Partager

5.夫婦だったはずなのに

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-10-17 13:33:50

「経営方針の会議には、もう出なくていい」

隆哉の言葉を聞いても、綾乃はすぐには立ち上がれなかった。

「では、現場から改善の提案があるときは、どうすればいいのでしょうか」

「各部署の責任者から報告を上げてもらえばいい。必要なものは俺が判断する」

「これまでは、部署をまたぐ問題を私が整理してから、お話ししていましたよね」

「それが悪いと言っているわけじゃない。ただ、今後はもっと早く決めたいんだ」

隆哉はもう一度パソコンに目を向けた。話は終わりだという態度に見えたが、綾乃には確かめておきたいことがあった。

「お仕事の話とは別に、今夜、少し時間をいただけますか」

隆哉が顔を上げる。

「まだ何かあるのか」

「夫婦として、お話ししたいんです」

その言葉に隆哉は意外そうな表情を浮かべたが、やがて小さく頷いた。

「夕食の片づけが終わった頃なら、時間を取れると思う」

「ありがとうございます」

綾乃は一礼して社長室を出た。閉じた扉の向こうからキーボードを打つ音が聞こえ、廊下へ踏み出したところで足を止める。

夫に話す時間を頼むのに、取引先との面談をお願いするような言葉になってしまった。

神崎楼では、朝から晩まで多くの人が働いている。互いの仕事を尊重するのは当然のことだ。それでも、同じ屋根の下で働く夫婦が、こんなふうに時間を取り決めなければ話せなくなったのは、いつからだろう。

夜、従業員への引き継ぎを済ませた綾乃が社長室を訪れると、隆哉は約束どおり机の資料を片づけていた。

「昼間の続きなら、考えは変わらないぞ」

「今日は、会議のことをお願いしに来たのではありません」

綾乃は向かいの椅子に腰を下ろした。

「隆哉さんと私が、これからどうやって一緒にやっていくのか、お話ししたいんです」

隆哉は少し困ったように笑った。

「大げさだな。仕事の進め方を変えようとしているだけだろう」

「私には、そうは思えなくて。女将を降りるよう言われて、経営の話し合いからも外れることになりました。何を期待されているのか、よくわからないんです」

「神崎楼のことを考えて、今までどおり現場を支えてくれればいい」

「でも、現場で問題が起きても、私の意見はもう聞いていただけないんでしょうか」

「またその話か」

隆哉はため息をついた。

「お前は俺の方針を理解しようとしない。新しいことを始めようとすると、決まって人手や費用の話になる。経営を任されている俺の立場も少しは考えてほしい」

「考えているつもりです。費用のことをお伝えするのも、神崎楼を続けていくためで……」

「そうやって、結局は自分の考えが正しいと言うんだな」

綾乃は言いかけた言葉を飲み込んだ。ここで言い返せば、また同じところに戻ってしまう。

「意見が違うときこそ、話し合いたいんです」

「話し合ってきただろう。それでも変わらないから、俺が決めた」

隆哉は責め立てるような口調ではなかった。その落ち着きがかえって、二人の間に引かれた線をくっきりさせる。

綾乃は二十九歳、隆哉は三十四歳。二〇二一年に結婚して五年が過ぎた。仕事のことも暮らしのことも、意見が食い違う日はあった。それでも、相手の考えを聞く時間までは失わないと思っていた。

「……私たち、最近は仕事の話しかしていませんね」

「忙しい時期だから仕方ないだろう」

「ええ。でも、仕事の話をすると、いつも途中で終わってしまいます」

隆哉は腕時計を見た。

「綾乃、今日はもう遅い。俺も明日の準備がある」

引き止める言葉は見つからなかった。

「わかりました。お時間を取ってくださって、ありがとうございました」

立ち上がる綾乃に、隆哉は「ああ」とだけ答えた。

その返事を背中で聞きながら、綾乃は夫婦として話すつもりだったことを、ほとんど何も伝えられなかったと気づいた。

翌日の夕方、綾乃はフロントに届ける書類を抱え、別館へ続く廊下を歩いていた。

中庭に面したガラス窓の向こうでは、色づき始めた楓が風に揺れている。宿泊客を迎える時間がひと段落し、館内には食事の支度をする気配が広がっていた。

そのとき、廊下の先から笑い声が聞こえた。

聞き慣れた隆哉の声だった。

曲がり角の向こう、普段は打ち合わせに使う小さな応接スペースに、隆哉と藤崎莉央がいた。テーブルにはノートパソコンが開かれ、何かの写真を並べて見ている。

「この写真、社長の表情が少し硬いですね」

莉央が笑いながら画面を指す。

「そうか?普通だと思うけどな」

「もっと自然に笑ってください。いつもの方がずっと感じがいいですよ」

「注文が多いな」

そう言って笑った隆哉の顔を見て、綾乃は足を止めた。

最近、自分と話しているときには見なかった、肩の力が抜けた笑い方だった。

莉央は身を乗り出して別の写真を見せ、隆哉の袖に軽く手を触れた。隆哉は気にする様子もなく、彼女の説明に耳を傾けている。

打ち合わせをしているだけだ。

そう思えば、何も不自然ではなかった。広報を担当する莉央が社長の写真を選び、表情について意見を述べるのも仕事のうちだろう。

けれど、二人の間には、綾乃が入っていくのをためらうような親しさがあった。

「次は、もう少し明るい場所で撮りましょう」

「そのへんは任せるよ」

莉央が楽しそうに笑い、隆哉もつられて笑った。

綾乃は気づかれないうちに視線を外し、フロントへ向かった。手にした書類の角が、指先に当たっている。

夫がほかの人と楽しそうに仕事をしている。ただそれだけのことに、心が乱れる自分が情けなかった。莉央が広報の仕事に熱心なのは知っているし、隆哉がその能力を高く評価することにも理由がある。

それでも、昨夜の「俺の方針を理解しようとしない」という声と、先ほどの笑い声が重なって離れなかった。

疑いたくはない。

長く一緒に働いてきた相手だからこそ、仕事上の信頼が深まることもあるはずだ。あの短い光景だけで二人の関係を決めつけることはできない。

フロントに書類を渡した綾乃は、記入漏れがないか確認し、いつもの調子で担当者に声をかけた。

けれど事務室へ戻る途中、先ほどの応接スペースの前で、もう一度足が止まった。

中はすでに空になっていた。

綾乃は廊下の奥を見つめた。確かめることをためらっている限り、この違和感は消えないのかもしれない。

隆哉と藤崎さんは、いったいどんな関係なのだろう。

思い込みで誰かを責めることだけはしたくない。だからこそ綾乃は、二人の関係を自分で確かめようと決めた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Commentaires (2)
goodnovel comment avatar
中岡 始
さっそく読んでいただきありがとうございます!! まだまだハラハラする展開は続きますよーーー! 乞うご期待!!
goodnovel comment avatar
雨音休
読みやすくてはらはらするー!
VOIR TOUS LES COMMENTAIRES

Dernier chapitre

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   12.居場所のない女将

    綾乃は、前日に渡された新しい宿泊プランの案内資料を机に広げた。季節の料理を一品加え、チェックアウトの時間を延長する。企画の狙いはよくわかるし、広告に使う写真も魅力的だった。ただ、接客担当や清掃担当に確認したはずの項目には、まだ空欄が残っている。「こちらの提供条件は、もう決まっているんでしょうか」予約係に尋ねると、相手は予定表を見せてくれた。「昨日、社長と藤崎さん、それから予約部門の責任者で打ち合わせをしたそうです。今日中に案内の準備を進めるよう言われています」「厨房と接客の担当者も出席したんですか」「いえ、そこまでは聞いていません。決まった内容を各部署へ伝える、ということでした」綾乃は資料の端を押さえた。経営方針の会議から外れることは、隆哉に告げられていた。しかし、料理の提供方法や人員配置まで、現場の意見を聞かずに決めるとは思っていなかった。「ありがとうございます。まず、どこまでが決定事項か確認しますね」予約係を困らせないように、綾乃は声の調子を変えなかった。相手も伝えられた指示に従っているだけだ。厨房の責任者に電話をすると、追加する料理の候補は相談されているものの、提供する組数や時間帯はまだ聞いていないという。「献立が決まれば仕込みの段取りは考えられます。でも、同じ時間に何組も重なるなら話は別ですね」「わかりました。確認できるまで、新しい料理についてお約束する案内は控えてもらうよう伝えます」次に清掃部門へ聞くと、チェックアウト延長の対象客室が決まらなければ、翌日の作業順を組めないとの返事だった。綾乃は資料に書き込みを加えた。今までなら関係者を集め、条件をそろえてから予約係へ伝えていた。今回は、綾乃が知らないところで検討が進んでいる。問い合わせるべき相手を確かめようと社長室に内線を入れると、隆哉は短く答えた。「企画の方向性は俺と藤崎さんで決めた。細かい運用は各部署で調整してくれ」「では、特典の対象となる部屋数や、販売条件については、どなたの判断を仰げばよろしいでしょうか」「変更

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   11.いつから、すれ違ったのか

    窓の外の楓は、昨日より少し赤みを増したように見えた。綾乃は予約一覧を閉じ、机に置かれた業務連絡の束を整えた。神崎楼で働き始めた頃、あれほど頼もしかった隆哉が、いつから自分の意見に耳を貸さなくなったのか。答えを探そうとすると、思い浮かぶのは、神崎家にとって大きな転機となった年だった。二〇二二年、隆哉の父、雅之が病気で亡くなった。雅之は、表に立って宿泊客をもてなすことこそ少なかったが、神崎楼の経営を長く支えていた。資金繰りを見通し、取引先との条件を詰め、設備の更新にどこまで費用をかけられるかを判断する。綾乃が入社した頃も、経営に関わる書類には必ず雅之の確認が入っていた。葬儀を終えたあとも、旅館の営業は続いた。客は予定どおり到着し、仕入先からは納品の連絡が入る。雅之を失った悲しみと、仕事を止められない現実が同時に押し寄せた。「父さんが決めていたことが、思ったより多いんだ」ある晩、隆哉は自宅で書類を広げ、額に手を当てた。「支払いの予定は追える。でも、取引先との話がどこまで進んでいたか、確認しないといけないものがある」「私にできることはありますか」「現場の状況を教えてほしい。数字だけ見ていると、削っていい費用と、そうじゃない費用の区別がつかなくなる」綾乃は頷き、客室で交換を急ぐ備品や、調理場から上がっていた要望を伝えた。すべてが採用されたわけではない。後回しにできるものもあれば、安全やサービスに関わるため、優先しなければならないものもあった。「それは先に手を打とう。ありがとう、綾乃」隆哉は何度もそう言った。慣れない責任を背負い、時には夜遅くまで資料を見ていた夫を、綾乃は支えたいと思った。自分に経営のすべてがわかるわけではない。それでも、現場で見たことを伝えれば、判断の助けにはなれる。やがて隆哉は、取引先との交渉や新しい営業施策を、自分の判断で進めるようになった。費用を見直し、宿泊プランを組み替えた結果、手応えを得られることも増えていった。「今回は俺の判断で進めてよかった」そう笑う隆哉を見て、綾乃もうれしくなった。夫が父

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   10.二人で見た夢

    翌朝、綾乃はフロントの事務室で、前日の引き継ぎ記録を確認していた。色づき始めた楓に朝日が差し込んでいる。昨夜ほとんど眠れなかった綾乃には、その光が眩しかった。「女将さん、こちらの変更、厨房にも伝わっています」予約係が差し出した用紙には、夕食の時間を変更した宿泊客の部屋番号と、各担当者の確認印が並んでいた。「ありがとうございます。では、食事会場にも予定どおりご案内してください」用紙を受け取り、綾乃は右端の小さな確認欄を見つめた。誰が連絡を受け、どこまで伝えたのか。小さな欄があるだけで、伝達の行き違いを減らせる。今では当たり前の書式も、最初からあったわけではない。二〇一九年四月、神崎楼に入社したばかりの自分は、そんなことさえ知らなかった。大学で経営学を学び、旅館の仕事に関心を抱いて入社した。当時の綾乃は、経営には数字を読む力が大切だと考えていた。だが、宿泊客を迎える一日がどれほど多くの手で支えられているかは、現場に立って初めて知った。最初は客室の準備一つにも時間がかかった。備品の位置を覚え、清掃の確認を教わり、次はフロントで予約内容の見方を学ぶ。食事の開始時間が変われば、予約係が記録するだけでは済まない。厨房が仕込みを調整し、接客係が会場の準備を変える必要があった。ある日、綾乃は宿泊客から受けた夕食時間の変更を、予約表には記したものの、食事会場への連絡が遅れてしまった。幸い、先輩が気づいて間に合ったが、綾乃は申し訳なさで顔を上げられなかった。「すみません。確認したつもりでした」「予約表に書くのも大事だけど、それを見ない部署もあるからね」責める口調ではなく教えられた言葉が、かえって胸に残った。その日の業務が落ち着いてから、綾乃は引き継ぎ用紙を広げていた。どうすれば伝達漏れを防げるのか、思いつくまま余白に書き込んでいると、後ろから声がした。「安西さん、まだ仕事をしていたのか」振り返ると、神崎家の後継者として働いていた隆哉が立っていた。「はい。今日、私の確認が足りなくて……同じ間違いをしない方法を考えていました」隆哉は用紙に目を落とした。「連絡先を増やすのか?」「いえ、増やすだけでは、かえって煩雑になるかもしれません。変更を受けた人が、関係する部署に伝えたかどうか、確認できる欄があればと思ったんです。でも、実際に使いやすいかはわかり

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   9.もう戻れない

    「夫婦としての関係を終わらせたい」隆哉の言葉が、綾乃の耳に残っていた。さっきまで食事をしていたテーブルには、夫が置いた仕事のファイルがある。綾乃はその表紙を見つめたまま、何度か息を整えた。「……それは、離婚したいということですか」「ああ」隆哉は言い直すことも、言葉を濁すこともしなかった。「俺の気持ちは、もう決まっている」綾乃は目を伏せた。先ほど不倫を認めたときの沈黙とは違う。今の隆哉は、自分が何を望んでいるのか、はっきりわかっているようだった。「藤崎さんと、一緒になりたいんですか」「すぐに何もかも決められるわけじゃない。けど、綾乃との結婚を終えて、莉央と新しい関係を築いていきたいと思っている」聞きたくて尋ねたはずなのに、返ってきた答えは胸の奥に重く沈んだ。「……そうですか」それ以上の言葉が出ない。隆哉は綾乃の沈黙を、話を続けてもよいという意味に受け取ったらしい。「神崎楼も、これから変えていく。莉央が進めている広告は成果が出ているし、新しいプランにも手応えがある。もっと若い客に来てもらえる宿にしたいんだ」「はい」「女将にも、今までとは違う役割を担ってほしい。莉央なら、企画と発信を一つにつなげられる」綾乃は顔を上げた。「だから、私に女将を降りてほしかったんですね」隆哉はすぐには答えず、指先でファイルを引き寄せた。「仕事のことは、仕事のことだ。神崎楼のために必要だと判断した」「では、離婚のお話とは関係がないと?」「まったく関係がないとは言わない。でも、どちらも中途半端にはできないだろう」綾乃には、その言葉がかえって明瞭に聞こえた。自分との結婚を終え、莉央と新しい生活を考える。そして、神崎楼の女将の座にも彼女を据える。隆哉の中では、その二つが同じ未来へ向かう決断になっていたのだ。「私が担当してきた仕事は、どうなるんでしょうか」問いは口をついて出た。「そこは順に引き継げばいい。各部署には責任者がいるし、莉央も覚えていくだろう」「予約の調整や、お客様からのご相談は、広報だけでは対応できません」「わかっている。今すぐ全部できるとは思っていないよ。みんなにも協力してもらう。新しい体制が落ち着くまで、多少の混乱はあるかもしれないけど」隆哉は、解決できる問題だという口ぶりだった。本当にそうだろうか。女将の仕事を覚えるには、厨

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   8.裏切りの告白

    「藤崎さんとは、男女としてのお付き合いをしているんですか」隆哉は答えなかった。食卓の上には、先ほど彼が置いたファイルがある。綾乃はその端がわずかにめくれているのを見つめながら、返事を待った。違うと笑ってほしかった。二人で食事をしただけなのに、何を考えているんだと言われたなら、きっと謝ることができた。けれど隆哉は、視線を合わせようとしない。「隆哉さん」名前を呼ぶと、夫はゆっくり顔を上げた。「……そうだ」短い返事だった。「莉央とは、仕事だけの関係じゃない。……付き合っているんだ」綾乃は夫の顔を見た。言葉の意味を確かめるように、隆哉は続けた。「結婚している俺が、彼女と関係を持った」綾乃は口を開いたまま、何も言えなかった。聞こうと決めていたはずなのに、答えが言葉になった途端、その先をどうすればいいのかわからなくなる。壁の時計が、かすかに音を立てている。さっきまで二人で夕食を取っていた部屋は、いつもと変わらない。夫の湯呑みも、綾乃が置いたままの布巾も、そこにある。それなのに、同じ場所にはもう戻れない気がした。神崎楼では、莉央と何度も顔を合わせてきた。予約ページを改善したとき、綾乃も成果を喜んだ。新しい宿泊プランを提案されたときには、厨房や接客担当との調整が必要だと伝えた。莉央は熱心に説明し、綾乃の意見にも耳を傾けていた。あの会議のときも、その前も、二人はすでに特別な関係だったのだろうか。莉央にとって綾乃は、同じ旅館で働く女将であり、隆哉の妻でもある。そこに曖昧なところなどなかったはずだ。互いの立場を知ったうえで笑顔を交わしていたのだと思うと、記憶の一つひとつが急によそよそしくなった。問いかけが胸の内に浮かんでも、声にはならない。莉央が「綾乃さん」と呼ぶ声まで思い出してしまい、綾乃は膝の上で両手を強く握った。彼女の仕事の能力を認めたことに、嘘はない。神崎楼のためになると思ったから、協力したかった。それでも、何も知らずに向き合っていた自分を、二人はどんな気持ちで見ていたのだろう。「綾乃」隆哉が名前を呼んだ。綾乃は答えず、食卓の木目を見つめた。涙が出ると思っていたのに、目の奥が痛むだけで、一滴もこぼれない。「何か、言ってくれないか」夫の声が遠く感じられた。「……少し、待ってください」やっとそれだけ告げると、隆哉は黙った。綾

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   7.仕事上の関係ですか

    「藤崎さんとは、仕事以外でも親しい関係なんですか」綾乃が尋ねると、隆哉は食卓のそばで足を止めた。仕事の資料を取りに戻ってきたところだったのだろう、片手には薄いファイルを持っている。「何だよ、急に」「急に思いついたわけではありません。前から、少し気になっていました」隆哉は椅子を引いて腰を下ろしたが、ファイルは手放さなかった。「藤崎さんは神崎楼にとって大事な人材だ。あの人が広告を見直してくれたおかげで、今までうちを知らなかった客にも来てもらえるようになった。知っているだろう?」「はい。予約の数字にも表れていますし、仕事ぶりは私も評価しています」「だったら、俺が頻繁に打ち合わせをするのは当然じゃないか。新しいプランを出すにも、写真を替えるにも、俺が判断しなきゃ進まないことがある」説明は筋が通っていた。莉央が企画を出し、経営者の隆哉が判断する。綾乃もその仕事の流れを知っているし、二人が顔を合わせる機会が多いこと自体に疑問はない。ただ、今聞きたいのは、そこではなかった。「お仕事で会うことを問題にしているのではないんです」「じゃあ何が問題なんだ」「藤崎さんと、仕事を離れても会っているのかを聞いています」隆哉は一度、口を開きかけた。それから手元のファイルに視線を落とす。「仕事と私生活を、そんなにはっきり分けられるわけじゃない。企画の相談が長引いて、外で話すことだってある」「外で、というのは?」「店に入って話すとか、そういうことだよ。事務室にいるだけが仕事じゃないだろう」綾乃は頷いた。打ち合わせの場所が旅館の外になったというだけなら、夫を疑う理由にはならない。それでも隆哉は、誰とどんな時間を過ごしているのかという問いには答えていない。「二人でお会いになったこともあるんですか」「綾乃、俺は今、神崎楼の新しい客層を開拓しようとしているんだ。広告の反応がいい時期を逃したくない。そんな話までいちいち報告しなきゃいけないのか」「報告を求めているのではありません。ただ、知りたいんです」自分の声が平静なのを、綾乃は不思議に思った。胸の内側では、夫が明るく笑って莉央に向き合っていた姿が消えずにいる。けれど、その印象だけを根拠に責めたくはなかった。隆哉が「仕事だけだ」と言ってくれれば、ほっとできるかもしれない。そう思って待ったが、その言葉は返ってこなかっ

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status