LOGIN法律事務所を出たあと、芹奈はまっすぐ駅へ向かった。
何かが解決したわけではない。
彰人がどうなるのかも、自分がどうなるのかも分からないままだ。
それでも、一つだけ決めたことがある。
もう彰人との関係には戻らない。
それだけは、相談する前よりはっきりしていた。
◇
翌日。
出勤すると、彰人がこちらを見た。
目が合ったが、芹奈はそのまま自分の席へ向かった。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。
午前中は仕事の話しかしてこなかった。
昼休みになっても、彰人は近づいてこない。
ようやく諦めたのかもしれない。
そう思っていた。
けれど仕事を終えて会社を出ると、後ろから名前を呼ばれた。
「芹奈」
振り返る。
彰人が追ってきていた。
「何?」
<週末、千紘は律と待ち合わせをしていた。 以前話していた美術館へ行く約束だ。 待ち合わせの時間より十五分も早く着いてしまい、駅前でスマートフォンを眺めながら時間を潰していると、メッセージが届いた。『着きました。今どこですか?』 思わず顔を上げる。 律も早かったらしい。『改札の前にいます』 送って間もなく、人混みの向こうから律が歩いてきた。「お待たせしました」「私も今来たところです」「本当ですか?」「……十分くらい前です」「俺も似たようなものです」 二人で笑った。 たったそれだけのことが嬉しい。 以前なら、そんな自分を認めることすら怖かった。 ◇ 美術館を見て回ったあと、館内のカフェに入った。 律が展示の感想を話している。 千紘はそれを聞きながら、ときどき自分の意見を返した。 会話が途切れても気まずくない。 無理に何かを話さなくても、同じテーブルに座っているだけで落ち着く。「雨宮さん?」「はい?」「ぼーっとしてました?」「ちょっとだけ」「疲れました?」「違います」 千紘は笑った。「楽しいなと思って」 律が少し驚いたように目を瞬く。「それならよかったです」「鳴海さんは?」「楽しいですよ」「即答ですね」「そこは迷うところじゃないので」 また胸の奥がくすぐったくなった。 ◇ 美術館を出ても、すぐには帰らなかった。 近くを歩き、見つけた店を覗き、途中でコーヒーを買った。 特別なことは何もしていない。 それなのに、時間が過ぎるのが早かった。「次、どこに行きましょうか」
法律事務所を出たあと、芹奈はまっすぐ駅へ向かった。 何かが解決したわけではない。 彰人がどうなるのかも、自分がどうなるのかも分からないままだ。 それでも、一つだけ決めたことがある。 もう彰人との関係には戻らない。 それだけは、相談する前よりはっきりしていた。 ◇ 翌日。 出勤すると、彰人がこちらを見た。 目が合ったが、芹奈はそのまま自分の席へ向かった。「おはよう」「おはよう」 それだけだった。 午前中は仕事の話しかしてこなかった。 昼休みになっても、彰人は近づいてこない。 ようやく諦めたのかもしれない。 そう思っていた。 けれど仕事を終えて会社を出ると、後ろから名前を呼ばれた。「芹奈」 振り返る。 彰人が追ってきていた。「何?」「少しだけいい?」「よくない」「五分でいいから」「この前もそう言ったよね」 芹奈は歩き出した。 彰人が隣に並ぶ。「昨日、どこ行ってた?」 足が止まりそうになった。 けれど芹奈はそのまま歩いた。「何で?」「予定あるって言ってただろ」「それ、彰人に言う必要ある?」「別に、聞いただけだよ」「そういうのやめてって言ってるの」「だから、変な意味じゃないって」 芹奈は立ち止まった。「彰人」「何?」「私、本当に別れるから」 彰人の表情が変わった。「まだ言ってるのかよ」「まだじゃない。ずっと言ってる」「俺は納得してない」「納得してなくても別れられるよ」「そういう話じゃないだろ」「じゃあどういう話?」
「どうぞ、お掛けください」 案内された小さな相談室で、芹奈は椅子に座った。 向かいには弁護士がいる。 以前、匿名のような形で相談したときとは違う事務所だった。「今日は刑事事件についてのご相談ということでよろしいですか?」「はい」「ご本人に関係することでしょうか」 芹奈はすぐには答えられなかった。「……はい」 口にした途端、心臓が強く鳴った。 もう、もしもの話にはできない。「分かりました。話せる範囲からで構いません」 急かされなかったことで、かえって逃げられなくなった。 芹奈は膝の上で両手を握った。「人が、死んだんです」 弁護士は黙って続きを待っている。「事故ってことになってます。旅行先で海に落ちて……でも、本当は事故じゃなくて」 一度、言葉が止まった。「知り合いの男が、その人を海に落としました」「あなたは、その場に?」「……いました」 声が震えた。「止められませんでした」 それだけではない。 芹奈は分かっている。「私……早くしてって言いました。誰か来たらどうするのって」 口にすると、あの夜の光景が蘇った。 岸壁にしがみついていた千紘。 その指を、彰人が一本ずつ外していくところ。「その人、まだ生きてました。助けられたと思います。でも私、何もしなかった」 ◇ 弁護士はいくつか確認した。 誰が亡くなったのか。 いつ、どこで起きたのか。 彰人と千紘、自分がどういう関係だったのか。 芹奈は答えられることには答えた。 途中で何度も声が詰まった。「これがあります」
法律事務所へ行く日の朝、芹奈はいつもより早く目を覚ました。 予約は午後七時。 仕事が終わってからでも十分間に合う。 前回のように、直前になって迷うつもりはなかった。 引き出しを開け、旧端末を取り出す。 充電はしてある。 画面をつければ、彰人とのメッセージもそのまま残っていた。 これを見せたら、弁護士は何と言うだろう。 自分も捕まるのか。 彰人はどうなるのか。 怖くないはずがなかった。 それでも今回は、旧端末を鞄に入れた。 ◇ 会社へ着くと、彰人はすでに来ていた。「おはよう」「おはよう」 芹奈はそれだけ返して席についた。 彰人から昨夜届いたメッセージには、まだ返信していない。『ちゃんと分かってもらえるまで話したい』 分かってほしいのは、こちらの方だった。 もう終わりにしたい。 それだけなのに、彰人は受け入れようとしない。 午前中は何事もなく過ぎた。 昼休みも、彰人は話しかけてこなかった。 芹奈は少しだけ安心した。 今日さえ終われば、弁護士に話せる。 そのあとどうするかは、専門家と相談して決めればいい。 自分一人で考え続けなくてもよくなる。 ◇ 定時が近づくにつれ、芹奈は何度も時計を確認した。 あと一時間。 あと三十分。 今日は何も起きない。 そう思っていたところで、彰人が近づいてきた。「芹奈」 思わず身構える。「何?」「これ、今日中に確認できる?」 差し出されたのは仕事の資料だった。 芹奈は一瞬、彰人の顔を見た。「今日中?」「できれば。明日の朝使うから」 前回と似ている。 胸の奥がざわついた。「……これ、私じゃないと駄目?」「いや。無理なら他に頼むけど」 彰人はあっさり答えた。「予定ある?」 芹奈は黙った。 前回はここで、別に、と答えた。 その結果、予約へ行けなかった。「ある」「そっか。じゃあいいよ」 彰人は資料を引っ込めた。「佐藤さんに頼んでみる」「……うん」「お疲れ」 それだけだった。 彰人は何も聞かなかった。 どこへ行くのかも、誰と会うのかも。 芹奈はしばらく、その背中を見ていた。 ◇ 会社を出る。 駅へ向かう途中で、スマートフォンが震えた。 彰人だった。『今日、少しだけ会えない?』 芹奈は足を止めた。
芹奈が店を出てから、彰人はしばらく席を立てなかった。 失敗した。 弁護士なんて言葉を出す必要はなかった。 芹奈が最近おかしいから、頭に浮かんだだけだ。旧端末を手元に残し、自分を疑い、何度も警察の話を気にしていた。 このまま自分から離れれば、誰かに相談するのではないか。 そう考えていたせいで、口から出た。「……くそ」 彰人はスマートフォンを取り出した。『さっきは悪かった』 打って、消す。『変な意味じゃない』 それも消した。 何を書いても、また疑われる気がした。 ◇ 翌日、芹奈はいつも通り出勤してきた。「おはよう」 彰人が声をかけても、「おはよう」 と返すだけだった。 仕事の確認には答える。 ほかの社員とは普通に話している。 彰人だけを避けていた。 昼休みになると、芹奈は鞄を持って一人で外へ出た。 その姿を見て、彰人は思わず呼び止めそうになった。 どこへ行く? 誰と会う? そんなことを聞けば、また同じことになる。 彰人は何も言えなかった。 ◇ 芹奈が戻ってきたのは、昼休みが終わる少し前だった。 彰人は仕事をするふりをしながら、その姿を目で追った。 鞄を置く。 スマートフォンを確認する。 それだけだ。 何もおかしなことはしていない。 なのに気になる。 もし弁護士へ相談したら。 もし警察へ行ったら。 芹奈は何を話すだろう。 自分に呼ばれてあの場所へ行ったこと。 千紘が海へ落ちたとき、そこにいたこと。 そして――。 彰人は考えるのをやめた。 芹奈だっ
翌朝になっても、芹奈は彰人のメッセージに返事をしなかった。『一度だけでいいから、ちゃんと会って話したい』 何度読んでも、彰人が何を話したいのかは分からない。 別れたくないと言うのか。 それとも、あの日のことを誰にも話すなと念を押すのか。 以前なら、前者だと思えただろう。 今は後者を疑ってしまう。 会社でも、彰人は芹奈を追ってきた。 人がいるところでは仕事の話しかしない。 けれど昼休み、廊下で二人きりになると声をかけてきた。「メッセージ見た?」「見た」「じゃあ返事くらいしてくれよ」「何て返せばいいの?」「会って話したい」「この前話したでしょ」「あれじゃ何も話せてない」 芹奈は彰人を見る。「何を話したいの?」「いろいろ」「ここで言えば?」「ここじゃ無理だろ」 その答えだけで、芹奈の警戒が強くなった。「何で?」「会社だからだよ」「恋人同士の話なら、別に少しくらいできるじゃん」「芹奈」 彰人が声を落とした。 その顔を見て、芹奈は確信した。 やはり彰人が話したいのは、別れ話だけではない。「……一度だけだからね」「え?」「今日、仕事終わってから。一度だけ話す。それで終わり」 彰人の表情がわずかに緩んだ。「分かった」 ◇ 二人は以前にも入ったことのある店を選んだ。 人目がある場所なら大丈夫。 芹奈はそう考えていた。 席につくなり、彰人が口を開く。「俺は別れたくない」「どうして?」「どうしてって……好きだからに決まってるだろ」 今度はき







