LOGIN翌日、千紘は葵に付き添われ、雨宮凛が勤めていた会社を訪れた。
「ここ……」
ビルを見上げても、当然ながら何の記憶もない。
雨宮凛にとっては毎日のように通った場所。
けれど千紘にとっては、初めて訪れる場所だった。
「大丈夫?」
「うん」
「無理そうだったら、すぐ帰ろうね」
「ありがとう」
エレベーターで五階へ上がる。
受付で名前を告げると、すぐに四十代くらいの女性が駆け寄ってきた。
「雨宮さん!」
「……こんにちは」
「よかった。本当に……!」
女性は心から安堵したように息を吐いた。
「事故に遭ったって聞いて、みんな心配してたのよ」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて。生きててくれただけで十分よ」
まただ。
胸が痛
彰人との食事が決まってから三日後。 千紘は仕事を終え、待ち合わせのレストランへ向かった。 指定されたのは、ホテルの上階にあるレストランだった。 以前の自分なら、少し緊張したかもしれない。 彰人は記念日になると、こういう店を予約することがあった。 窓際の席。 夜景。 静かな店内。 まるで、夫婦だった頃に戻ったような場所。「雨宮さん」 先に来ていた彰人が立ち上がる。「すみません。お待たせしました」「いえ。俺も今来たところです」 千紘は向かいの席に座った。「素敵なお店ですね」「気に入ってもらえたならよかった」 彰人が微笑む。 その顔を見ていると、不思議な気分になる。 何度も見た笑顔。 優しい夫だと信じていた顔。 今は、その奥に何があるのか考えてしまう。「何か?」「いえ」 千紘は笑った。「今日は奥様のお話を聞けるのかなと思って」「ああ」 彰人は少し困ったように笑う。「本当に聞きたいんですか?」「はい」「変わった人ですね」 料理が運ばれてくる。 しばらくは仕事の話をした。 今回の広告。 次の企画。 他愛のない会話。 そして食事が半分ほど進んだ頃、彰人が口を開いた。「妻とは、七年前に結婚しました」 知っている。 自分のことだから。「恋愛結婚ですか?」「そうです」 千紘はグラスに触れながら聞いた。「幸せでした?」「……幸せでしたよ」 一瞬の間。 それを千紘は見逃さなかった。「喧嘩もしましたけどね」「どんなこ
翌日。 千紘が出勤すると、佐伯から声をかけられた。「雨宮さん、榊原コーポレーションの件、評判よかったみたいよ」「昨日、榊原さんからも連絡がありました」「あら、直接?」「はい。撮影が好評だったって」「そうなのね」 佐伯は嬉しそうに頷いた。「それで、追加の仕事が来そうなの」「追加?」「まだ正式決定じゃないけど、今度は広告だけじゃなくて、販促物もまとめてお願いしたいって」 また彰人と関わる。 以前なら警戒しただろう。 けれど今は、むしろ好都合だった。「分かりました」「雨宮さん、引き続き担当お願いできる?」「はい」 迷わず答えた。 仕事を利用するつもりはない。 けれど、彰人の方から近づいてくるのなら拒む理由もなかった。 昼過ぎ。 早速、榊原コーポレーションとのオンラインミーティングが入った。 画面の向こうには彰人と担当者がいる。 千紘はできるだけ平静を装った。「先日はありがとうございました」「こちらこそ」 彰人が微笑む。「雨宮さんの提案、社内でも評判がよかったですよ」「ありがとうございます」 会議そのものは普通に進んだ。 商品。 ターゲット。 予算。 納期。 仕事の話だけ。 やがて一時間ほどで会議は終わった。「では、よろしくお願いします」「よろしくお願いいたします」 接続を切ろうとした、そのとき。『雨宮さん』 彰人に呼び止められた。「はい?」『少しだけいいですか?』 佐伯が千紘を見る。「私は先
探偵の三枝と別れたあとも、千紘はすぐには帰れなかった。 駅へ向かいながら、何度も考える。 殺される二日前。 自分のメールアドレスから、探偵へ調査を打ち切る連絡が送られた。 その頃、自分は彰人に対して不安を感じていた。 それなのに。「どうして旅行に行ったの……?」 結婚記念日の旅行。 彰人と二人きりで海沿いのホテルへ行った。 そして殺された。 今まで、そのことを深く考えていなかった。 旅行は以前から決まっていた。 だから行った。 そう思っていた。 けれど、本当にそれだけ? 千紘は足を止めた。「……違う」 何かを忘れている。 殺される少し前。 彰人と話をした。 リビング。 夜。 彰人が自分の前に座っている。『千紘』 記憶の中の声。『話がある』 千紘は目を閉じた。 少しずつ、その夜のことが蘇ってくる。『何?』『芹奈のこと』 その名前を聞いた瞬間、身体が強張った。『……何の話?』『分かってるんだろ』 彰人は苦しそうな顔をしていた。『俺と芹奈のこと』 初めて。 彰人が自分から浮気を認めた。『いつから?』『……半年くらい前』『半年?』 もっと前から疑っていた。 でも、本人の口から聞くと苦しかった。『ごめん』 彰人が頭を下げた。『本当に悪かった』 千紘は何も言えなかった。『言い訳するつもりはない』『じゃあ、どうするの?』
翌日の午後七時。 千紘は指定された喫茶店へ向かった。 店内を見回すと、奥の席に一人の男が座っている。 三十代後半くらいだろうか。 黒いジャケットを着た、ごく普通の男だった。 目が合う。「雨宮さん?」「はい」「どうぞ」 千紘は向かいの席に座った。「初めまして。雨宮凛です」「三枝です」 三枝。 名前を聞いた瞬間、僅かに記憶が動いた。 そうだ。 生前の自分は、この男と会っている。「……どうしました?」「いえ」 千紘は首を振った。「榊原さんから、お名前を聞いたことがあった気がして」「そうですか」 三枝はそれ以上追及しなかった。「それで」 まっすぐ千紘を見る。「あなたは榊原千紘さんと、どういう関係なんですか?」 やはり、そこからだった。「詳しくは言えません」「なら、俺も詳しいことは話せません」「分かってます」 千紘はスマートフォンを取り出した。「でも、これならどうですか?」 表示したのは、陶器の鳥から出てきた紙の写真。 三枝の表情が変わった。「それ……」「榊原さんが残していたものです」 三枝が画面を見る。『S-0427』『0611』『A.S』 そして電話番号。「この番号は、三枝さんのものですよね?」「そうです」「四月二十七日と六月十一日は、調査日だと聞きました」「……はい」「A.Sは相沢芹奈?」 三枝はすぐには答えなかった。「その紙を、どこで?」「
翌朝。 千紘が出勤すると、佐伯が声をかけてきた。「雨宮さん、昨日、榊原コーポレーションから電話あった?」「ありました」「鍵のこと?」「はい」「ごめんね。撮影に参加した人全員に確認してるみたい」「そうだったんですね」 少しだけ安心した。 自分だけを疑って連絡してきたわけではなかったらしい。「雨宮さんの荷物には入ってなかった?」「はい。帰ってから確認しましたけど、ありませんでした」「なら大丈夫。小さいものらしいから、機材なんかに紛れ込んだのかもね」「そうですね」 話はそれで終わった。 けれど、千紘の頭には昨夜思い出したことが残っていた。 あの鍵。 見覚えがある。 銀行の貸金庫。 結婚する前から、千紘が個人的に契約していたものだ。 祖母から譲られた宝石や、大切な書類を保管するために使っていた。 彰人には、貸金庫を借りていることを話した記憶がない。「……たぶん、知らない」 だからこそ。 もし生前の自分が、彰人に見つかってはいけないものを隠そうとしたなら。 貸金庫は最適な場所だった。 ホテルの明細。 探偵から受け取った資料。 それ以外にも、何か入れているかもしれない。 問題は。「開けられないんだけどね……」 今の自分は雨宮凛だ。 榊原千紘名義の貸金庫へ行って、『私のものなので開けてください』 などと言えるはずがない。 それに、鍵は彰人の家にある。 もう一度あの家へ入れたとしても、勝手に持ち出すわけにはいかない。「場所が分かっただけでもいいか」 千紘は小さく息を吐いた。 今すぐすべてを解決する必要はない
電話を切ったあとも、千紘はしばらく公衆電話の前から動けなかった。 探偵。 生前の自分は、彰人の浮気を疑って探偵に調査を依頼していた。 四月二十七日。 六月十一日。 その二日間の調査記録が、今も残っている。「見たい……」 彰人と芹奈が、いつから関係を持っていたのか。 どこで会っていたのか。 何をしていたのか。 写真まであるという。 けれど、探偵はそれを見せてくれない。 当然だった。 今の千紘は、依頼人とは何の関係もない雨宮凛なのだから。「どうしたらいいの……」 もう一度電話して、会ってほしいと頼む? でも、会って何を話す?『私が榊原千紘です』 そんなことを言えば、頭がおかしいと思われるだけだ。 千紘は駅へ向かって歩き始めた。 帰宅してから、律に送ったノートの写真をもう一度確認する。 四月二十七日。 六月十一日。 探偵に依頼したという記述はない。「隠してたんだ……」 彰人に見つかることを恐れて、ノートにさえ書かなかったのだろうか。 だから電話番号だけを別の紙に書き、陶器の鳥の中へ隠した。 少しずつ、生前の自分が何を考えていたのかが見えてきた。 けれど。「調査をやめるメール……」 それだけが分からない。 自分で送ったのか。 誰かが勝手に送ったのか。 もし彰人が探偵の存在に気づいていたなら――。「それが、殺された理由?」 口にした瞬間、背筋が寒くなった。 保険金だけではなかった? 浮気を調べていることを知られた。 何か、もっとまずいものまで見つけてしまった。







