تسجيل الدخولまた、だ。
あの夜から一週間が経っていた。毎晩のように、壁の向こうから声が聞こえてくる。一か月前に越してきた隣人の存在を意識し始めたのは、つい最近のことだった。
涼介は息を殺し、耳を澄ませた。
「……今夜も、聴いてくれてありがとう」
低く、甘い、囁くような声。
息を含んだ、柔らかな響き。
涼介の全身に鳥肌が立った。普通の人なら絶対に聞き取れないほどの微かな音だ。このマンションはコンクリート造りで、通常の生活音はほとんど聞こえない。なのに、涼介の耳にはすべてが克明に届いてしまう。呼吸のリズム、唇が動く気配、声帯が震える振動までも。
「疲れてる? 大丈夫……僕がそばにいるから」
心臓が跳ね上がる。
その声を聴くたびに、涼介の体は正直に反応した。背筋がぞわりと震え、指先が痺れ、下腹部に熱が溜まっていく。声のトーン、息遣い、言葉の間。すべてが涼介の神経を刺激する。
――まずい。
自分でも分かっていた。これは、まともな状態じゃない。見知らぬ隣人の声に、こんなにも支配されるなんて。普通じゃない。異常だ。
でも、やめられなかった。
「目を閉じて。深呼吸して。今日も一日、頑張ったね」
声が、耳の奥に染み込んでくる。まるで蜂蜜のように甘く、羽毛のように柔らかく。涼介の全身を包み込み、疲れ切った心を優しく撫でていく。
まるで自分に向けて語りかけられているような錯覚に陥る。涼介の呼吸が浅くなる。下腹部に熱が溜まっていくのを感じて、涼介は唇を噛んだ。シーツを握りしめる手に、力が入る。
「おやすみ……また明日ね」
声が途切れた。
静寂が戻る。
涼介は呆然と天井を見つめていた。心臓がまだ激しく脈打っている。額に汗が滲み、シーツを握りしめた指が震えていた。
たった数十秒の声だった。それだけで、涼介の体は限界まで熱を持っていた。
「……くそ」
自分の声が掠れている。
下着の中で、自分が完全に勃起していることに気づいて、涼介は愕然とした。
まさか。
たった一度聞いただけの――いや、もう何度目だろう。見知らぬ隣人の声で、ここまで興奮してしまうなんて――。
涼介は枕に顔を埋めた。
眠れるはずがなかった。
翌日から、涼介の生活は一変した。
仕事中も、あの声が頭から離れない。低く、甘い囁き。息を含んだ響き。思い出すだけで、背筋がぞわりと震える。鼓膜の奥で、あの声が何度も再生される。会議中には上の空になり、上司に声をかけられて我に返った。資料作成中にはキーボードを打つ手が止まり、画面を見つめたまま動けなくなる。
何をしていても、あの声のことばかり考えてしまう。
「黒川、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
山下が心配そうに声をかけてきた。
「……ああ、ちょっと寝不足で」
「珍しいな。お前、どこでも寝られるタイプだろ」
涼介は曖昧に笑って受け流した。
まさか、「隣人の声が気になって眠れなかった」などと言えるはずがない。
その夜も、涼介は深夜まで残業した。
だが、その日は、いつもとは違う感情が涼介の中にあった。
早く帰りたい。
あの声を、また聴きたい。
涼介は自分の感情に愕然とした。こんなことは、今までなかった。仕事が終わらなければ帰れない。それが涼介の信条だった。仕事こそが、涼介のアイデンティティだった。
だが、今夜は違う。
涼介は、終わりかけの資料を明日に回すことにした。
こんなことは、入社以来初めてだった。
電車に乗り、郊外のマンションに向かう。心臓が、いつもより速く脈打っている。車窓の向こうを流れる夜景を見つめながら、涼介は自分の異常さを自覚していた。
マンションに着いたのは、深夜零時を少し過ぎた頃だった。
シャワーを浴び、ベッドに横たわる。
涼介は息を殺し、壁に耳を澄ませた。
――聞こえた。
「こんばんは……今日は、どんな一日だった?」
低く、甘い囁き。昨夜と同じ声。
涼介の全身が熱くなる。
「僕はね、今日はずっと家にいたよ。原稿を読んだり、練習したり……退屈な一日だった」
原稿? 練習?
声の主は、何かの仕事をしているのだろうか。声を使う仕事――ナレーターか、声優か。
「でも、夜が一番好き。こうして、誰かに声を届けている時が、一番幸せなんだ」
声が、耳の奥をくすぐる。
「聴いてくれてる? ……聴いてくれてるよね」
まるで、涼介に語りかけているような錯覚。
違う。これは配信だ。ASMR――涼介も何度か聴いたことのあるジャンル。囁き声で、リスナーをリラックスさせる配信。
そう、これはただの配信だ。自分に向けられた言葉じゃない。不特定多数のリスナーに向けた、ありふれた言葉だ。
分かっている。分かっているのに――。
「今日も一日、お疲れ様。頑張ったね」
その言葉を聞いた瞬間、涼介の目から涙がこぼれた。
頑張ったね。
その言葉を、涼介はどれほど待ち望んでいたことか。
仕事で成果を出しても、「黒川は冷静だから当然だ」で片付けられる。努力を認めてもらえない。頑張りを見てもらえない。誰も、涼介の苦労を知らない。
でも、この声は違う。
「大丈夫。君は十分頑張ってる。僕が、ちゃんと見てるから」
涼介は声を殺して泣いた。
こんなに優しい言葉をかけてもらったのは、いつ以来だろう。親にさえ、こんなことを言われた記憶がない。いつも「もっと頑張れ」「まだ足りない」「お前ならできるはず」――期待という名の重圧ばかりだった。
「おやすみ。いい夢を見てね」
声が途切れた。
涼介は、涙を拭いながら天井を見つめた。
自分が何をしているのか、分かっている。
見知らぬ隣人の声に癒されるなんて、異常だ。変態だ。ストーカーと変わらない。
でも、やめられなかった。
それから、涼介の夜は「あの声」を軸に回るようになった。
毎晩、深夜零時を過ぎると、壁の向こうから声が聞こえる。配信は一時間ほど続き、その間、涼介はベッドの上で息を殺して聴き入っていた。
声の主は、さまざまなことを語った。
今日あった出来事。好きな本の話。季節の移り変わり。時には、自分の過去についても。
「昔はね、声優になりたかったんだ」
ある夜、声の主はそう語った。
涼介は、その言葉に耳を傾けた。
「養成所に通って、毎日練習して。オーディションを受けて落ちて、また受けては落ちて」
声に、微かな陰りが混じる。
「何百回オーディションを受けても、一度も受からなかった。『君の声は特徴がない』って言われた時は、本当に悔しかった」
涼介は息を呑んだ。
こんなに美しい声なのに。こんなに心を揺さぶる声なのに。
特徴がない? そんなはずがない。この声は、涼介の人生で聴いた中で、最も美しい声だ。
「結局、二十五歳で諦めた。夢を追いかけるのは、もう疲れたから」
声が、わずかに震える。
「でもね、今はこうして、声を届けることができてる。誰かが聴いてくれていると思うと、また声を出したくなるんだ」
涼介の目から、知らず知らずのうちに涙がこぼれていた。
この声の主は、涼介と同じだった。
夢を諦め、傷を隠し、それでも何かにすがって生きている。
「ありがとう。聴いてくれて」
その言葉が、涼介の胸に深く染み込んだ。
二週間が経った。
涼介の生活は、完全に「あの声」に支配されていた。
残業を早めに切り上げ、終電に間に合うように帰宅する。シャワーを浴び、ベッドに横たわり、深夜零時を待つ。
声が聞こえてくる瞬間が、一日で最も幸せな時間だった。
仕事のストレスも、将来への不安も、孤独も――すべてが、あの声を聴いている間だけは消えてしまう。
「今夜は、特別な話をしようと思うんだ」
ある夜、声の主はそう切り出した。
涼介は耳を澄ませた。
「最近ね、気づいたことがあるの」
低く、甘い囁き。だが、どこか熱を帯びている。いつもとは違う、切実な響き。
「壁の向こうに、誰かがいる気がするんだ」
涼介の心臓が、止まりそうになった。
まさか。気づかれている?
「毎晩、僕の声を聴いてくれてる人。……聞こえてる?」
涼介は息を呑んだ。
体が動かない。声も出ない。
「最初は気のせいだと思った。でも、確信したんだ。誰かが、僕の声を待ってくれてる」
声が甘く震える。
「嬉しいよ。すごく、嬉しい」
涼介の目から、涙がこぼれた。
「だから今夜は、君のためだけに話すね」
声が、耳の奥に染み込んでくる。
「疲れてるでしょう? 毎日遅くまで働いて、大変だよね」
どうして、分かるんだ。
涼介の帰宅時間を、知っているのか。
「でも、大丈夫。僕がここにいるから」
声が、涼介の全身を包み込む。まるで温かい毛布のように、まるで優しい抱擁のように。
「目を閉じて。深呼吸して。今日の疲れを、全部吐き出して」
涼介は言われた通りにした。目を閉じ、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「そう、上手だね。偉いね」
褒められた。
たったそれだけのことで、涼介の目からまた涙がこぼれた。
「頑張ってるね。ちゃんと、見てるよ」
涼介の心の奥底にある、誰にも見せられない部分を、この声は見透かしているようだった。
「おやすみ。また明日ね」
声が途切れた。
涼介は、泣きながら眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めた時、涼介は自分の体が反応しているのに気づいた。
昨夜の声を思い出すだけで、下腹部が熱くなる。低く、甘い囁き。「君のためだけに話すね」という言葉。「ちゃんと見てるよ」という声。
脳内で声が再生されるたびに、体の芯が疼く。
涼介は、無意識のうちに自分の体に手を伸ばしていた。
「……っ」
触れた瞬間、電流のような快感が走った。
罪悪感と快感が、同時に押し寄せる。
こんなこと、してはいけない。見知らぬ隣人の声で興奮するなんて、異常だ。変態だ。
でも、止められなかった。
目を閉じると、あの声が蘇る。低く、甘く、耳の奥を直接撫でるような響き。
「大丈夫……僕がそばにいるから」
脳内で声が囁く。
「頑張ってるね。ちゃんと、見てるよ」
涼介の呼吸が乱れる。手の動きが速くなる。
あの声を聴きながら――あの声を想像しながら――。
「っ、あ……」
声が漏れる。自分の声が、こんなにも淫らに聞こえるとは思わなかった。
涼介の理性が、音を立てて崩れていった。
達した後、涼介は呆然と天井を見つめた。
手のひらと下腹部を汚した白濁が、涼介の行為の証拠として残った。
自分は、何をしているのだろう。
見知らぬ隣人の声で自慰をするなんて、どう考えても異常だ。もし相手に知られたら、どう思われるか。
気持ち悪い。変態。ストーカー。
そう思われても仕方がない。
涼介は自己嫌悪に陥りながら、シャワーを浴びた。
だが、夜が来るのを、涼介は待ち焦がれていた。
涼介は完全に「声の虜」になっていた。
挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。
シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、
赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、
奏が涼介の部屋に移って、三日が経った。 赴任まで、あと四日。 炎上は少しずつ沈静化しつつあったが、奏の心の傷は癒えていなかった。 奏は一日のほとんどを、涼介の部屋のソファで過ごしていた。テレビを見るでもなく、スマートフォンを触るでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めている。時折、涼介と言葉を交わすが、以前のような明るさはない。声のトーンも低く、抑揚がない。まるで、奏の中の何かが壊れてしまったようだった。 音に敏感な涼介には、奏の声の変化が痛いほどよく分かった。奏の声から、生気が失われている。ああの甘い響き、艶やかな色気、そし
異変が起きたのは、二日後の月曜日の夜だった。 涼介はいつものように残業を終え、マンションに帰ってきた。時計を見ると、午後十時を少し回っていた。今夜は比較的早く帰れた方だった。週末のデートの余韻がまだ残っていて、涼介の心は穏やかだった。水族館で見たクラゲの映像が、まだ瞼の裏に浮かんでいる。 奏にメッセージを送ろうとスマートフォンを取り出した時、画面に大量の通知が表示されていることに気づいた。 SNSの通知だった。 涼介はほとんどSNSを使わない。アカウントは持っているが、閲覧専門で、投稿することはほとんどなかった。だから、こ
5-1 束の間の穏やかさ 涼介がシンガポール赴任を打ち明けてから、五日が経った。 九月に入り、東京の空気は少しずつ秋の気配を帯び始めていた。朝晩の風には涼しさが混じり、蝉の声も聞こえなくなっている。夏の終わりを告げる季節の移ろいが、涼介の胸を締め付けた。街路樹の葉も、わずかに色づき始めている。季節は確実に移り変わっていく。それと同じように、涼介と奏の時間も、刻一刻と終わりに近づいていた。 赴任まで、あと九日。 その事実が、涼介の頭の中で時計のように、常に刻まれていた。奏と過ごせる時間が、一日また一日と減っていく。その焦燥感が
赴任の返事をしてから、涼介は自分の様子がおかしくなっていることを自覚していた。 奏と一緒にいる時も、どこか上の空になってしまう。会話をしていても、反応が遅れる。笑おうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。奏と目を合わせようとしても、罪悪感で視線を逸らしてしまう。 そして、奏も涼介の変化に気づいているようだった。 奏の態度が、少しずつ変わってきている。涼介を見る目には、以前にはなかった不安の色が滲んでいる。涼介が何か言おうとすると、奏は身構えるような表情をする。何か悪い知らせを待っているかのように、怯えた目で涼介を見つめる。







