로그인茶室の前で二時間近く待ち続けた彰が、いい加減しびれを切らして中に踏み込もうとした矢先、小夜が自ら出てきた。 「あいつが、何かしたのですか」 目の縁が赤く、鼻先もほんのりと紅い。明らかに泣いた後だった。彰の目の奥が、すっと冷たく沈む。口調こそ落ち着いていたが、体はすでに大股で茶室に向かっていた。青山に落とし前をつけに行く気だ。 「違うわ!」 小夜は慌てて彼の腕を掴み、強引に外へ引っ張った。「栄知様に今夜来るよう呼ばれているの。これ以上遅れられないわ。それに、あなたには関係ないでしょう!」 いつもこうだ。 この一年、小夜が青山と会うたびに、彰は異常なほどぴったりと張りついてくる。最初の頃は部屋の中にまで同席しようとしたほどだ。きつく叱っても、返ってくるのは決まって同じ言葉だった。 ――旦那様の遺命です。社長をお守りしろと。 青山が自分を傷つけるわけがないのに。 何度か本気で怒って、ようやく外で待たせるようになったが、それでも時間制限つきだ。小夜には彰に対する命令権があるとはいえ、相手は長谷川本家が育て上げた筆頭の腹心であり、単に気に入らないからと切り捨てるわけにはいかない。 せいぜい、専属秘書の奈々をそばに置いて、彰との接触を物理的に減らすくらいしかできなかった。 だが国内にいる限り、どうしても彼を完全に振り切ることはできない。 本当にやっかいだ。 彰を車に押し込み、走り出す。道中、運転席の彰がバックミラー越しにやはり一言挟んできた。「奥……社長、小林青山という男は危険です。見た目ほど単純な人間ではありません。今後は、少し距離を置かれたほうがよろしいかと」 「……」 小夜は呆れたように言った。「それ、本当に青山のことを言ってるの?自分のことじゃなくて?」 「……私は、決して社長を傷つけません」 「ふん」 小夜は取り合う気にもなれなかった。それに、まだ心も落ち着いていない。目を閉じ、指先で眉間を揉みながら、波立つ感情をやり過ごそうとした。 …… 茶室の二階。 オレンジ色のベントレーが視界から消えるのを見届けた青山が、席を立とうとした時、テーブル上のスマホが震えた。画面に表示された番号を見た瞬間、彼の唇から穏やかな笑みがすっと消え失せた。 「何の用だ」 何度か無視した
青山はタブレットを小夜の前に押しやった。 「構わないさ。君と僕の仲だろう。君を信じられなくて、他に誰を信じるって言うんだ」 確かに、その通りではある。 青山の会社が公安に納入している中核アルゴリズムですら、小夜はその仕組みを知っているし、開発にも携わっていた。青山は昔から、彼女に対して一切の壁を作らない。 だが、その信頼は今の彼女にはあまりに重かった。ためらいはしたが、重ねて頼み込まれ、小夜はとうとう画面をタップした。 そして、息を呑んで固まった。 国内のプロジェクトだけではない。 海外の案件までリストアップされている。 瞬時に察した。これは純粋に意見を求めているわけではない。この男の本当の狙いは――別のところにあるのだ。 …… 「あなた、これ……」 呆然と顔を上げたまま、小夜は絶句した。 青山はまるで動じた様子もなく、気楽に笑って言った。「そう構えなくていい。君の意見を参考にしたいだけだよ。最後に決めるのは僕だからね」 そうは言われても、小夜は静かにタブレットをテーブルに置いた。長い沈黙のあと、ようやく重い口を開く。 「青山。もし私の思い違いなら、ただの自惚れだと思って聞き流して……もう、私を待たないで。あなたはこんなに優秀な人なんだから、もっといい人にいくらでも出会えるわ。あなたの大切な時間を、私なんかに使わないで」 「ささよ」 小夜が正面から切り込んできたのを見て、青山もついに覚悟を決めた。 「僕にそんな資格がないのはわかっている。一年前、君を海外へ送り出したのは僕だ。そのせいで、君はあんな酷い目に遭った。それなのに僕は国内で身動きが取れず、君を助けに行くことすらできなかった……だから、ずっと怖くて訊けなかったんだ。でも今は、お互いを縛るものがなくなって、新しい人生が始まっている。だから、訊かせてほしい。あの日の言葉を、まだ信じていてもいいかな」 小夜の表情が凍りついた。 あの日の言葉。覚えていないはずがない。一年前、青山の助けで海外へ逃れる日、搭乗の直前に、彼女は確かに彼と約束を交わしたのだ。 けれど、今は…… 「違うの」 長い間うつむいてから、小夜は絞り出すように声を出した。「海外へ行くと決めたのは私自身の意志よ。あなたはただ、手を貸してくれただけ。
「まだ、言い足りないかしら」 小夜は淡々と続けた。「あの計画書は、ただの絵に描いた餅よ。今のあなたの技術水準で、あんな最終収益目標を達成するなんて夢物語もいいところ。相沢さん、誰もがあなたと同じ思考回路だと思わないで。仕事は仕事よ。計画書に本当に問題がないのなら、役員会で圧倒的多数で否決になんてならないわ。……それから、ヴァルテックの株式の買い戻しについて、私が提示した条件は今でも有効よ。金額も――」 「あり得ないわ!」 若葉が、氷のように冷たい声で遮った。 「高宮。ヴァルテックは、圭介が私にくれたものよ。契約は正式に成立している。あれは私の会社なの。絶対に手放さないわ」 …… 一方的に電話が切れた。 どう考えても理解できない。小夜はスマホを無造作に隣のシートへ放り出し、心の中で深くため息をついた。背もたれに体を預け、そっと目を閉じる。 「着きました」 車が、繁華街の一角にひっそりと佇む茶室の前で停まった。彰が先に降りて後部のドアを開ける。「お供しましょうか」 「いいわ」 小夜は小さく首を振り、ひとりで茶室へと向かった。引き戸を開けると、風鈴がちりんと涼やかな音を立てる。 その音が消えるか消えないかのうちに、車のそばに残った彰がふと視線を上げた。二階の掃き出し窓の前に、青竹のようにすらりとした男が立っている。視線が絡んだ。いつも淀んだ水底のように凪いでいる彰の瞳に、かすかな波が立つ。 ――青山だ。 階上と階下、窓越しに二人の男が静かに向かい合う。どちらも表情ひとつ動かさず、どちらも決して目を逸らさなかった。 茶室の扉が、ふたたび鳴るまで。 青山はゆっくりと窓際から振り返った。さきほどまでの無表情が嘘のように消え去り、穏やかな笑みを浮かべて入り口へ歩み寄る。 「ささよ、来てくれたね」 「ええ」 柔らかなベージュのニットワンピースが、女性らしいしなやかな輪郭を描いている。仕事の場で常に張り詰めていた小夜の目元が、この男の前ではほんの少しだけほどけ、穏やかな笑みに変わった。 落ち着いた茶室で、二人はテーブルを挟んで腰を下ろした。青山は手慣れた優雅な所作で茶器を扱い、澄んだ黄金色のお茶を一杯淹れて差し出す。そして、ふっと笑った。 「ささよに会うのも、すっかり難しくなったな
鉛色の空から、糸のような細い雨がしとしとと降り続いている。 陰鬱な風景の下、鮮やかなオレンジ色のベントレー・コンチネンタルが、大通りを滑るように走っていく。後部座席では、柔らかなベージュのニットワンピースに身を包んだ小夜が、目を閉じて深く背もたれに体を預けていた。 ふいに、スマホが震えた。 数日続く激務で、小夜の疲労は限界に近かった。画面を確認する気力すらなく、反射的に応答する。聞こえてきた声に、小夜の眉間がすっと寄った。ゆっくりと身を起こす。 「相沢さん?」 この女が、わざわざ電話をかけてくるとは。 今度は何のつもりだ。 少し考えて、小夜は通話を切らないことにした。素っ気なく応じる。「……何の用かしら」 「私の計画書を否決したのね?」電話越しの声は、小夜以上に冷え切っていた。 小夜は不思議でならなかった。かすかに眉を上げ、率直に問い返す。「それが、そんなに意外なこと?」 相手はしばし黙り込み、やがて冷ややかに言った。「あの計画書に、問題はなかったはずよ」 「ええ」 小夜はあっさりと認めた。「着想は悪くないわ。でも、今のあなたの技術チームでは、あのプロジェクトは支えきれない。それに、計画書の穴は自分でもわかっているでしょう。それとも、もっとはっきり言ってあげた方がいいかしら」 「……っ」 若葉は歯を食いしばるようにして言った。 「高宮。私の計画書は完璧よ。あなたはただ、私を狙い撃ちにしているだけじゃない! 忘れないで。ヴァルテックは、圭介が周囲の反対を押し切ってまで立ち上げた会社よ。あの人の情熱であり、心血そのものなの。今回の計画書だって、彼の遺志に沿って作ったわ。あなたはあの人を死なせておきながら、今度はその残した心血まで潰すつもり!? プロジェクトの申請を意地悪く止めさえしなければ、十分な資金で優秀なチームを引き抜ける。プロジェクトは絶対に成功するわ!」 小夜は黙った。 正直なところ、若葉という人間がさっぱりわからない。この一年、小夜も雅臣も圭介の死が残した山のような後始末に追われ、ヴァルテックにまで気を回す余裕などなかった。 ところが、設立間もない子会社が、最大の後ろ盾を失ったにもかかわらず、若葉があちこち手を回してどうにか立て直してしまったのだ。彼女に確か
少しは懲りてほしい。 あれほどの惨劇を経験したというのに、まだ教訓が足りないというのか。 「どうして急に、留学なんて?」小夜は怪訝そうに尋ねた。「どこへ」 「イギリスだ」雅臣は淡々と答えた。 小夜は絶句した。 「お前がしばらく国内に留まるわけにはいかないのか」雅臣もお手上げといった様子でぼやいた。「お前さえここにいれば、佳乃が海外へ行きたいなどと言い出すこともないだろうに」 佑介の留学については、これ以上一言も触れようとしなかった。 長谷川家のこのいびつな親子関係にはとうに慣れていたから、小夜も今さら驚きはしない。 だが、やはり静かに首を振って応えた。「大叔母様のそばにもいなければなりませんし。それに……大叔母様は私が国内に長く留まることを、あまり良く思っていませんから」 ――正確には、小夜が「長谷川家」と関わり続けることを良く思っていないのだろう。 雅臣にはわかっていた。だが、どうしようもない。珠季と長谷川家の折り合いが悪いのは昨日今日に始まった話ではなく、もう七、八年にもなるのだから。 ――あの馬鹿息子め。いなくなった後まで、こんな厄介ごとを残していきおって。 …… 書斎を出た後、雅臣の言葉が引っかかっていた小夜は、やはり気になって佑介に電話をかけた。すぐに繋がった。 「お姉さん?」 小夜は回りくどいことはしなかった。「留学したいって、本当?」 「……今、本家にいるんですか?」 「ええ」 「……はい、行きたいです」 佑介は声を落として続けた。「お姉さん、前に約束したじゃないですか。お姉さんがイギリスに行ったら、僕も追いかけるって。それなら、留学がいちばん自然でしょう?」 そこで、声のトーンがさらに沈んだ。 「それに、お姉さん。僕はずっと先生と籠もって数学の研究をしていて、お姉さんがあんな目に遭っていたなんて全然知らなかったんです。 ……もう少しで、もう二度と会えなくなるところだったんですよ。お姉さんが一人で海外にいるなんて、心配で仕方ないんです……僕にはもう、お姉さんしか家族がいないんですから」 ――違う。あなたには、佳乃と雅臣がいる。 小夜はそう否定しかけて、さきほどの雅臣の突き放すような態度を、そして佳乃の消えゆく記憶を思い出し、口
夕食を終え、小夜はしばらく佳乃に付き合って他愛のない話をした。やがて佳乃がうとうとと微睡み始めたのを見届けてから、そのまま雅臣のいる書斎へと向かった。 …… 「お母さんに、何があったんですか」 小夜は眉間に深い皺を寄せていた。「様子が変です。どう見てもおかしいですよ」 「記憶だ。記憶に障害が出始めている」雅臣の顔には、隠しきれない深い疲労が滲んでいた。眉間を指で揉みほぐしながら、重いため息をついた。 「私も、先週になってようやく気づいたんだ。毎朝目を覚ますたびに、少しずつ何かを忘れている。記憶も心も、ゆっくりと退行しているんだ」 「そんな……」小夜は絶句した。「今は、どの頃の記憶まで戻ってるんですか」 雅臣は力なく答えた。「十八歳になる前の状態だろう。正確な年齢まではわからないが」 「待ってください」小夜は納得がいかないように首を傾げた。「おかしくないですか?さっき、私のことはちゃんとわかってましたよ」 「それが私にもわからないんだ」雅臣自身も、同じ疑問を抱えていた。「この一週間、医師と一緒に佳乃の記憶を慎重に探った。多くのことを忘れている。私との結婚も、圭介を産んだことも……だが、なぜかお前のことだけは鮮明に覚えているんだ」 雅臣と佳乃は幼なじみであり、早くから付き合い始め、成人してすぐに婚約した。今の佳乃の記憶はまだその頃に戻っているため、彼を「恋人」だと思っており、拒絶されることだけはなかった。 だがそれでも、夫としてはやはり堪えるものがある。三十年以上連れ添った自分との記憶が消えつつあるのに、数年前に嫁いできた小夜のことだけは、彼女の中に強く根付いているのだから。 小夜は黙り込んだ。 圭介の死後、小夜が最も警戒してきたのは、決して表舞台に姿を現そうとしないコルシオだった。この一年、なぜ彼らが動かなかったのかはわからない。こちらの厳重な警備が功を奏したのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。 それでも、いつ暗闇から現れて佳乃を傷つけるか――その恐れはずっと小夜の胸の底に巣食っていた。 けれど今、コルシオが動くより先に、佳乃の精神はここまで崩れてしまっていた。以前はトラウマで感情の波が激しくなるだけだった。だが今は、記憶の土台そのものが崩れ始めているのだ。
「小夜」「小夜、こっちよ。こっち」「小夜」深紅の民族衣装を身に纏った女が、夜の闇の中を歩いていた。鼻先には独特な香の匂いが漂い、遠くから聞こえる呼び声が耳元でこだまし、前へと誘っていた。夜の闇は深い。一歩一歩、前へ、遠くへと進んでいく。声が、だんだん近づいてくる。近くなった。その時、不意に腕が重くなった。ジャラジャラと鎖の音が響く。見下ろすと、いつの間にか手首に太く重い鎖が巻きつき、自分を束縛し、圧迫していた。どこから現れた鎖なのか?周囲を見渡すと、いつの間にか景色は濃密な闇に塗りつぶされ、何も見えなくなっていた……山並みも、砂利道も消え失せ、ただ闇だけ
悪いことを考えてはいけない。小夜は、恐怖心から湧き上がる不吉で悪い記憶や想像を必死に振り払い、これまでに経験した美しい出来事だけを思い出そうとした。幼い頃、大叔母の珠季と寝食を共にし、針の運びや技法を教わったこと。「遠くには広い世界があるのだから、若いうちから自分を閉じ込めてはいけない」と教えてくれたこと。それは彼女が鳥籠を飛び立つための翼となり、心に根を下ろし、自由に枝葉を広げた。家から逃げ出した後、高校の国語教師は彼女を匿い、帝都行きの列車に乗せてくれた。そして帝都で飢えたり野宿したりしないようにと、こっそり鞄に十万円の生活費を忍ばせてくれた。それは彼女が初めて感じた、
夜、辺境の宿にて。「先生、本当に大丈夫なんですか?最近、頭痛の頻度が増えていますし、たまに幻聴も聞こえるみたいで……酷い時は気絶までするんです。高山病って、こんなに重くなるもんなんですか?」航は、ベッドサイドで小夜の脈を診ている地元の医師に、焦りきった声で尋ねた。医師は首を振り、立ち上がった。彼は携帯していた薬箱から一本の特製の線香を取り出し、枕元の香炉に立てて火をつけた。煙がゆらりと立ち上り、独特の香気が部屋に満ちていく。香が安定して燃え始めたのを確認してから、彼はようやく航に向き直った。「心配はいらんよ。患者さんの症状は、単なる高山病ではない。もっとずっと前から
恐怖と威圧。一ノ瀬千尋(いちのせ ちひろ)は怯えて首をすくめ、騒ぐのをやめたが、まだめそめそと泣き続けていた。小夜は何も言わず、顔に無理やり笑みを貼り付け、平静を装いながら衆人環視の中で千尋の手を引き、外へと歩き出した。これ以上、騒がせるわけにはいかない。……寮を出て。小夜はそこで初めて知った。来ていたのは千尋だけでなく、父親の高宮明孝(たかみや めいこう)、そして叔父まで揃っていたことを。明らかに、善意の訪問ではない。千尋が言っていたホテルには行かず、小夜は近くのレストランで個室を取り、彼らをそこへ連れて行った。先に二人で中に入る。個室に入った途端、千