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第6話

Author: 列星安陳
結衣は、清志が仕事に出ている時間を狙って家に戻った。

玄関脇の宅配棚には、彼女宛てのビザの書類と並んで、999本のピンクのバラの花束が置かれていた。

そこには「橋本澪さんのファンミーティングの成功を祈って」と書かれたカードが添えられていた。

その鮮やかなピンクの花々が、結衣の瞳を鋭く刺す。

――結婚して二年。

清志は一度も彼女に花束を贈ったことがない。

「花なんてすぐに枯れる。無駄なことは嫌いだ」と、いつもそう言っていた。

だが今ならわかる。

嫌いだったのは「花を贈ること」ではなく、「花を贈りたい相手が結衣ではなかった」だけなのだ。

結衣は視線を逸らし、黙って部屋に入り、自分の荷物をまとめ始めた。

清志の趣向に合わせ、部屋はどこまでも簡素に整えられていた。

かつてはベッドの上にぬいぐるみを山ほど並べていた結衣だったが、清志が嫌がるので、一箱分をまるごと和也の家へ送ってしまった。

だから今、片付けは驚くほど簡単だった。

宝石箱を開けると、中に黒い白鳥を模したパールのネックレスがあった。

持っていくかどうか、一瞬迷う。

それは著名なジュエリーデザイナーの新作で、結衣が一目で心を奪われたものだった。

価格が高すぎて口に出せなかったのに、清志は彼女の気持ちを見抜き、婚約の贈り物として買ってきてくれた。

あの瞬間の驚きと幸福を、結衣は今も忘れられない。

「やっと帰ってきたな」

突然、部屋の入口に清志の姿があった。

額に細かな汗を浮かべ、息を弾ませている。

急いで駆け戻ってきたのだとわかる。

――そうだ。

玄関の監視カメラが、彼女の帰宅を映していたのだ。

「たかがこんなことで家出するとは......結衣、君もいい大人だろう。

どうしてそんな子供じみた真似をするんだ」

不満げに眉をつり上げる彼の顔。

ここ数日、彼女はもう何度もその表情を見てきた。

結衣の胸に、あの日の記憶がよみがえる。

学術会議の壇上で、彼は全員の前で澪を庇い、結衣を盗作犯扱いした――

胸の奥がひりつき、瞳が赤く染まる。

「......まあ、戻ってきたならいい」

清志の声が少し柔らぐ。

「この数日、澪は怯えて眠れない夜を過ごしている。

自分が悪いんだと責め続けてたんだ......それで君が帰ってこないんだろう?」

「彼女がいなければ、私は盗作犯なんて汚名を着せられなかった」

結衣は冷ややかに視線を外した。

「夢装置の件は調べた。

確かに海外にも似た機器はあるが、原理は違う。

盗作には当たらない。

専門家たちにも説明したからもう心配いらない」

「本当かしら?」

結衣は冷笑しながらスマホを開いた。

「江口結衣・学術不正」の検索ワードは、丸一日以上もトレンドに残っていた。

「無責任に騒いでるだけの連中だ。

そんなもの気にするな......」

清志が言いかけたとき、彼の視線が結衣の手元に止まった。

「......ビザ?

A国で会議があるのか。

今回は何日間行くんだ?」

これまでも結衣はたびたび海外へ出張していた。

だから清志は当然のように、またすぐ戻ってくるものと思っていた。

結衣は深く息を吸い、彼に真実を告げようと決意する。

「実は、今回は――」

そのとき、清志の携帯が鳴った。

「清志、もうすぐ出番なの。

すごく緊張する......来てくれる?

本当に怖いの......」

澪の震える声がスマホ越しから響き、今にも泣き出しそうだった。

「澪、大丈夫だ。

俺がすぐ行くから」

清志は結衣の手にあるビザには目もくれず、言葉を残して家を飛び出していった。

「話は夜にしよう」

彼の背中が遠ざかるのを見つめながら、結衣は静かに決心した。

――自分が去ることは、もう彼には告げない。
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