INICIAR SESIÓN妊娠7か月目の健診で夫の署名が必要になった伊南梓(いなみ あずさ)は、そのとき初めて知った。 ――夫には、ずっと別の家庭を持っていた。その家で妻として暮らしていたのは、実の姉・伊南栞(いなみ しおり)。姪だと思っていた子は、夫・北上辰樹(きたかみ たつき)の隠し子だった。 それどころか、梓のお腹の子さえも、辰樹が栞への愛を証明するために別の男を仕向けて身ごもらせたものだった。 心の離れた夫、姉ばかりをひいきする両親、嫁いじめを続ける義父母......すべてを知った瞬間、梓の心は完全に冷え切った。 ――あの最低な二人が、自分をだまして他の男の子を身ごもらせたというのなら、産んでやる。辰樹には、妻が他の男の子を産む屈辱を味わわせてやればいい。 無一文で追い出そうなんて、冗談じゃない。3年間も虐げられてきたのだ。自分が受け取るべきお金は、一銭たりとも渡さない! 自分を苦しめ、すり減らす家族や夫から離れ、梓は仕事に全力を注ぐようになった。誰も愛してくれないのなら、自分で自分を愛せばいい。 離婚後、まばゆいほどに輝き始めた彼女を見て、最低な元夫はようやく後悔した。 「梓、もう一度俺と結婚してくれるなら、子どもが俺の子じゃなくても構わないから......」 舟ヶ崎佑紀(ふながさき ゆうき)は言った。 「悪いが、その子も彼女も、俺のものだ」
Ver másその言葉に、梓は完全に固まった。また気まずい空気になるのではないかと思ったとき、佑紀は腕時計に目を落とした。「とりあえず、風邪をひかないように、着替えてください。私はまだ診察があるので、先に失礼します」ドアへ向かった彼は、ふいに足を止めた。振り返って彼女を見つめ、有無を言わせぬ口調で告げる。「あなたに話があります。私が戻るまで、ここを離れないでください」ドアが閉まった。梓は顔を覆い、逃げるように浴室へ駆け込んだ。「やばいやばいやばい......!」ドアの外で、佑紀はすぐには立ち去らなかった。その場に立ち、室内から聞こえる物音に耳を傾ける。口元には、ほとんどわからないほど小さな笑みが浮かんでいた。――結婚しているとは思えないほど、うぶな女だ。部屋の中では、梓が再び浴室から出てきた。今度はきちんと下着もつけ、服装を整えていた。楽だからといって、もう下着をつけずにいる勇気はなかった。ソファに座り、しばらく気持ちを落ち着かせていると、ようやく顔のほてりが少し引いた。そのとき、千夏から電話がかかってきた。「千夏?」「このバカ!北上辰樹の隠し子の誕生日パーティーであんなふうに辱められたのに、どうして何も言ってくれなかったの!?」千夏の声には、焦りと怒りが入り混じっていた。辰樹が徹底して情報を封じていたため、業界の友人がひそかに教えてくれなければ、千夏は何も知らないままだった。梓は困ったように口元をゆるめた。「安心して。私だって、黙ってやられてばかりじゃないよ。あの人たちの思いどおりにはさせてないから」「だめ!大きなお腹であちこち動き回ってると思うと、やっぱり心配だよ。今どこにいるの?すぐに行くから」話している間に、電話の向こうからエンジンをかける音がした。梓は仕方なく、正直に答えた。「妊婦健診をしてくれた、産婦人科の先生の家にいるの」「え?」千夏は呆気に取られた。「それ、どこの病院?先生の自宅で面倒まで見てくれるの?まさか、臓器を勝手に取って売り飛ばすような怪しいクリニックじゃないでしょうね?やっぱり実際に見ないと安心できないわ。早く住所を送って!」梓が答える間もなく、千夏は電話を切った。梓は何も言えず、額に手を当てた。佑紀が戻ったら、自分もここを出るつもりだ
梓は潔癖なところがあり、2日前までベッドから起き上がれなかった間も、毎日、体を拭いていた。家の主が留守だからといって、黙って帰るのも失礼だろう。そう思い、部屋へ戻ってシャワーを浴びた。部屋には他に誰もいなかったので、下着はつけず、パジャマだけを着て浴室を出た。妊娠後期に入ってから、梓はたびたび胸の張りや痛みに悩まされていて、ブラジャーも慎重に選ぶ必要があった。今回は突然のことだったため、看護師が着替えを持ってきてくれたものの、どうにも着心地が悪かった。それでも、これ以上人に手間をかけたくなくて、ずっと我慢していた。締めつけから解放されると、心も体もすっかり楽になった。髪を拭きながら浴室から出る。その動きに合わせて、豊かな胸が揺れ、ひどく目を引いた。ふと、熱を帯びた視線を感じた。顔を上げると、佑紀の深い瞳と目が合った。「ふ、舟ヶ崎先生......?!」梓は一瞬で耳まで真っ赤になった。反射的に浴室へ戻ろうとしたが、慌てすぎて足を滑らせ、後ろへ倒れかけた。次の瞬間、腰をぐっと引き寄せられ、温かな胸元へ飛び込む形になった。柔らかな胸が彼の体に押しつけられ、恥ずかしくなるほど形を変えた。「どうして逃げるんです?」頭上から、佑紀の低く響く声がした。梓は顔が燃えそうだった。彼の胸に額を押しつけたまま、とても顔を上げられない。「逃げたわけじゃなくて、ただ......失礼な格好だと思って......」「何が?」「私......下着をつけていなくて......」言った途端、梓は穴があったら入りたくなった。恥ずかしくて、その場で倒れてしまいそうだった。本当は言いたくなかった。だが、ここは彼の家だ。正直に話さなければ、余計な誤解を招くかもしれない。そう考えて、恥を忍んで打ち明けたのだった。一瞬、空気が止まった。もう、この気まずさはどうにもならない。梓がそう思ったとき、佑紀は彼女から手を離した。二人は向かい合って立った。彼はためらいもなく梓の胸元へ視線を落とし、尋ねた。「張りや痛みがありますか?」「はい。ここ数か月、少しは......」「不正出血や気になる症状はありますか?」梓の顔が熱くなった。彼がどこのことを言っているのかは、もちろんわかっていた。唇を噛み、首を振る。「ありま
SNSへの投稿を終えると、突然、千夏からビデオ通話がかかってきた。画面に映った自分の顔はやつれ、酸素吸入のチューブもついたままだった。心配させたくなくて、梓は通話を切った。【ごめん、今電話に出られないの。どうしたの?】【今どこ???今日、病院へお見舞いに行ったら、看護師さんに退院したって言われたんだけど。まさか、またあの最低男の家に戻った......?】梓は不思議に思い、眉をひそめた。杉浦に連れ去られる前、千夏に助けを求めるメッセージを送ったはずではなかったか?もう一度SMSを開き、一番上のメッセージの宛先を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。宛先は......舟ヶ崎先生だった!一気に頭まで熱くなり、青白かった顔にも赤みが差した。佑紀がホテルに現れたのは、まったくの偶然だと思っていた。自分から助けを求めるメッセージを送っていたのなら、舟ヶ崎先生には、とんでもなく大きな恩があることになる。さっき食事に誘ったとき、すぐに返事をしてくれなかったのも当然だ。こんな大きな恩を、たった一度の食事で返そうとしていたなんて。自分は、いったい何を考えていたのだろう。梓はLINEで千夏に無事を知らせたが、今、佑紀の家にいることは言わなかった。――自分の評判は、もう地に落ちている。舟ヶ崎先生まで巻き込むわけにはいかない。もっとも、一昨日のホテルでは、すでに彼の評判まで散々傷つけてしまったようなものだが。「もういいや!」梓は歯を食いしばった。辰樹からお金を取り戻したら、舟ヶ崎先生に迷惑料を多めに渡せばいい。――そう自分を慰めて、ようやく少し気が楽になった。その後、診察や傷の手当てに来るのは看護師ばかりで、佑紀が姿を見せることはなかった。何度か彼のことを尋ねようとしたが、気恥ずかしくて聞けないまま、1週間が過ぎた。梓の体は順調に回復し、ベッドから下りて歩けるようになっていた。ただ、人の家にいるという遠慮もあり、部屋からは一歩も出ていなかった。「伊南様、舟ヶ崎先生からの伝言です。体調がよくなられたようでしたら、いつでもお帰りいただいて構わないと」部屋の医療機器が一つずつ運び出され、最後の一台がなくなったところで、看護師が丁寧に告げた。梓はうなずいた。「あの、この間の費用は、病院でお支払いすれば
向かう邸宅は、佑紀の江川市での住まいだった。黒いマイバッハが、夜の街を静かに走っていた。広々とした車内には、革とシダーウッドが混じった、ほのかに涼やかな香りが漂っている。梓は後部座席に横たえられ、柔らかなクッションに頭を預けていた。体には、まだ佑紀の大きな上着がしっかりと巻かれている。佑紀は隣に座り、彼女の顔を見つめていた。薄暗い車内で、梓は意識を失っている間も眉を固く寄せていた。ひどい苦痛に耐えているようだった。佑紀は、なぜか手を伸ばし、額に張りついた濡れた髪を払おうとした。けれど、指先が冷たい肌に触れる寸前、はっと動きを止めた。――何をしているんだ、自分は。手を引っ込め、いっそう眉をひそめる。自分でも抑えられない感覚に、苛立ちを覚えた。「......憎い......」意識のない梓が、かすかなうわ言を漏らした。不安げに体を動かした拍子に傷が引きつれ、痛みに小さくうめく。目尻から透明な涙が一粒にじみ、青白い頬を伝い落ちた。ますます血の気を失っていく顔を見て、佑紀は前の座席にいるアシスタントへ低い声で告げた。「航河に、産婦人科と外科の検査機器を持って、うちへ来るよう伝えて」「承知しました」車は山の中腹にある高級住宅街へ静かに入り、緑豊かな木々に囲まれた一軒の邸宅の前で止まった。明かりのともる邸宅は、夜の闇に身を潜める、孤高の巨大な獣のようだった。佑紀は再び梓を抱き上げ、大股で邸宅へ向かった。玄関前には、すでに深野航河(ふかの こうが)が待っていた。江川市で最も高い評価を受ける深野国際病院の院長である彼は、機器と、自らの病院の熟練した医師たちを連れてきていた。親友の佑紀が妊婦を横抱きにして戻ってきたのを見て、航河は一瞬、呆気に取られた。だが、すぐに緊張した面持ちになった。「急いで機器を調整しろ!奥さんも赤ちゃんも、必ず助けるんだ!」佑紀は、呆れて言葉を失った。だが、腕の中の女の体温は、どんどん下がっていた。航河の誤解を訂正する暇もなく、すぐに救命処置に取りかかった。梓は、自分がまた生死の境にいるとは知らなかった。今は、記憶の中の夢に沈んでいた。夢の中で、彼女は大学4年の頃へ戻っていた。辰樹と初めて会ったときのことだった。冬休みに帰省する途中、不良たちにつけられた。恐怖