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第1章:002

last update Data de publicação: 2026-05-23 15:53:39

ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。

一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。

たちばな りょうは書類から顔を上げた。

「相良さん、座って」

手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。

渚は、目の前のガタイがいい男新上司――橘の放つ威圧感に圧されていた。

――やっぱり、苦手なタイプの男だった。

背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。

「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。

(楽に……無理……)

橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救いは、男性のにおいも苦手な渚だが、橘からはそれはなく、彼の付ける香水が清潔感のあるホワイトムスクだったこと。

それでも橘への恐怖心は拭えず、小刻みに震える手を隠すために膝の上に置いて、書類から顔を上げた橘の顔を見る。

『どうしても男性と目を合わせなきゃいけない時は、目じゃなくて顔のパーツを見るといいよ。そうしたら、話している方は自分を見てるように思うから』

大学時代、面接の練習を男性教授相手にせねばならない時に、玲に教えてもらった方法を試す。

橘と目が合っているようで、合っていないこの方法は渚を少し楽にしてくれた。

「相良さんの企画、向こうでかなり評価されてるよ。知ってる?」

「……はい。聞いています」

「本来なら相良さん自身が本社へプレゼンに行くはずだったよね」

「はい」

「でも行かなかった」

「……はい」

橘は書類を置いた。渚の方を真っ直ぐに見た。

「どうして?」

渚は膝の上の震える指をきつく組んだ。

喋らないままでいるのは、面談の意味がない。渚は息を吸い込んだ。

「私が行くよりも、得意な人にプレゼンをしてもらった方がことが上手く進むと思いました」

(半分本当、半分嘘……)

相手が女性だけならまだいい。

だけど、取引先には男性の営業マンが居て彼らの前で上手く話せる保証はない。

そもそも、プレゼンに行くなら車では無理だ。飛行機、新幹線……前後、隣に女性が座るとは限らない。男性が座った場合、過呼吸、パニックに陥る確率が高かった。

「でも、企画を出した本人の方が内容を分かっているから上手く説明できるんじゃないかな? 他人が行くことで上手く伝わらず、企画が流れてしまうことってあるんじゃない?」

「…………」

責めている訳じゃないのは分かる。だが、詰問されているように感じてしまう。

渚の呼吸は浅くなっていく。この空気。二人きり。

「……すみません」

絞り出したのはそれだけだった。

橘の顔のパーツでさえ見られなくなって、渚は俯いた。キツく握りしめ過ぎたせいで、指が白く変色していた。

橘は少し黙った。椅子を引く音がして、渚は反射的に肩を竦めた。

でも橘は立ち上がらなかった。ただ、姿勢を変えただけだった。

「相良さん」

声のトーンが少し落ちていた。

「俺のことが苦手?」

渚は顔を上げられなかった。

「……っ、あの、その……」

俯いたまま、出せたのはただそれだけ。

否定しなきゃいけない。そう思うのに、言葉が出てこない。

沈黙が続く。

――数秒。

やがて、彼はふっと小さく息を吐いた。

「日本生まれと言っても……アメリカ生活の方が長いし、人との距離感が近い。だから、つい距離感を間違えて、嫌な思いをさせてしまってるかもしれない」

「すまない」と橘が謝った。

「……男性が、苦手で」

言った瞬間、喉が詰まった。誰かに言ったのは久しぶりだった。

橘はすぐに何も言わなかった。

「だから、その、橘部長が謝ることなんてひとつもないです。私の問題なので……」

「すみま」と渚が頭を下げようとした時だった。

遮るように橘が再度頭を下げた。今度は深々と、机に額が当たるほど。

ゴンっ!

と音が響いた。

「すまん!」

「えっ、あっ、橘ぶちょ」

「無理に話させてしまった! 不躾な質問をしてすまない!」

予想していた流れと違った。

まさか、橘から謝罪されるとは思っておらず、渚は慌てた。テンパってしまい、「でも、彼氏います!」としなくて良い報告までしてしまった。

「教えてくれてありがとう」

橘が顔を上げた。額が赤くなっている――それよりも、思わず、目を見た。

優しい、というより――距離を守ってくれる目だった。

「じゃあさ」

彼は少しだけ考えるように視線を外してから、戻した。

「できるだけ無理しない形でやろうか」

「……え?」

「二人きりがきついなら、他の人入れてもいいし。外出も調整できる」

言葉を失う。

(そんなこと、してくれるの?)

「せっかく、いいアイデアを沢山持ってるんだ。だから、それを発揮する場を設けたいって俺は考えている」

「か、買い被り過ぎでは……そんないい人間ではないです」

言われ慣れていない高評価に、渚はつい恐縮した。

私なんて、評価に値しない人間だと渚は思っている。だから、橘の前で自分を卑下してしまった。

橘は何も言わず、コーヒーカップを持ち上げた。

「仕事だからさ。やりやすいようにやろう」

さらっと言われた。

特別扱いでも、同情でもない。

ただの“合理”。

それが、逆に安心だった。

胸の奥にあった硬いものが、少しだけ解けた。

「……ありがとうございます」

小さく頭を下げる。

今度は、自然に言えた。

「うん」

短い返事。

それだけなのに、さっきより空気が軽い。

「あともう一個いい?」

「……はい」

少しだけ、身構える。

「俺、ゲイなんだよね」

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  • 壊したいほど好きだから、   第1章:010

    「……っ、」 小さく息を呑んで、渚が指を引こうとする。玲はそれを逃さなかった。 指先を軽く唇で挟んで、それから離した。 渚の耳まで赤くなっている。そのあどけない反応が、さっきまで胸の奥に沈んでいた冷たいものを、じわりと溶かしていく。 (……やっぱり、渚だけだ) 玲は渚の顔をじっと見た。 「いい?」 渚は答えなかった。ただ、ゆっくりと、小さく頷いた。 顔が赤いまま、視線だけが玲を見ている。 玲は渚の顎に手を添えて、ゆっくりと顔を近付けた。 触れるか触れないかの距離で、一度止まった。 渚が目を閉じた。 それを確認してから、玲はそっと唇を重ねた。 柔らかい唇をゆっくりと喰む。さっきのプリンの甘さと、渚が塗っているリップクリームの香りが混ざって、舌先に滲んだ。 彼女の甘さを味わってから、玲はゆっくりと名残惜しそうに唇を離した。 渚の額に己の額を軽く当てて、瞳を真っ直ぐに見つめた。軽く触れるだけのキスで、渚の瞳が潤む。その顔を見る度に――もし深くしてしまえば、渚はどのように乱れてくれるのだろう。 「……いい?」呼吸を整えようと、渚は肩を小さく上下させていた。 「……シャワー、まだ浴びてないから……」 それは拒絶ではなく、彼女なりの照れや躊躇いだった。玲もそれは分かっている。いつもなら「いいよ、待ってるね」と、穏やかに彼女の髪を撫でて送り出すはずだった。けれど、今の玲にその余裕はなかった。 (渚は、どこにいた) 誰と。何をしていた。自分の知らない時間の中で、渚は笑っていたのか。 一秒でも早く、彼女を自分の一部にしたい。彼女の肌に刻まれた、自分の知らない一日の痕跡をすべて塗り潰したい。 「終わっても入るから、同じだよ」玲はそう囁き、渚の唇を再び塞いだ。浅く、角度を変えながら、何度も。渚の吐息が乱れていく。 「……あっ、」 玲はソファに座る渚の膝裏に腕を差し入れ、軽々とその身体を持ち上げた。 突然の浮遊感に、渚が驚いて玲の首に腕を回す。その腕の力が、玲の独占欲を激しく刺激した。(このまま、離さないでくれ)玲は渚を抱き上げたまま、寝室へと歩を進める。 一歩踏み出すたびに、腕の中の温もりが自分のものだという実感が強まっていく。 ベッドに横たえられた渚は、不揃いなミディアムストレートの髪をシーツに散らし、恥ずかしそうに視線

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:009

    ※ ※ ※ 金曜日の夕暮れ、玲は渚の好きな焼き菓子を手に提げて、渚の会社近くの駐車場に向かった。 渚がいつも停めている区画に目をやるも、白い軽自動車がなかった。 (……?) もう一度、確認する。間違いない――渚の車が、ない。 残業中なら、車はここにある筈だ。 玲は近くのコインパーキングに車を止めると、迷いのない足取りで渚の会社の入口へ向かった。ビルのエントランスから、退社する従業員達が出てくる。女性ばかり。 玲は入口で立ち塞がる守衛に、玲はビジネスマンらしい、隙のない微笑を向けた。 「すみません、営業の者なんですが、今から中に入ることはできますか?」 守衛が時計を一瞥した。 「この時間はちょっと難しいですね。それと、弊社は働き方改革で残業は基本的にないので、ご用件があれば明るい時間帯にいらしていただいた方がいいですよ」 「……そうですか。失礼しました」 玲は頭を下げ、その場を離れた。 夜風が冷たかった。 手の中の焼き菓子の袋が、やけに重かった。 渚のために用意したそれが、急に意味のないものに変わった。 (残業は、基本的にない) 渚が言っていた。毎週金曜日、残業が入ると。 (嘘だった) それだけだった。それだけのことだった。 なのに。 玲は歩きながら、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。繰り返す度に、胸の奥で何かがゆっくりと形を変えていく。 (どこに行った?) 誰と? 何をしている? 玲は答えを出すことなく、夜の中を歩き続けた。どこへ向かうのかも決めないまま。 ※ 玲の部屋のドアが開く音がして、玲はいつものように穏やかな微笑みで渚を迎え入れた。だが、その胸中には、数時間前に自分の目で確かめてしまった「事実」が、冷たい澱のように沈んでいる。 駐車場に渚の車はなく、守衛からは「残業などない」と告げられた。 それなのに、渚は少し疲れたような顔をして、玲のために買ってきたというコンビニの袋を差し出した。 「玲、お疲れ様。……これ、プリン。帰りにコンビニで買ってきたの」 玲は「ありがとう」と礼を言い、その黄色いパッケージを受け取った。 夕食は、もはや砂を噛んでいるようだった。ここは自分の家で、目の前には愛する女がいて、彼女は自分のためにプリンを買

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:008

    ※ 終わったあとは、虚しさしか残らない。 性欲を満たし、溜まった鬱憤を出し切っても残るのは、ぽっかり空いた穴。そこを覗き込めば、いるのは飢えた獣が覗き返しているだけ。 (どうすれば、飢えを凌げるか……) ――渚に全てをぶつければ、満たされることを玲は理解していた。玲の空虚を埋められるのは彼女だけなのだから。 (そんなことをしたら、俺は嫌われてしまう) 九年前に再会できたこと自体が奇跡なのに、それを自ら壊すことはしたくない。玲は壁に片手を突き、頭から降り注ぐ熱い飛沫に身を任せていた。 タイルを叩くシャワーの音だけが、狭いユニットバスに反響している。 洗い流しているのは、女の匂いか、それとも自分自身の汚濁か。 足元の排水溝へ、白く濁った泡と共に吸い込まれていくお湯を、玲は無言で見下ろした。 (……汚い) 今しがたまで抱き捨てていた女の肌の感触も、耳を劈くような嬌声も、玲にとってはただのノイズでしかない。 どれだけ他人の体液を浴びても、どれだけ他人の身体を蹂躙しても、胸の奥にある黒い渇きは一向に癒えることはなかった。 むしろ、汚せば汚すほど、渚への渇望が強まるばかりだった。 (渚……) 濡れた前髪を無造作に掻き上げる。 彼の脳裏にあるのは、さっきの女の喘ぎ顔ではなく、電話越しに聞いた渚の穏やかな寝息だけだ。 自分は今、最低な場所にいて、最低なことをしている。 けれど、こうして汚れを外で吐き出し、熱いシャワーで証拠を消し去ることで、自分はまた明日、彼女の聖域に相応しい優しい玲として笑うことができる。 排水溝に渦巻く濁流を見つめる玲の瞳には、一切の感情が宿っていなかった。 (飢えも一緒に、流してくれたらいいのに) 玲は蛇口を乱暴に締め、静寂が戻った浴室で、濡れた顔を拭うこともせず立ち尽くした。 玲は鏡を見ることもなく手早く着替えを済ませると、女が横たわっているはずのベッドルームには一瞥もくれず、ホテルの部屋を後にした。 背後で重く閉まったドアの音とともに、先ほどまでの情事は玲のなかで「なかったこと」として処理される。 エレベーターを待つ間、内ポケットから携帯を取り出す。画面に躍る『渚』の二文字を見た瞬間、玲の頬の筋肉が、まるで魔法にかかったかのように柔らかく解けた。 無事に帰宅したという報告と、一枚の自撮り写真。

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:007

    ※ 玲が渚と初めてセックスしたのは、高校三年生のクリスマスイヴだった。 渚が手編みのマフラーをくれた。「重いよね、ごめんね」と謝った渚に、強く首を振った。渚は知らない。玲にとって、渚から貰えるなら何でも嬉しいことを。 (あのマフラーは今でも使っている) 解れるたびに渚が手直しをしてくれる。冬になると、渚に毎日抱きしめられているような気分になる。 (あのデートも、セックスも、全部覚えてる) ――こんな、安っぽいホテルではなかったのは確かだ。 消毒液の匂いが混じったラブホテルの室内。 「ほら、ちゃんと力抜いて」 優しく言っている筈なのに、声は低く、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた。 「大丈夫。教えてやるから」 女の身体がびくりと震える。 拒絶でもなく、肯定でもない――ただ、従うしかない震え。 (この段階まで来れば、もう同じだ) 考えることをやめて、与えられる刺激だけを追い始める。 自分でどうしたいかなんて、どうでもよくなる。 「な?」 耳元で囁く。 「自分で動かなくても、ちゃんと気持ちよくなるだろ」 女は答えられない。 代わりに、浅く乱れた呼吸だけが返ってくる。 (……単純だ) 壊しているつもりはない。 ただ――順番を教えているだけだ。 考える前に、感じること。 抵抗する前に、委ねること。 それだけでいい。 「ちゃんと、俺の方見ろ」 女の視線が、ゆっくりと引き戻される。 もう、どこにも逃げ場はない。 (最初から、分かっていた) 少し優しくしてやれば、 少し触れてやれば、 あとは勝手に、こちらを求めるようになる。 ――そこから先は、早かった。 ※ 「ひ……あ、っ! もう、むり……っ、しんじゃう……っ!」 玲はそんな懇願を無視し、仰向けになった女の両足を高く、天井へ向かって蹴り上げた。彼女の腰を大きな掌で強引に持ち上げ、自身の膝を支えにした。 宙に浮いた女の身体は、玲が楔を叩き込むたびに、逃げ場を失って無様に揺れた。 「――お前が『知りたい』って言ったんだろ」 玲は嗤った。額に浮かんだ汗を拭うこともしない。 渚の前では決して見せない、獣の獰猛さを孕んだ貌。 「性感帯を探してあげてるんだから、まだ頑張れよ。まぐろを卒業したいんだろ?」 玲は片手を伸ばし、自身の楔が限界まで埋まっている女の下腹

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:006

    「どうぞ」 無害そうな笑みを浮かべ、隣りを促すと女は恐る恐る玲の隣りに座った。 Barの高い椅子も不慣れなのか何度も座り直す。その度にスカートが捲れそうになり、慌てて手で押さえていた。 ようやく、思ったように座った彼女はマスターに「同じのを下さい」と伝えた。度が強いウイスキーだということを玲は教えなかった。 ――案の定、二杯で酔ってしまっていた。 「わたし、今日が二十歳のたんじょうび、なんれす」 「おめでとう」 心のこもらない言葉を、グラスで隠す。 女は愚痴を喋り続けている。 玲はそれを聞き流しながら、別のことを思い出していた。 (あの時) ――怖かった、と震える声で電話が来た。 大学時代、女子だけだと思っていた飲み会に男が来て。 差し出された酒を、渚は断れなかった。 一口飲んで、顔色が変わった。 トイレの個室に閉じこもって、泣いていた渚を思い出す。 レイプドラッグを酒に混ぜて渚に渡した男の大学を調べようと思ったが、渚がことを大きくしたくないから、と被害届は出さなかった。 『未遂だから大丈夫』 ――未遂? こんなに怖い思いをしたのに? 震えて、夜も眠れないのに? (……殺してやればよかった) 顔も知らない男に、そんな感情が浮かぶ。 (渚……暫くは、外に出られなかったな……) ――あのままで良かったのに。 カラン、と音を立ててウイスキーが置かれる。 玲はグラスを手に取り、隣の女に差し出した。 (渚なら、こんな場所に来ない) ――来させない。来られたら困る。 アルコールにトラウマがある渚が、こんな場所に足を踏み入れることはない。 玲がここで何をしていようと――触れていようと、壊していようと。 (知ることはない)「俺からの誕生日祝い」微笑むと、女は頬を染めた。 (こういう女は、少し優しくすればすぐ縋る)グラスがぶつかる音。 女は躊躇いなく飲み干した。 玲は微笑みながら女を眺めていた。女が同じ酒をマスターに頼んでいることも止めなかった。 「――おにぃさんが、やさしそう、だったからぁ」 「そう思ってもらえて嬉しいよ」 優しい男は、酒が弱い女に強い酒を進めないし、限界を知っていて止める。 昔から、無害な外見で得することは多かった。身なりを清潔に整え、温和に、冷静に振舞えば他人からの第一印象は決

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:005

    ※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議で」 (橘、橘、橘……) 口を開けば橘のことばかり。 ピロートークが橘になりつつあった。なりつつ、というより……もうなっている。 以前の渚は、仕事の話をあまりしなかった。 それが今では、楽しそうに仕事をしている。 今日は何を食べたとか。 テレビで観た動物動画が可愛かったとか。 そんな、他愛もない話ばかりだった。 渚の世界は、狭かった――それでいいんだ。 俺と、ほんの少しの日常だけでいい。 俺以外、視界に映さなければ、なんでもいい。 でも今は違う。 渚の知らない顔が増えていく。 俺の知らない時間が増えていく。 その中心にいるのが、橘だ。 (そんな奴のことより、俺の話をしてくれ) と内心思うも、玲は言えない。 不要な発言をしたことで、渚に不信感を持たれたくない。 渚が生まれて初めて職場で尊敬できる相手を見つけたのだ。茶々を入れることはできなかった。 (相手は……女だし) 男なら、渚がこんなに楽しそうに仕事をする筈がない。 (だが……それを俺がどう思うかは別の話だ) 渚が俺以外に意味を見出して、俺じゃなくても良くなったら、俺はどうすれば? 「――あの……お隣り、いいですか……?」頭上から声がして、玲はウイスキーが入ったグラスの縁から唇を離した。 視線を上げると、背中まで伸びた黒髪を後ろに流し、胸が強調される服に、タイトなミニスカートの下に黒タイツを履いた女が玲を見ていた。 化粧慣れも、着慣れていない感じがした。素朴さがまだ前面に出ている、擦れてないような子だ。 (……壊れやすそうだ)

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