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夕暮れの山に隠された夢

夕暮れの山に隠された夢

By:  鳳あんCompleted
Language: Japanese
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結婚してちょうど五周年を迎えたその夜、朝倉恵梨(あさくら えり)はお腹の中の四カ月目の双子を失った。 土砂降りの中で、恵梨は、夫の牧原圭吾(まきはら けいご)が彼の初恋の白石詩月(しらいし しづき)とオフィスでが絡み合う光景を、はっきりと見た。 口では詩月のことを憎むと言いながらも、圭吾は恵梨に隠れて四カ月ものあいだ、詩月と関係を続けていた。 未練はもう、どこにもなかった。恵梨は離婚協議書を整え、圭吾に差し出した。だが圭吾は、胃痛を訴える詩月に付き添っており、書面に目も通さずにサインした。 そこまで詩月が好きなら、譲ってあげる。恵梨はそう決め、背を向けた。

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Chapter 1

第1話

切迫流産で救急搬送されたその日、医師は牧原圭吾(まきはら けいご)に何度も電話をかけたが、始終つながらなかった。

外では土砂降りの雨が降りしきる。朝倉恵梨(あさくら えり)は血に染まったベッドに横たわり、痛みに喉を裂くような悲鳴を上げた。医師と看護師がベッドを押し、慌ただしく手術室へと運び込む。

「もう待てません。すぐに手術を始めます。これ以上遅れれば、母子ともに命がもちません!奥様に何かあったら、牧原様に殺されかねません!」

分厚い手術室の扉が勢いよく閉じられた。けれど、手術が終わるまで、圭吾は現れなかった。

そして、恵梨の腹の中で四か月目まで育った双子は、光を見ることなく、その命を閉じた。

恵梨が目を覚ましたとき、医師はまだ圭吾に電話をかけ続けている。

「牧原様、どうなさったんでしょう……奥様のお子さんはお二人とも助かりませんでしたのに、どうしてお電話がずっとつながらないんでしょう?それに、今は電源まで切られているようです!」

恵梨はぼんやりと天井を見つめたまま、身じろぎひとつしない。圭吾がどこにいるのか、彼女は知っている。帰国したばかりの初恋の女と、いま絡み合っている。

お腹の子を死なせたのは、彼だ。

昨日は二人の結婚五周年の記念日だった。恵梨はテーブルいっぱいに料理を並べ、圭吾の帰りを待っていた。

けれど料理がすっかり冷めても、圭吾は帰ってこなかった。

会社で残業しているのだと思い、恵梨は土砂降りの中、会社へと足を向けた。だが、社長室のドアを押し開けたその瞬間、彼のスマホの中で何度も見たあの女が、そこにいた。

白石詩月(しらいし しづき)――圭吾の初恋。

五年前、二人は深く愛し合っていた。けれど詩月は、圭吾がどん底にいた時期に、自分の将来のため迷いなく彼のもとを去って、海外へ渡った。

それからの五年間、誰かが詩月の名を出すたび、圭吾は平然と答えた。

「彼女のことはもう忘れた。覚えているとしても、憎しみしかない」と。

忘れた証拠だと言って、圭吾はかつて二人で撮った写真を破り、詩月にまつわるものをすべて処分した。

だから恵梨も、彼がもうとっくに彼女のことを忘れたのだと信じていた。

けれど結局、彼は皆を欺き、自分すら欺いていたのだ。

「何してるの、圭吾!離して!」

突如、大きな物音が響き、恵梨の思考の思考が一瞬で断ち切られた。顔を上げると、圭吾が片手で詩月の腰を引き寄せて机に腰掛けさせ、もう片方の手で荒々しく彼女のブラウスのボタンを外していた。

「何って?」

圭吾は身を屈め、荒々しく詩月の唇を噛みつぶした。

「償うために戻ってきたんだろ?五年前、俺を置き去りにして、あんなに苦しませておいて……いいか、償いたいなら、体で払え。いつか飽きたら、放してやる」

「……っ!」

痛みに顔を歪めながらも、詩月は圭吾の首に腕を回した。甘い声が唇の隙間から漏れた。

「この方法で償えるなら、私はそれでいい。でも、圭吾……私たちの間には、もう憎しみしかないの?」

「何を期待してる?俺はもう結婚してるんだ。どうした、後悔でもしたか? 今さら俺と一緒になりたい?もう遅い」

そのまま彼は詩月の細い腰を掴み、身を屈めて唇を塞いだ。掠れた声が、抑え込んだ熱を帯びていた。

「ごめんなさい、圭吾。あの時、わざとあなたを置いていったわけじゃないの。私のことを許して。もう一度、やり直せない?ねえ、朝倉さんと離婚して……」

「何様のつもりだ。恵梨と離婚しろだと?俺は彼女を愛している。一生離婚なんてしない」

「じゃあ、放して。行かせてください!」

詩月は彼を押しのけようとしたが、圭吾は微動だにせず、放すはずもなかった。

「行かせる?詩月、覚えておけ。これはお前の負い目だ。返しきるまで、どこにも行かせない」

詩月は目を閉じ、涙がひと筋、こめかみを伝った。

彼女が海外へ出なければ、圭吾と結婚したのは本来、彼女だったのに。

熱を帯びた息遣いと、机を打つ鈍い衝撃音が、波のように鼓膜を打つ。

恵梨は扉の外に立ち尽くし、圭吾の恍惚とした表情を見つめていた。

胸の奥が裂かれるように痛い。

――この何年、自分はいったい何だったのだろう。

思考がぐちゃぐちゃに絡まりながら、恵梨は彼らが何度も重なり合うのをただ見つめていた。そして、抜け殻のようにエレベーターに乗り、会社を後にした。

だが、車に乗り込んだ瞬間、あまりの悲しみに腹部が激しく痛み、出血が始まった。

すぐに病院へ運ばれたものの、子どもは助からなかった。
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第1話
切迫流産で救急搬送されたその日、医師は牧原圭吾(まきはら けいご)に何度も電話をかけたが、始終つながらなかった。外では土砂降りの雨が降りしきる。朝倉恵梨(あさくら えり)は血に染まったベッドに横たわり、痛みに喉を裂くような悲鳴を上げた。医師と看護師がベッドを押し、慌ただしく手術室へと運び込む。「もう待てません。すぐに手術を始めます。これ以上遅れれば、母子ともに命がもちません!奥様に何かあったら、牧原様に殺されかねません!」分厚い手術室の扉が勢いよく閉じられた。けれど、手術が終わるまで、圭吾は現れなかった。そして、恵梨の腹の中で四か月目まで育った双子は、光を見ることなく、その命を閉じた。恵梨が目を覚ましたとき、医師はまだ圭吾に電話をかけ続けている。「牧原様、どうなさったんでしょう……奥様のお子さんはお二人とも助かりませんでしたのに、どうしてお電話がずっとつながらないんでしょう?それに、今は電源まで切られているようです!」恵梨はぼんやりと天井を見つめたまま、身じろぎひとつしない。圭吾がどこにいるのか、彼女は知っている。帰国したばかりの初恋の女と、いま絡み合っている。お腹の子を死なせたのは、彼だ。昨日は二人の結婚五周年の記念日だった。恵梨はテーブルいっぱいに料理を並べ、圭吾の帰りを待っていた。けれど料理がすっかり冷めても、圭吾は帰ってこなかった。会社で残業しているのだと思い、恵梨は土砂降りの中、会社へと足を向けた。だが、社長室のドアを押し開けたその瞬間、彼のスマホの中で何度も見たあの女が、そこにいた。白石詩月(しらいし しづき)――圭吾の初恋。五年前、二人は深く愛し合っていた。けれど詩月は、圭吾がどん底にいた時期に、自分の将来のため迷いなく彼のもとを去って、海外へ渡った。それからの五年間、誰かが詩月の名を出すたび、圭吾は平然と答えた。「彼女のことはもう忘れた。覚えているとしても、憎しみしかない」と。忘れた証拠だと言って、圭吾はかつて二人で撮った写真を破り、詩月にまつわるものをすべて処分した。だから恵梨も、彼がもうとっくに彼女のことを忘れたのだと信じていた。けれど結局、彼は皆を欺き、自分すら欺いていたのだ。「何してるの、圭吾!離して!」突如、大きな物音が響き、恵梨の思考の思考が一瞬で断ち切られた
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第2話
「奥様、牧原様はきっとお忙しいんだと思いますよ。ご安心ください、こちらから引き続き連絡を試みてみます。それか、他にご家族の方で、付き添ってくださる方はいらっしゃいませんか?」医師がおそるおそるそう尋ねると、恵梨はゆっくりと瞬きをして、目尻からひとすじの涙が滑り落ちた。ほかの家族?恵梨が二十二歳のとき、父が病に倒れ、彼女を生涯の友の息子である圭吾に託した。八歳年上の彼は、飄々としていて何事にも執着がなく、しかも忘れられない恋人がいると噂される男だった。恵梨は、そんな彼と結婚するなんて一度も考えたことがなかった。それは、詩月が海外へ去るまでのことだった。詩月を失ってからの圭吾は、何もかも投げ出したように日々を過ごし、恵梨もまた、父の急逝で一気に生活が傾いた。そんな、互いに寄るべのなかった時期に、二人は支え合うようにして過ごし、やがて圭吾のほうから恵梨にプロポーズしてきたのだ。恵梨はそれを、てっきり家どうしの都合のいい結婚だと思っていた。ところが結婚したその夜、圭吾は彼女をリビングの大きな窓に押しつけ、何度も何度も求めてきた。彼は彼女の柔らかく細い腰を掴み、耳元に唇を寄せて囁いた。「恵梨……ありがとう。俺を救ってくれて」そのたった一言で、恵梨の心は、最初の抵抗から完全な恋へと落ちていった。結婚してからの圭吾は、まるで人が変わったように優しくなった。恵梨を何よりも大切にした。五年のあいだ、彼は恵梨の生理の日を覚えていて、風邪を引けば一晩中そばにいてくれた。恵梨がふと口にした小さな願いも、ひとつずつ叶えてくれた。そして恵梨が妊娠を告げたその日、圭吾は彼女の目の前で、スマホに残っていた詩月の写真をすべて消した。さらに、詩月に関するものをしまっていたその部屋を開け、中にあった思い出の品をすべて処分し、そこを赤ちゃんのための部屋に作り替えた。「この部屋は、これから俺たちの子どもの部屋にしよう。好きに飾っていいからな」恵梨は少しためらいがちに問いかけた。「圭吾、本当にもう吹っ切れたの?あんなに彼女のことを愛していたのに」「恵梨、何度も言っただろ。もう彼女のことは愛してない。もし気持ちが残っていたとしても、それは憎しみだけだ。あいつはもう過去の人間だよ。お前こそが、俺の未来なんだ」彼がそこまで言うから、恵梨
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第3話
恵梨が家に戻ると、運転手が車を洗っている。昨夜、病院に運ばれたときに使った車で、どれだけ洗っても血の跡が落ちないらしい。恵梨はまっすぐ運転手のところへ行き、クレジットカードを一枚差し出した。「これで、まったく同じ車を一台買ってきて。この車はあなたにあげる。けど、二度とこの家に停めないで」運転手が出ていったあと、恵梨はリビングに入った。圭吾はすでに帰っていて、恵梨の姿を見るなり、真っ先に抱きしめようと手を伸ばしてくる。「恵梨、俺、帰ってきたよ。会いたかった?赤ちゃんは?パパのこと待ってた?」恵梨は表情ひとつ変えず、さりげなく身をかわした。圭吾は眉をひそめる。「どうした?昨日俺が帰れなかったから、怒ってる?昨日は、会社のことでバタバタしててさ、徹夜だったんだよ。でもね、ちゃんとプレゼント買ってきたよ」圭吾が手を叩くと、数人のボディーガードが次々とプレゼントの箱を運び込んでくる。けれど恵梨は視線すら向けず、ふと彼の胸もとに目を落とした。圭吾の鎖骨のあたりに、赤い跡が残っている。白いシャツには、口紅の色がくっきりとついていた。目の前の男を見つめながら、恵梨はどうしても理解できなかった。どうしてこの人は、他の女と関係を持ったあとで、何事もなかったように、こんな顔で自分の前に立てるのだろう?「どう?気に入った?気に入ったなら、ちょっと抱っこさせて。疲れてるの」恵梨は動かなかった。触れたくなかった。汚らわしいと思った。「私も、疲れたわ」「疲れた?もしかして、双子ちゃんが元気すぎるのかな?」圭吾はそう言って、恵梨のお腹に耳を当てた。「パパだよ、二人とも何してるの?」しばらく耳を当てていた圭吾は、やがて眉をひそめる。「恵梨、なんだか、お腹が前より小さくなってないか?最近、食欲ないのか?今日は俺がご飯作るよ。お前、少し痩せすぎだ」そう言うと、圭吾はキッチンへ入っていった。暖かなオレンジの光に包まれながら、彼はエプロンをつけて手際よく支度を始める。恵梨の妊娠を知った日から、彼は料理を習い始めていた。妊婦にどんな食材が栄養になるのか、赤ちゃんの体重をどう管理すればいいのか、さらには産後の回復期に食べるべきものまで、圭吾は一つひとつを、まるで専門家のように言い当てる。この四か月間、圭吾がいちばん長く姿を消
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第4話
離婚協議書をバッグにしまうと、恵梨は運転手に「圭吾についていって」と告げた。圭吾の車を追っていくと、やがて隣の住宅街の一軒家の前で止まった。圭吾が車から降りると、ボディーガードが慌てて駆け寄ってきた。「牧原様、白石様が胃を痛めておられます。いつもの持病です。つい先ほど病院から戻られました。医師によると、ここのところ食事が十分でなかったせいで、症状が悪化したとのことです」その言葉を聞き終えると、圭吾の表情が一変した。「頼んでおいた家政婦は?一日三食、時間どおりに作れって言っただろ。もし彼女が食事不足で具合を悪くしたら、全員責任を取ってもらうぞ」「家政婦は料理を用意しましたが、白石様は召し上がらず……牧原様の作ったご飯じゃないと食べたくないとおっしゃっていました」圭吾は眉を寄せ、冷たい声でありながら、どこか諦めたように吐き捨てる。「まったく……自分を何様だと思ってるんだ。俺がわざわざ料理を作ってあげるほどの女か?」「でも、白石様が帰国されてから体調を崩されたと伺って、牧原様はお料理をお習いになりましたよね。この数か月、家政婦が見つからない間は、毎日ご自身でお作りになったお料理を、私どもに持たせて白石様のお宅までお届けさせておりました……牧原様、やはりまだ白石様のことをお忘れになれないのではないでしょうか?」圭吾は鋭く目をやった。「俺が詩月に料理を作ってることは、絶対に恵梨には言うな。わかったな?」ボディーガードは何度も頷く。「承知しております。決して口外いたしません」「それから、食材を買ってこい。詩月は胃の調子が悪いから、あっさりしたものを用意しよう。豆腐と鶏ひき肉のあんかけが好きだし、それからかぼちゃの煮物もいいな。豚肉を使うなら、脂の少ない新しいのを……」口では「詩月なんか憎んでる」と言いながら、彼女の好きな料理の名前がすらすら出てくる。真剣な眼差しで指示を出すその横顔を見て、恵梨は思わず冷たい笑みを漏らした。――そういうことだったのか。彼が料理を習ったのは、恵梨が妊娠して食生活を心配したからじゃない。胃の弱い詩月のためだったのだ。胸が締めつけられて息ができない。恵梨は唇を震わせながら、かすかに声を出した。「……家に帰りたい」家に戻ると、恵梨はまっすぐ赤ちゃん部屋へ向かった。妊娠
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第5話
【朝倉さん、私が誰かもう分かってるわよね。白石詩月、圭吾の初恋。さっきの、全部見たでしょ。圭吾が本当に好きなのは私よ。あなたと結婚してるって言っても、口では「もう憎んでる」って言ってても、私が胃が痛いって言えば彼はすぐ来る。ちょっと機嫌を悪くしてみせれば、そのままベッドに来るの!】続けて、今度は別荘の内装をぐるりと撮った動画が送られてきた。その内装を見た瞬間、恵梨は息をのんだ。【どう?見覚えあるでしょ。あなたの家とそっくりよね?この別荘は圭吾が私にくれたの。五年前にもう内装までやってくれた、私たちの家よ。あなたが今住んでるのは、そのコピーにすぎないの。私が海外に行かなかったら、あなたなんて最初から彼と結婚できない。空気読めるなら、さっさと圭吾と離婚して】画面を消して、恵梨は一言も返さなかった。そのあと三日間、圭吾は家に帰ってこなかった。【出張に行くから、三日後に戻ってくる】とメッセージだけが届いた。一方で、恵梨が雇っていた探偵からは写真が次々と送られてくる。この三日間、圭吾はずっと詩月と一緒だ。二人は海外旅行に行き、エッフェル塔の前でキスを交わし、セーヌ川沿いでは肩を寄せ合って踊っていた……まる三日、べったりと寄り添い、外に出ていないときはホテルで絡み合っていた。これらの写真はどれもこれも、恵梨の胸をえぐるようなものばかりだ。けれどこの三日間、恵梨のもとに圭吾からの写真も届いていた。エッフェル塔、セーヌ川沿い──どれも圭吾ひとりしか写っていない写真。ただ、彼は気づいていなかった。よく見れば、その端々には詩月の気配がしっかりと写り込んでいた。小さくのぞくマニキュアの指先、ワンピースの裾──それは詩月が恵梨に向けて、わざと見せつけるように撮ったものだ。「奥様、牧原様はもう飛行機にお乗りになりました。まだ追跡を続けますか?」「いいえ、もう結構です。これが報酬です」探偵を帰らせると、恵梨は自分の荷物を片づけ始める。この数年、圭吾にまつわる物を、捨てるものは捨て、寄付するものは寄付し、丸一日かけてようやく片づけ終えた。翌朝早く、恵梨は病院へ再診に行った。産婦人科の入口でちょうど詩月と鉢合わせる。恵梨の姿を見た詩月は、あからさまに挑むような笑みを浮かべる。「朝倉さん?産婦健診?」初めて真
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第6話
恵梨は、詩月がこのことを圭吾に話すだろうと思っていた。けれど、数日経っても圭吾は何事もなかったかのように、いつも通り優しくしてくれている。出て行く日が近づくにつれて、恵梨は、離婚したあとのことを考え始めた。これから、自分は何をして生きていけばいいのだろうかと。本当は、教育支援の教師として、環境の整っていない過疎地の学校で子どもたちを教えるのが夢だった。けれど、その夢を叶えるチャンスが自分にあるのかどうかは分からない。ふと、昔そういう活動をしていた先輩のことを思い出し、恵梨は電話をかけて会う約束をした。五年ぶりに再会した藤川俊哉(ふじかわ しゅんや)は、ほとんど変わっていなかった。銀縁の眼鏡をかけ、相変わらず穏やかで落ち着いた雰囲気を漂わせている。恵梨が教育支援に興味を持っていると聞いて、俊哉の目がぱっと明るくなった。「本当に教育支援に行きたいのか?結婚したって聞いたけど、牧原さんはそんな遠い場所に行くのを許してくれるのか?」恵梨はうつむいてコーヒーを一口含んだ。「もうすぐ離婚するの」俊哉は一瞬言葉を失い、「ごめん」と小さく言った。「気にしないで。もうすぐ四月ね。できれば早めに段取りしてもらえる?」「うん。ちょうどこの四月から、山間の小学校に行くんだ。もし興味があるなら、一緒に行く?」恵梨は少し浮き立った気分で席を立ったが、足元がふらつき、危うく俊哉の胸に倒れ込みそうになった。俊哉がとっさに腕を伸ばし、彼女の肩を支えて、「気をつけて」と優しく言った。「ありがとう」そのときは本当に、それだけのつもりだった。まさかその何でもない一度の再会が、とんでもない騒ぎになるとは、恵梨は夢にも思わなかった。家に戻ると、圭吾がソファに腰を下ろしていた。その表情は暗く、空気が張り詰めている。その隣には詩月が座り、勝ち誇ったように眉を上げて微笑んだ。「朝倉さん、お帰りなさい。どこへ行ってたの?」恵梨は何も言わず、踵を返して階段を上がろうとした。だが圭吾が突然駆け寄り、彼女の喉を掴んだ。「詩月の質問に答えろ。どこへ行ってた?」圭吾の目は血走り、握る手にどんどん力がこもっていく。「離して……」こんなにも荒々しく彼に扱われたのは、これが初めてだった。圭吾の目が怒りで燃えていた。その気迫に飲まれ、恵梨は
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第7話
恵梨が目を覚ましたのは、すでに翌日の午後だった。彼女は心の中でそっと数える。あと一日、もうすぐ自由になれる。「目が覚めたのか?」耳もとで男の掠れた声が響く。恵梨がまぶたを開けると、圭吾が焦った顔でベッドのそばに立っていた。恵梨が目を覚ましたのを見ると、圭吾は慌ててその手を握りしめる。「どこかまだ気分悪いところは?」「……」彼の顔を見ると、恵梨は口をつぐんだまま、そっと顔をそむけた。「写真のことは調べた。確かに偽造だった。昨日お前と藤川俊哉が会ったのは久しぶりだったってこともわかった」圭吾は悔しさをにじませながら続ける。「でも、どうしてお腹の子がいなくなった?どうして俺に言わなかったんだ?」恵梨は唇を噛みしめ、涙が頬を伝った。――どうして、いなくなってしまったの?もし彼が詩月なんかとあんなことをしなければ、あの子たちはまだ生きていたはずなのに。「もういい。話たくないなら話さなくていい。子どもなら、またできるさ。それにお前、前から『出産は怖い、痛いのは嫌だ』って言ってただろう?だったらしばらくは子供を作らなくていい。どうせ詩月も妊娠してるんだし、お前が産みたくないなら、無理に産むことはない」恵梨は、圭吾の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。思わず顔を向け、彼を鋭くにらみつける。自分の子どもがいなくなったのに、彼は「どうせ詩月も妊娠してるんだ」と軽く一言で済ませるつもりなのか。「圭吾、あなたは詩月なんて愛してないって言ったよね?憎んでるって言ってたくせに、結局、子どもまで作ってるんじゃない?」彼女の視線を受け、圭吾は眉間にしわを寄せた。「俺は確かに詩月のことを憎んでる。あいつと関係を持ったのも、あいつに報いを受けさせるためだった。子どもは本当に想定外だった。でも、もうできてしまった以上、放っておくわけにはいかない。お前だって知ってるだろ、俺はずっと自分の子どもが欲しかったんだ。恵梨、今回だけは許してくれないか。詩月の子どもが無事に生まれたら、必ず彼女には出て行ってもらう。もう二度と会わないって約束する」何を言われても、恵梨はもう信じないのだ。彼女は、圭吾に握られていた手をすっと引き抜き、顔をそむけた。「疲れたわ。休みたい」「わかった。じゃあ、俺は出る。ゆっくり休んで」
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第8話
離婚届の手続きはすんなり終わった。恵梨が車に乗り込むと、ちょうど俊哉から電話がかかってきた。「恵梨、全部手配できたよ。ただ、向こうが少し急いでいるんだ。できるだけ早く現地の環境に慣れてほしいって。明日出発になりそうなんだけど、大丈夫?」「うん、大丈夫」恵梨の声は少し弾んでいた。「もう準備はできているから」「よかった。じゃあ明日、駅で待ってる」電話を切ると、恵梨はもうじっとしていられなくなった。近くのショッピングモールで子どもたちに渡すおみやげを買っていこうと思い、運転手には「一度帰ってていいから、買い物が終わったらまた迎えに来て」と伝えた。ところが、戻る頃になっても運転手の電話がまったくつながらない。仕方なく、恵梨は自分でタクシーを拾って帰宅した。家に着くなり、お手伝いがあわてて駆け寄ってくる。「奥様、やっとお戻りになりました!白石様が事故に遭われました!旦那様が、至急病院に行ってほしいとおっしゃっています!」状況がのみ込めないうちに、ボディーガードたちが恵梨の腕を抱え、そのまま病院へと連れて行った。恵梨が病院に着いたとき、詩月はベッドに横たわり、胸を引き裂くような叫びをあげていた。「五年前、私は自分の将来のためにあなたのもとを離れた。あれは私の間違いだった!悪かったってわかってる、もう後悔してるの!償うために戻ってきたのに、どうして……どうして神さまは、私たちの子どもを奪ったの!もう私のこと憎まないで、圭吾。お願い、許して、許してよ!」圭吾は詩月の手を強く握りしめ、声を詰まらせながら言う。「憎んでなんかない、もう憎んでない、詩月。お前に再び会えたその瞬間から、俺はもう憎むことなんてできなかったんだ。詩月、愛してる。俺はお前を愛してる!」「嘘、きっと嘘よ。そんなの、私が子どもを失ったから同情してるだけでしょ!いらない、出て行って!あなたの奥さんが私の子を奪ったのよ!もうこれで私があなたに負ってたものは全部返したわ!」詩月は錯乱したように圭吾を突き飛ばそうとする。だが、圭吾は彼女を強く抱きしめ、離そうとはしない。「違う、もう二度とお前と離れたりしない。俺たちは、これからもずっと一緒にいるんだ。詩月、子どもがいようがいまいが、そんなことどうでもいい。俺にはお前さえいればいい!」「牧原様、奥様
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第9話
恵梨が電車に乗るのは本当に久しぶりだった。京浜市を出て雲見町に着くまで、ほぼ七時間。そこからさらにローカル線に乗り換え、山あいの町へ向かわなければならない。長く揺られるあいだに、体のあちこちの痛みがじわじわと強くなっていった。頬はまだ赤く腫れたままで、ちょっと表情を動かすだけでもズキッとする。道中、恵梨はほとんど口を開かなかった。顔はスカーフで覆い、見えているのは冷たく沈んだ瞳だけ。俊哉は、何も聞かなかった。電車が停まるたびに降りて、湯を汲み、簡単なものを買ってきては彼女の前に置くだけだった。恵梨が食べようとしないので、俊哉はそっとおにぎりを手に握らせて、落ち着いた声で言う。「詳しいことは知らない。ただ、君が相当つらい思いをしたのは見ていれば分かる。でも、もう過去は手放すって決めたんだよな。ここ何日かに何があっても、今日からリセットすればいい」恵梨のまなざしがわずかに揺れる。うつむいてあたたかいおにぎりをひとかじりした。中身は、いちばん好きな梅だ。鼻の奥がつんとした。恵梨は口元をゆるめる。「……梅のおにぎり、だ」「そう。君、それが一番好きだったろ」俊哉はふっと笑って言う。「昔、学食で朝ごはん買うとき、君はいつもそのおにぎり取ってたよね。何回も見たよ」恵梨はじんわりと胸が熱くなった。まさか俊哉が、大学のころ自分が好んでいたものまで覚えていてくれたなんて。「ありがとう」「礼なんていらないよ。僕たち、友だちだろ?」そう言って、俊哉はポケットから塗り薬を取り出して恵梨に差し出した。「顔、まだ赤く腫れてる。夏場だし、そのままにしておくと……」「それ、どこで買ったの?」「さっき乗り換えのときに駅の売店で買ったよ。ついでに氷ももらってきた。これで冷やせば、だいぶ楽になる」目のふちがじんと熱くなる。恵梨は、昔の圭吾のことを思い出した。あの頃の彼も、こんなふうにしてくれた。ちょっとつまずいて膝をすりむいただけなのに、彼はひどく取り乱した。そのまま恵梨を抱きかかえて病院に連れて行き、皮膚科の先生を何人も呼び集めて診てもらって、「絶対に脚に傷跡を残さないでください」とまで言ったのだ。医者が薬を塗ろうとすると、恵梨は思わず「痛っ」と声を上げてしまった。すると圭吾は慌てて医者の手から薬を取り上
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第10話
病院にて。この三日間、圭吾は毎日きっちり朝早く出て夜遅く帰る生活を続けていた。会社に行く以外で、一番足を運んでいるのは病院だ。詩月の顔色が日ごとに戻っていくのを見て、圭吾もようやくほっと息をついた。「圭吾、にありがとう。あなたがいてくれなかったら、この三日間、きっと耐えられなかった」「バカ言うな。俺たちの間で、そんなこと言うか?」「ごめん、あのとき、勝手にあなたのもとを離れたのは、私が悪かった。圭吾、本気で言ってるの。もう一度、やり直せないかな?」詩月は圭吾の手をつかみ、涙で赤くなった目で必死に訴えた。「体が落ち着いてから話そう」圭吾には、今それを考える余裕はなかった。この数日、頭の中はずっとぐちゃぐちゃだ。あの日、恵梨が去っていくときに見せた、波ひとつ立たない静かなまなざしを思い出すたびに、圭吾の胸には小さな棘が刺さったような痛みが走る。それははっきりとした痛みではないのに、消えることもなかった。ポケットからスマホを取り出して見てみると、この三日間、恵梨からの連絡は一度もなかった。――きっと、まだ怒っているのだろう。家に戻ったら、ちゃんと機嫌を取らないと。「圭吾、水が飲みたいの」彼がぼんやりスマホを見ていたのに気づいて、詩月がわざとらしく声をかける。「ああ、わかった」圭吾はすぐにスマホを置き、立ち上がって詩月に水を注いだ。恵梨のことは、そのときだけ頭からすっぽり抜け落ちる。三日後、圭吾は詩月を連れて退院した。彼女の腕を支えながら家に入ったとき、ふと、室内の様子に目を留めて足を止めた。ほんの三日家を留守にしただけなのに、戻ってきた家はどこか遠い記憶の中の場所のように感じた。玄関に立ち、圭吾は反射的に呼びかける。「恵梨、ただいま」返事はない。部屋の中を見回すと、どこにも恵梨の姿がない。そこへお手伝いが慌てて駆けてくる。「旦那様、奥様は郊外の別荘にお移りになりましたよ。もうこちらにはおられません」「ああ……そうだったな」圭吾はそのときになってようやく思い出した――もう、恵梨はここにはいない。理由もなく、彼の胸のどこかが空っぽになったようだった。まるで、大事な何かを失くしてしまったみたいに。視線をリビングの家具に移した圭吾は、ふと違和感に気づいた。いつの間にか、
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