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第3話

Author: 鳳あん
恵梨が家に戻ると、運転手が車を洗っている。昨夜、病院に運ばれたときに使った車で、どれだけ洗っても血の跡が落ちないらしい。

恵梨はまっすぐ運転手のところへ行き、クレジットカードを一枚差し出した。

「これで、まったく同じ車を一台買ってきて。この車はあなたにあげる。けど、二度とこの家に停めないで」

運転手が出ていったあと、恵梨はリビングに入った。圭吾はすでに帰っていて、恵梨の姿を見るなり、真っ先に抱きしめようと手を伸ばしてくる。

「恵梨、俺、帰ってきたよ。会いたかった?赤ちゃんは?パパのこと待ってた?」

恵梨は表情ひとつ変えず、さりげなく身をかわした。圭吾は眉をひそめる。

「どうした?昨日俺が帰れなかったから、怒ってる?昨日は、会社のことでバタバタしててさ、徹夜だったんだよ。でもね、ちゃんとプレゼント買ってきたよ」

圭吾が手を叩くと、数人のボディーガードが次々とプレゼントの箱を運び込んでくる。

けれど恵梨は視線すら向けず、ふと彼の胸もとに目を落とした。圭吾の鎖骨のあたりに、赤い跡が残っている。白いシャツには、口紅の色がくっきりとついていた。

目の前の男を見つめながら、恵梨はどうしても理解できなかった。どうしてこの人は、他の女と関係を持ったあとで、何事もなかったように、こんな顔で自分の前に立てるのだろう?

「どう?気に入った?気に入ったなら、ちょっと抱っこさせて。疲れてるの」

恵梨は動かなかった。触れたくなかった。汚らわしいと思った。

「私も、疲れたわ」

「疲れた?もしかして、双子ちゃんが元気すぎるのかな?」

圭吾はそう言って、恵梨のお腹に耳を当てた。

「パパだよ、二人とも何してるの?」

しばらく耳を当てていた圭吾は、やがて眉をひそめる。

「恵梨、なんだか、お腹が前より小さくなってないか?最近、食欲ないのか?今日は俺がご飯作るよ。お前、少し痩せすぎだ」

そう言うと、圭吾はキッチンへ入っていった。

暖かなオレンジの光に包まれながら、彼はエプロンをつけて手際よく支度を始める。

恵梨の妊娠を知った日から、彼は料理を習い始めていた。

妊婦にどんな食材が栄養になるのか、赤ちゃんの体重をどう管理すればいいのか、さらには産後の回復期に食べるべきものまで、圭吾は一つひとつを、まるで専門家のように言い当てる。

この四か月間、圭吾がいちばん長く姿を消していたのは、料理を習いに行っていたときくらいだった。

恵梨は目の前の男をじっと見つめ、ぼんやりと考え込んでいた。けれど、結局、抑えきれずに口を開く。

「圭吾、昨日の夜、本当に会社で残業してたの?」

包丁を持つ彼の手がピタリと止まり、少し間を置いてから答える。

「そうだよ。まさか俺がお前に嘘をつくとでも?」

「もし、いつか詩月が戻ってきたら、あなたはどうするの?」

恵梨の口から詩月の名が出た瞬間、圭吾は思わずぎくりとした。

振り向き、彼女が何かに気づいたのかと、圭吾は一瞬疑う。

けれど恵梨の表情は穏やかで、詩月のことを知っているようには見えなかった。

「恵梨、詩月が戻ってこようと、もう俺には関係のないことだ」

圭吾はそう言って近づき、恵梨を抱き寄せる。

「たとえ本当に戻ってきたとしても、俺の中にあるのは憎しみだけだ。彼女にしたことは、全部その憎しみのせいだ。でもお前のことは、心から愛してる」

恵梨は眉を寄せ、さらに何か言おうとした。そのとき、圭吾のスマホが鳴った。彼はそちらに目をやると、あわててエプロンを外す。

「恵梨、ごめん。会社で用事があって、ちょっと行ってくる。眠かったら先に寝てて」

恵梨は思わず笑いそうになった。

「また会社?私が妊娠してから、あなたの会社の用事って、やけに多くなったわね」

「仕方ないだろ、恵梨。双子のためにも、もっと頑張らなきゃいけないんだ。先に行くよ。お前は早めに休んで、俺を待たなくていい」

「圭吾、お腹が痛いの。今日は会社に行かないで、そばにいてくれない?」

恵梨は引き留めたかったわけではない。

ただ、彼の口にする愛という言葉に、どれほどの重みがあるのか――それを確かめたかっただけだ。

「もう、わがままを言うな。お腹が痛いなら運転手に病院まで送ってもらって。俺、すぐ戻るから!」

結局、行くのだ。恵梨の中で、何かが音を立てて落ちた。

「わかった。じゃあ、この書類にサインしてから行って」

「なんの書類?」

圭吾はポケットから万年筆を取り出し、書類に目も通さないまま、自分の名前を書きつけた。

「どんな書類でもいいさ、恵梨。お前が俺の命を欲しいって言うなら、それだってやる。本当に会社の用事があるんだ。食べたいものがあれば、お手伝いに作ってもらって。俺はもう行く」

彼はうつむき、恵梨の額に軽く口づけると、待ちきれないようにその場を後にした。

あまりにもあっさりとサインしたので、恵梨には「これは離婚協議書だ」と告げる隙すらなかった。

けれど、それでいい。彼が知らないままでいい。
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