LOGINその言葉に、梓は完全に固まった。また気まずい空気になるのではないかと思ったとき、佑紀は腕時計に目を落とした。「とりあえず、風邪をひかないように、着替えてください。私はまだ診察があるので、先に失礼します」ドアへ向かった彼は、ふいに足を止めた。振り返って彼女を見つめ、有無を言わせぬ口調で告げる。「あなたに話があります。私が戻るまで、ここを離れないでください」ドアが閉まった。梓は顔を覆い、逃げるように浴室へ駆け込んだ。「やばいやばいやばい......!」ドアの外で、佑紀はすぐには立ち去らなかった。その場に立ち、室内から聞こえる物音に耳を傾ける。口元には、ほとんどわからないほど小さな笑みが浮かんでいた。――結婚しているとは思えないほど、うぶな女だ。部屋の中では、梓が再び浴室から出てきた。今度はきちんと下着もつけ、服装を整えていた。楽だからといって、もう下着をつけずにいる勇気はなかった。ソファに座り、しばらく気持ちを落ち着かせていると、ようやく顔のほてりが少し引いた。そのとき、千夏から電話がかかってきた。「千夏?」「このバカ!北上辰樹の隠し子の誕生日パーティーであんなふうに辱められたのに、どうして何も言ってくれなかったの!?」千夏の声には、焦りと怒りが入り混じっていた。辰樹が徹底して情報を封じていたため、業界の友人がひそかに教えてくれなければ、千夏は何も知らないままだった。梓は困ったように口元をゆるめた。「安心して。私だって、黙ってやられてばかりじゃないよ。あの人たちの思いどおりにはさせてないから」「だめ!大きなお腹であちこち動き回ってると思うと、やっぱり心配だよ。今どこにいるの?すぐに行くから」話している間に、電話の向こうからエンジンをかける音がした。梓は仕方なく、正直に答えた。「妊婦健診をしてくれた、産婦人科の先生の家にいるの」「え?」千夏は呆気に取られた。「それ、どこの病院?先生の自宅で面倒まで見てくれるの?まさか、臓器を勝手に取って売り飛ばすような怪しいクリニックじゃないでしょうね?やっぱり実際に見ないと安心できないわ。早く住所を送って!」梓が答える間もなく、千夏は電話を切った。梓は何も言えず、額に手を当てた。佑紀が戻ったら、自分もここを出るつもりだ
梓は潔癖なところがあり、2日前までベッドから起き上がれなかった間も、毎日、体を拭いていた。家の主が留守だからといって、黙って帰るのも失礼だろう。そう思い、部屋へ戻ってシャワーを浴びた。部屋には他に誰もいなかったので、下着はつけず、パジャマだけを着て浴室を出た。妊娠後期に入ってから、梓はたびたび胸の張りや痛みに悩まされていて、ブラジャーも慎重に選ぶ必要があった。今回は突然のことだったため、看護師が着替えを持ってきてくれたものの、どうにも着心地が悪かった。それでも、これ以上人に手間をかけたくなくて、ずっと我慢していた。締めつけから解放されると、心も体もすっかり楽になった。髪を拭きながら浴室から出る。その動きに合わせて、豊かな胸が揺れ、ひどく目を引いた。ふと、熱を帯びた視線を感じた。顔を上げると、佑紀の深い瞳と目が合った。「ふ、舟ヶ崎先生......?!」梓は一瞬で耳まで真っ赤になった。反射的に浴室へ戻ろうとしたが、慌てすぎて足を滑らせ、後ろへ倒れかけた。次の瞬間、腰をぐっと引き寄せられ、温かな胸元へ飛び込む形になった。柔らかな胸が彼の体に押しつけられ、恥ずかしくなるほど形を変えた。「どうして逃げるんです?」頭上から、佑紀の低く響く声がした。梓は顔が燃えそうだった。彼の胸に額を押しつけたまま、とても顔を上げられない。「逃げたわけじゃなくて、ただ......失礼な格好だと思って......」「何が?」「私......下着をつけていなくて......」言った途端、梓は穴があったら入りたくなった。恥ずかしくて、その場で倒れてしまいそうだった。本当は言いたくなかった。だが、ここは彼の家だ。正直に話さなければ、余計な誤解を招くかもしれない。そう考えて、恥を忍んで打ち明けたのだった。一瞬、空気が止まった。もう、この気まずさはどうにもならない。梓がそう思ったとき、佑紀は彼女から手を離した。二人は向かい合って立った。彼はためらいもなく梓の胸元へ視線を落とし、尋ねた。「張りや痛みがありますか?」「はい。ここ数か月、少しは......」「不正出血や気になる症状はありますか?」梓の顔が熱くなった。彼がどこのことを言っているのかは、もちろんわかっていた。唇を噛み、首を振る。「ありま
SNSへの投稿を終えると、突然、千夏からビデオ通話がかかってきた。画面に映った自分の顔はやつれ、酸素吸入のチューブもついたままだった。心配させたくなくて、梓は通話を切った。【ごめん、今電話に出られないの。どうしたの?】【今どこ???今日、病院へお見舞いに行ったら、看護師さんに退院したって言われたんだけど。まさか、またあの最低男の家に戻った......?】梓は不思議に思い、眉をひそめた。杉浦に連れ去られる前、千夏に助けを求めるメッセージを送ったはずではなかったか?もう一度SMSを開き、一番上のメッセージの宛先を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。宛先は......舟ヶ崎先生だった!一気に頭まで熱くなり、青白かった顔にも赤みが差した。佑紀がホテルに現れたのは、まったくの偶然だと思っていた。自分から助けを求めるメッセージを送っていたのなら、舟ヶ崎先生には、とんでもなく大きな恩があることになる。さっき食事に誘ったとき、すぐに返事をしてくれなかったのも当然だ。こんな大きな恩を、たった一度の食事で返そうとしていたなんて。自分は、いったい何を考えていたのだろう。梓はLINEで千夏に無事を知らせたが、今、佑紀の家にいることは言わなかった。――自分の評判は、もう地に落ちている。舟ヶ崎先生まで巻き込むわけにはいかない。もっとも、一昨日のホテルでは、すでに彼の評判まで散々傷つけてしまったようなものだが。「もういいや!」梓は歯を食いしばった。辰樹からお金を取り戻したら、舟ヶ崎先生に迷惑料を多めに渡せばいい。――そう自分を慰めて、ようやく少し気が楽になった。その後、診察や傷の手当てに来るのは看護師ばかりで、佑紀が姿を見せることはなかった。何度か彼のことを尋ねようとしたが、気恥ずかしくて聞けないまま、1週間が過ぎた。梓の体は順調に回復し、ベッドから下りて歩けるようになっていた。ただ、人の家にいるという遠慮もあり、部屋からは一歩も出ていなかった。「伊南様、舟ヶ崎先生からの伝言です。体調がよくなられたようでしたら、いつでもお帰りいただいて構わないと」部屋の医療機器が一つずつ運び出され、最後の一台がなくなったところで、看護師が丁寧に告げた。梓はうなずいた。「あの、この間の費用は、病院でお支払いすれば
向かう邸宅は、佑紀の江川市での住まいだった。黒いマイバッハが、夜の街を静かに走っていた。広々とした車内には、革とシダーウッドが混じった、ほのかに涼やかな香りが漂っている。梓は後部座席に横たえられ、柔らかなクッションに頭を預けていた。体には、まだ佑紀の大きな上着がしっかりと巻かれている。佑紀は隣に座り、彼女の顔を見つめていた。薄暗い車内で、梓は意識を失っている間も眉を固く寄せていた。ひどい苦痛に耐えているようだった。佑紀は、なぜか手を伸ばし、額に張りついた濡れた髪を払おうとした。けれど、指先が冷たい肌に触れる寸前、はっと動きを止めた。――何をしているんだ、自分は。手を引っ込め、いっそう眉をひそめる。自分でも抑えられない感覚に、苛立ちを覚えた。「......憎い......」意識のない梓が、かすかなうわ言を漏らした。不安げに体を動かした拍子に傷が引きつれ、痛みに小さくうめく。目尻から透明な涙が一粒にじみ、青白い頬を伝い落ちた。ますます血の気を失っていく顔を見て、佑紀は前の座席にいるアシスタントへ低い声で告げた。「航河に、産婦人科と外科の検査機器を持って、うちへ来るよう伝えて」「承知しました」車は山の中腹にある高級住宅街へ静かに入り、緑豊かな木々に囲まれた一軒の邸宅の前で止まった。明かりのともる邸宅は、夜の闇に身を潜める、孤高の巨大な獣のようだった。佑紀は再び梓を抱き上げ、大股で邸宅へ向かった。玄関前には、すでに深野航河(ふかの こうが)が待っていた。江川市で最も高い評価を受ける深野国際病院の院長である彼は、機器と、自らの病院の熟練した医師たちを連れてきていた。親友の佑紀が妊婦を横抱きにして戻ってきたのを見て、航河は一瞬、呆気に取られた。だが、すぐに緊張した面持ちになった。「急いで機器を調整しろ!奥さんも赤ちゃんも、必ず助けるんだ!」佑紀は、呆れて言葉を失った。だが、腕の中の女の体温は、どんどん下がっていた。航河の誤解を訂正する暇もなく、すぐに救命処置に取りかかった。梓は、自分がまた生死の境にいるとは知らなかった。今は、記憶の中の夢に沈んでいた。夢の中で、彼女は大学4年の頃へ戻っていた。辰樹と初めて会ったときのことだった。冬休みに帰省する途中、不良たちにつけられた。恐怖
強気に出ても通じないとわかると、栞は態度を変えた。ため息をつき、しおらしく言う。「私たちは実の姉妹なんです。この子、昔から男関係がだらしなくて。今は結婚しているのに、外で男と遊んで妊娠したんです。お腹の子が誰の子なのかもわからないんですよ」「そんなことを言って、良心が痛まないの?」梓は皮肉を込めて、栞を見た。これが、自分の実の姉なのだ。他人の前で、平然とありもしない男女関係の噂をまき散らしている。栞は冷笑した。「私、何か間違ったことを言った?そのお腹の子は、よその男と寝てできた子でしょう?」梓の顔は、さらに青ざめた。伏せたまぶたが、震え続けていた。そのとき、耳元で男の冷淡な声がした。「私に何の関係があるんですか」栞は目を見開き、驚いて佑紀を見た。「え......でも、気にならないんですか?」この男は、梓の愛人ではないのか?「なぜ私が気にする必要があるんです?」佑紀は眉をひそめた。話の通じない栞に、ひどく苛立っているようだった。その態度を見て、栞は歯を食いしばり、ボディーガードたちに命じた。「梓を取り返して!ここから出しちゃだめ!」佑紀の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。冷たい目に、わずかな揶揄が混じる。「ここまで私を挑発する人は、初めてです」「ふ......舟ヶ崎社長?」そのとき、横から驚いた声が上がった。北上グループの取引先の社長が、用事で手間取り、まだ会場に残っていたのだ。佑紀を見た佐々木社長は、驚きのあまり、言葉がつかえていた。以前、京華市(きょうかし)へ出張した際、大きな会議ホールの前を通りかかり、彼が車から降りる姿を遠目に見たことがあった。そのときの彼は、隙なく整えた礼装のスーツに、公式行事の来賓章をつけていた。威厳のある年配の男性に手を貸し、大勢の人に囲まれながらホールへ入っていった。気になって同行者に尋ねたところ、あの男が京華市の舟ヶ崎家の次男、舟ヶ崎佑紀だと知った。舟ヶ崎家は、京華市の四大名家の一つだった。三代にわたって政財界に深く根を下ろしてきた名門で、蓄えた財産はもちろん、その背後にある力を思えば、誰もが手を出すことをためらう家だった。「佐々木さん、この方をご存じなんですか?」佐々木の声に異変を感じ取り、栞の顔がわずかにこわばった。無理
「どこの誰の子かもわからないくせに、私の娘と孫を傷つけるなんて!誰か、この子に思い知らせてやりなさい!」恵の目は、怒りで火を噴きそうだった。その命令を受け、ボディーガードたちが次々と梓に襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。梓は体を丸め、両手でお腹を守った。全身に激痛が走る中、頭には恵の言葉が浮かんでいた。――どこの誰の子かもわからない、と。実の親が、どうしてそんなことを言うのだろう?辰樹は、青白い顔で無残な姿になった梓を見て、胸にかすかな違和感を覚えた。梓がおとなしく他の男の子を堕ろしていれば、3年間の夫婦の情に免じて、妻の座は与えられなくても、愛人として面倒を見ることくらいはできたかもしれない。だが、自分の娘に手を出したのだ。身から出たさびだろう。辰樹は唇を引き結んだ。「梓、今ここでひざまずいて愛梨に謝れば、今日は許してやる」「謝らなかったら?北上社長は、私を殺すの?」梓の口元からは、血がにじんでいた。それでも、彼を見上げる目には皮肉と、決して屈しない意志が宿っている。その目を見て、辰樹は一瞬、言葉を失った。梓は従順で、よく尽くす妻だとばかり思っていた。彼女の中に、こんな骨まで凍りつくような憎しみと、すべてを賭ける覚悟があるとは、考えたこともなかった。その視線は毒を塗った針のように胸を刺し、なぜか息が詰まった。「殺す?」辰樹は怒りのあまり、笑みを浮かべた。目には冷たい光が宿っていた。「それで俺を脅せると思ってるのか?甘い。お前をどうにかする方法なら、いくらでも――」「パパ、愛梨、痛いよ~」腕の中の愛梨が、突然、不安そうに身をよじった。辰樹の首にしがみつき、小さな顔を真っ赤にして泣いている。いつの間にか、栞が愛梨の背中に手を添えていた。焦りをにじませて言う。「愛梨、大丈夫?」「痛いのか?パパが病院に連れていってやるよ」辰樹は、はっと我に返った。もう梓に構う余裕もなく、愛梨を抱いて大股で会場を出ていった。これほどの騒ぎになっては、誕生日パーティーを続けることなどできなかった。両親は、招待客を一人ずつ見送るしかない。梓のそばを通ったとき、恵はまだ怒りが収まらない様子で、彼女を一度蹴った。「この疫病神が!あとで覚えてなさい!」梓は壊れた人形のように、生気なく