朝、目が覚めた時、涼介は自分の体が反応しているのに気づいた。

 昨夜の声を思い出すだけで、下腹部が熱くなる。低く、甘い囁き。「君のためだけに話すね」という言葉。「ちゃんと見てるよ」という声。

 脳内で声が再生されるたびに、体の芯が疼く。

 涼介は、無意識のうちに自分の体に手を伸ばしていた。

「……っ」

 触れた瞬間、電流のような快感が走った。

 罪悪感と快感が、同時に押し寄せる。

 こんなこと、してはいけない。見知らぬ隣人の声で興奮するなんて、異常だ。変態だ。

 でも、止められなかった。

 目を閉じると、あの声が蘇る。低く、甘く、耳の奥を直接撫でるような響き。

「大丈夫……僕がそばにいるから」

 脳内で声が囁く。

「頑張ってるね。ちゃんと、見てるよ」

 涼介の呼吸が乱れる。手の動きが速くなる。

 あの声を聴きながら――あの声を想像しながら――。

「っ、あ……」

 声が漏れる。自分の声が、こんなにも淫らに聞こえるとは思わなかった。

 涼介の理性が、音を立てて崩れていった。

 達した後、涼介は呆然と天井を見つめた。

 手のひらと下腹部を汚した白濁が、涼介の行為の証拠として残った。

 自分は、何をしているのだろう。

 見知らぬ隣人の声で自慰をするなんて、どう考えても異常だ。もし相手に知られたら、どう思われるか。

 気持ち悪い。変態。ストーカー。

 そう思われても仕方がない。

 涼介は自己嫌悪に陥りながら、シャワーを浴びた。

 だが、夜が来るのを、涼介は待ち焦がれていた。

 涼介は完全に「声の虜」になっていた。

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