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第1章:003

last update publish date: 2026-05-23 18:18:39

「……え?」

顔を上げる。

思考が止まる。

「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」

あっさりと言われた。

あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。

暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。

画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。

(二人とも、幸せそう……)

いい写真だった。

「俺のパートナー。十年になる」

渚は、その写真をじっと見た。

「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」

渚はまだ写真を見ていた。

胸の中で何かがゆっくりと解ほどけていくのを、渚は感じていた。

「それと」と橘が小声で、教えてくれた。

「無理して男口調で喋ってるけど……本当は、私オネェ言葉が喋りやすいのよね」

思わず橘を見ると、彼は渚に向かってウインクをした。

「二人っきりの時は、この口調で喋っていいかしら?」

渚は笑った。久し振りの、笑顔だった。

※ ※ ※

歓迎会の会場は、会社から徒歩五分の居酒屋だった。

乾杯の声が上がって、渚はグラスを持ち上げた。ウーロン茶。飲めないわけじゃないけれど、お酒が入った場の空気が苦手だった。男性社員は橘一人だったが、お酒が入ると距離感が変わる。そういう経験が、渚にはあった。

橘は席の中央で、女性社員たちに囲まれていた。

「橘部長って彼女いるんですか?」

「いないよ」

「えー! もったいない!」

「私、立候補しちゃおうっかなー」

「えー! ずるい! 私も!」

肉食女子たちの会話を、橘は苦笑いして聞いている。ふと、橘と目が合った渚は思わず視線を逸らした。

一時間ほどで、渚は先輩に帰ることを告げた。渚がいつも一次会で帰ることを知っている先輩は渚を引き留めることはなかった。

近くの人に軽く挨拶を返し、橘にも頭を下げる。彼は「お疲れ」と軽く手を上げた。

外に出ると、夜風が冷たかった。携帯を開く。

『一次会で帰る。今から行っていい?』

既読がついて、すぐに返信が来た。

『もちろん。迎えに行こうか?』

渚は少し笑った。

『大丈夫。お酒のんでないから、車だよ』

『じゃあ夜食作っておくね。何か食べたいものある?』

(また、気を遣わせてしまった)

『なんでもいい。ありがとう』

送信して、渚は携帯をしまった。

夜の街に、人の声が混じっている。

笑い声と、グラスのぶつかる音が背中に残っている気がした。

渚は少しだけ立ち止まった。

橘の声が頭に残っていた。

――せっかく、いいアイデアを沢山持ってるんだ。

評価されることに、渚は慣れていなかった。自分の企画が通っても、それは運が良かっただけだと思ってきた。

でも橘は、そう言った。あっさりと、当然のことのように。

渚は、今までプレゼンに行かなかった。

行かなかった、じゃない。行けなかった、が正確だった。

(私は……ずっとこのままでいいの?)

玲がいれば安心できる。でも玲がいない場所では、渚はまだ怖かった。

男性の多い電車。知らない街。取引先の会議室。

全部、一人では行けない場所だった。

逃げ続けることは、できる。でもそれは――面談で橘に言った言葉と同じだった。

『私の問題なので』

――私の問題なら、私が向き合うしかない。

※

玲の手は、いつも同じところで止まる。

渚はそれを知っていた。

「痛くない?」と聞く。「大丈夫?」と確認する。渚が少しでも強張ると、すぐに力を緩める。優しい。ずっと優しい。

――優しすぎる。

行為が終わって、玲の腕の中に収まりながら、渚は天井を見ていた。玲の手が渚の髪を撫でている。規則的な、眠りを誘うような動き。

「……玲」

「ん?」

「私に、遠慮してる?」

 手が、一瞬止まった。

 

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