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窓の外はもうすぐ夜明けを迎えようとしている。光が差せば、この夢は終わるだろう。
きっとこの夜は、彼との出逢いは、これから先に胸のときめきなど二度と感じることのない人生を送る私への最後のプレゼント――そう、思った。
「お前は、いつまで経っても役立たずだな。こんなことも出来ないのか。所詮、顔だけだな」
陸は、周りの社員に聞こえるよう、わざと大きな声で私を罵倒した。
今、私が代理で作成しているのは、陸が午後の役員会議で使う資料だ。本来なら彼自身の役目だが、陸は一切やろうとしない。
彼にとって私は『自分の見栄を満たすただの所有物』で、それ以上の意味を持たない。そして、その『所有物』の唯一の価値は、「顔」だけだと何度も思い知らせようとする。
(お父さんの会社と従業員を守るためにも耐えるしかない……)
遠藤製薬――地方の中堅製薬会社で、東海エリアでは知名度九割越えの有名企業だ。その社長の三男である陸と、私は間もなく結婚する予定になっている。世間からは「玉の輿」と言われるが、私はこの結婚を望んでいなかった。それでも結婚を決めたのは、陸からの強く執拗な圧力があったからだ。
遠藤製薬の下請企業として長年、信頼関係を築いてきた我が社だが、状況が変わったのは、半年前、陸が査察で会社に訪れたときのことだった。
「失礼いたします。お茶をどうぞ――」
私が応接室でお茶を出すと、陸はじっと私を上から下まで視線を動かし凝視していた。その様子に気づいた父が慌てて立ち上がり、私を紹介した。
「遠藤取締役、娘の美月です」
「美月……綺麗な名前だ」
その時は何事もなく終わったが、後日、陸から電話がかかってきた際、社長である父が突然、大きな声を上げた。
「娘の美月を取締役の結婚相手にですか?」
思いもせぬ結婚話に困惑したが、私は当時交際していた人との結婚も控えていたため、父に断りの電話を入れてもらった。
しかし、遠藤 陸という男は、それで諦めるような人間ではなかった。
「え……別れるってなんで、突然どうしたの?」
その二週間後、大学時代から五年付き合っていた彼から突然電話がかかってきて、理由も告げずに振られてしまった。家に行っても居留守をつかわれ、連絡先もブロックされている。友人に頼んで連絡をしたり理由を聞いてもらっても、何も分からないままだった。
呆然として別れの現実を受け入れられなかったが、その一か月後、影響は仕事にも出始める。
「社長!大変です。遠藤製薬からの受注額が三分の一に減額されています!」
営業部の部長が、顔を真っ青にしながら受注票をもって社長室に訪れた。この会社は遠藤製薬からの受注が八割を占めている。いきなり減額されたら事業が回らない。
「何だって?遠藤製薬とはもう四十年以上安定的な取引をしているんだぞ?それが何故だ!」
慌てて父や副社長、専務も同行し遠藤製薬に出向くと、応接室に陸があらわれた。
「あの……今月、急に受注額が減ったのはどのような理由でしょうか。何か当社に不備がございましたでしょうか」
父が低姿勢で尋ねると、陸は嘲笑うかのように小さく鼻で笑い、組んだ足をソファに深く投げ出してこう告げたそうだ。
「あれは忠告です。こちらがおたくのお嬢さんを嫁に貰ってやってもいいと言ったのに、断ってくるなんて。断る権利などないことが分かっていなかったようなのでね」
「それは取引とは別問題では……」
専務が反論すると、陸は鋭い瞳で威嚇するように睨みつける。
「こちらは受注する側だ。他の会社を選ぶ権利もある。もっと受注額を減らすことも、なんなら他社にすべて切り替えることも出来るんですよ」
実際に三分の一まで減らしてきた陸なら、本当に取引停止にしたり、切り替えたりすることもしかねない――父を含む経営陣はそう判断し、黙って陸の要望を歯を食いしばりながら受け入れた。
美月side私がメールを送った相手は、他でもない父だった。終業後、私は会社の応接室で父と向かい合っていた。「お時間を取らせてすみません」「いや、構わないよ。それで話というのはなんだ」父は私の真剣な顔を見て、既にただ事ではないと察しているようだった。私は深く呼吸し、胸に秘めていた決意を告げた。「はい、この会社を辞めようと思います。退職させてください」「辞める……? 一体どうしたんだ?」驚いて言葉に詰まっている父を見て、私は小さく息を吐いてから何度も頭の中でシミュレーションしていた言葉を口にした。「私は、今までお父さんの会社が遠藤製薬に依存していることに強い危機感を感じていました。遠藤製薬ありきの会社から脱却したかった。だけど、従業員の多くはそのように感じていません。主要取引先との契約条件が改善されて、みんなこの関係の維持を望んでいる」「それが不満だから辞めたい、ということか?」「いいえ。遠藤製薬とこの関係が続けば会社の財務もかなり改善されて余裕が出るし、会社だって安泰だと思う。陸が後継者になることが決定していないうちから、焦ったりリスクを取るのは杞憂
美月side涼真には未来を見ると言ったが、実際は何をしたら本当に前に進めるか分からずにいた。(社員の反対を押し切って話しを進めるのは、陸のような独裁者で横暴なのかもしれない)そんな思いが邪魔をして、私の行動を躊躇させている。しかし、このまま立ち止まることは、私にとって『自由を捨てること』と同義だった。「もっと具体的に、ちゃんと形にして周りが納得してもらえる状態になるまでは、提案や周りを巻き込むことはやめて一人で進めていこう」終業後や休日、誰にも相談することなく、私は黙々と殻に閉じこもるように調べ事や見積りなどを取り次の一手を模索した。周りに理解されなくても、孤独でも、私は現状のままでいるのは嫌だった。誰かに社運や自分の人生を握られている状態にはなりたくなかった。表面上は恵まれていると思ったり、第三者からそのように見えるかもしれないが、実際に会社や自分の意思で動けないようなら、それは恵まれているのではなく、魅せ方だけをよくしているだけで実際には縛られているのと変わらない。いくら鳥籠の広さが大きく、餌が豪華になろうと、籠の中にいることに変わりがないのなら、私はその籠自体から飛び出したかった。今、その籠に安心感を覚え、安らげる人がいるのなら彼らはそのままでもいい。私は、籠の中で羽をばたつかせるだけでなく、いつか外に出て羽を伸ばしたかった。本当の自由を手に入れたかった
美月side「もうやめて……。私もこのままじゃ良くないと思って、遠藤製薬がいなくても自走できるように今、会社を立て直そうとしているの。だから今は騒ぐよりも、うちの会社の将来を考えることに集中したい」「そんなんじゃ俺が納得できないよ。俺は、あのことさえなければ美月と結婚していた。それに、俺と別れていた間、美月があの男に色々なことをされていたかと思うと憎くて……」「もうやめてって言っているでしょ!」私の声に周りの人が気づいて、こちらをチラチラと覗き込んでいる。居たたまれなくなり、残っていたコーヒーを一気に飲み干し、伝票を持って店を出た。「美月、待って。待ってくれ」慌てて追いかけてきたので、店の前で立ち止まり涼真にはっきりと告げた。「ごめん、やっぱり涼真とやり直せない」「今のは言い過ぎた。だからもう一度チャンスをくれ」「ごめんね。涼真には、『涼真も騙されていたんだから仕方がない』って言ったけれど、本当は、お金を受け取って、別れを告げられたことが引っかかっていたの。」「でもそれは、俺の状況も理解してくれよ…&hel
美月side「そんなやつ、弁護士でもなんでも使って叩きのめせばいい。あいつは美月の人生を、そして俺と美月の将来を踏みにじったやつなんだ」「……ありがとう。怒ってくれるのは嬉しいけれど、うちの会社が遠藤製薬に依存しているのは事実なの。だから、今訴えたら会社の経営に支障が出るわ。それに、あの人の悪事を伝えて取引条件の見直しをしてもらって、今は他社よりもいい条件で取引出来ているわ。それにあの人も地方に異動になって、もうしばらくは関わることはないはずだし……」「そんなんじゃ甘いよ。裁判にして賠償金や慰謝料を貰えばいい。そのお金を資金にすれば会社だって大丈夫だろう」その瞬間、私の中で何かが大きく音を立てて崩れていった。会社と社員のためを思って婚約をして、陸の横暴さに必死に一人耐えてきた。その中で、なんとかして会社を守りつつも婚約破棄をするために、会社の立て直し策を考え、実績を出したことで、少しずつだが自走できるように変わっていった。それは簡単に出来たことではなく、長い歳月をかけてやっと実現したことで、何も知らない涼真に「慰謝料を資金にしろ」と指摘されたことは、今まで走ってきたことを全否定されたような気分だった。涼真の言っていることは、正義感としては全うかもしれない。だけど、現実はそんなに綺麗でも甘くもない。慰謝料が
美月side「社長はあの人の父親だけど、取引の決定権はあの人が持っていて逆らえなかった。父や役員も強引な要求に怒っていたけれど、断ったらうちの会社はあと半年で倒産するしかないことが分かって。あの人がなんて言ったか知らないけど、これが真実よ」私がテーブルの下で両手を固く握りしめていると、涼真は大きく目を見開いて言葉を失っていた。「それじゃ、美月が本当はあの男と結婚したいけど俺が邪魔だと言ったのも……」「すべてあの人の嘘よ」「そんな……」「私は、最初涼真がいるから断った。だけど、その話があってからしばらくして、涼真は理由も言わずに別れを告げたよね?連絡もブロックして、共通の友人からの連絡もすべて無視して話も出来なかった。もう涼真もいなくて、会社と社員を守るためには婚約するしか方法はない、そう思ったの」一年半前の絶望が蘇り、重苦しい空気が流れていた。「なんでそんなことを。なんであの男は平気でそんな嘘がつけるんだ……」涼真は、陸の非道さに信じられないというように怒りで拳をプルプルと震わせていた。「あの
美月side土曜日、涼真と食事に行くことになり私は駅に向かっていた。名古屋から郊外に離れていくこの路線は、涼真と会う時だけに使っていて乗るのは久々だった。電車に揺られながら窓の景色を見ていると、あの時の気持ちが蘇ってきた。学生時代は、毎日のように大学で会っているというのに休みの日に二人で出掛ける時はデートだといつもよりメイクを張り切っていた。普段はカジュアルな格好が多かったが、ワンピースが好きな涼真に合わせてデートの時はいつもワンピース。そして今日も、ワンピースを着ている。(今日、涼真に会ったらどんな雰囲気になるんだろう。涼真はやり直したいと言って、彼女とも別れたみたいだし、あとは私がどうしたいかだ……)自分の気持ちが分からず宙ぶらりんなまま、涼真の元へと向かっていった。駅に着くと、涼真は少し緊張した面持ちで立っている。「お待たせ」「美月、来てくれてありがとう。行こうか」「……うん」一緒に居た時間の方が長いのに、一年半という時間は私たちに物理的な距離をもたらしていて、会話もどこかよそよそしく、過去のような親密な空気はまだ戻ってこない。涼真が選んだ、落ち着いた雰囲気のカフェで飲み物を注文し、しばし沈黙が流れた後、涼