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6.疑いたくなかった

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-10-17 13:34:05

昨夜、応接スペースで見た二人の姿が、綾乃の頭から離れなかった。

翌朝、フロントの事務室で予約一覧を開いていても、ふとした拍子に隆哉の笑顔が浮かぶ。莉央の言葉に応じて笑っていた、あの表情だ。

綾乃は画面から目を離し、机に置いた連絡票を一枚ずつ確かめた。午後の到着予定時刻に変更がある客、食事について相談のある客。まずは目の前の仕事を終わらせなければならない。

「女将さん、来週の打ち合わせの予定、こちらでよろしいでしょうか」

フロント係が差し出した館内の予定表には、広報関連の打ち合わせが幾つか書き込まれていた。隆哉と莉央が出席するものもある。

「はい。会議室はこの時間で押さえてください。ほかの部署にも関係する企画なら、内容が決まったところで知らせていただけるようお願いします」

「承知しました」

係が去ったあと、綾乃は予定表を眺めた。

隆哉が出席する会議の時間は把握しているつもりだったが、最近は予定表を見て初めて知ることも多い。自分が経営方針の会議から外れると決まった以上、それも当然なのかもしれない。けれど、予定を共有し合わなくなったのは、その決定より前からだった。

打ち合わせ自体は珍しくない。広告を出したあとは反応を確認する必要があるし、宿泊プランを変えるなら何度も相談するだろう。莉央の仕事が神崎楼に成果をもたらしていることは、綾乃自身が知っている。

それでも、いつからだろう。隆哉の予定を、妻である自分よりも莉央の方がよく知っているように感じることが増えた。

以前は、夕食の席で「今日はこんな提案があってね」と隆哉から話しかけてくることもあった。綾乃が客室や従業員の様子を伝えると、彼は自分の考えを話し、二人で翌日の段取りを相談した。

最近は、仕事が終わっても隆哉の電話が鳴る。連絡の相手が莉央だとわかることもあった。新しい写真の確認、広告の配信、予約ページの修正。話題はどれも仕事に関係するものだった。

綾乃が声をかけても、「あとにしてくれ」と返ってくる。そのうち綾乃も、急ぎの用件でなければ翌日に回すようになった。

二人で食事をする機会も減っていた。帰る時間が合わない日は珍しくない。秋の繁忙期なのだから、そういうこともある。

一つずつ考えれば、どれにも説明がつく。

だからこそ、綾乃は自分の胸に生まれた疑いを扱いかねていた。仕事のために連絡を取り合う二人を、何の根拠もなく責めたくはない。昨夜の笑顔だけで、夫の誠実さまで否定するのは違うはずだ。

なのに、これまで気に留めなかった小さな出来事が、ひとつながりになって見えてしまう。

「女将さん、こちらのお客様ですが……」

呼ばれて顔を上げると、予約係が確認を待っていた。

「すみません。どちらのお客様でしょうか」

綾乃は椅子を寄せ、画面を一緒に見た。仕事中に別のことを考えてしまった自分を戒めながら、宿泊人数と部屋割りを確かめる。

今、確かなのは、隆哉と莉央が仕事で親しくなったということだけだ。それ以上のことは、まだ何も知らない。

***

その夜、隆哉はいつもより少し早く仕事を切り上げた。

二人で食卓を囲むのは久しぶりだった。綾乃は湯気の立つ茶碗を置き、向かいに座る夫に声をかけた。

「今日は冷えますね。湯坂通りも、だいぶ色づいてきました」

「ああ。今週末は人が増えそうだな」

「明日の到着予定を見ても、紅葉目当てのお客様が多いみたいです」

「そうか。天気がもつといいな」

会話はそこで途切れた。

いつもなら、明日の天気から休日の予定へと話が広がることもあった。綾乃は湯呑みにお茶を注ぎ足し、隆哉の分も満たした。隆哉は「ありがとう」と言ったが、すぐに食事へ視線を戻した。

綾乃は箸を置き、少し迷ってから続けた。

「今度、お休みが合う日に、どこかへ食事に行きませんか。仕事を離れて、ゆっくり話せたらと思って」

隆哉は驚いたように顔を上げた。

「急にどうした?」

「このところ、二人で過ごす時間があまりなかったでしょう」

「今は忙しいからな。落ち着いたら考えよう」

「いつ頃なら、落ち着きそうですか」

「まだわからないよ。新しい企画も動いているし」

そこで隆哉の携帯電話が震えた。

彼は画面を見て、食卓の端に置いたまま短く文字を打った。誰から来た連絡なのか、綾乃には見えなかったし、覗こうとも思わなかった。

「急ぎのお仕事ですか」

「広告の件だよ。確認だけ」

「そうですか」

隆哉は再び箸を取った。

綾乃は味噌汁をひと口飲んだ。温かいはずなのに、味がよくわからなかった。

「隆哉さん。私たち、仕事の話以外もしなくなりましたね」

「そんなことないだろう。今だって話してるじゃないか」

「ええ。でも……」

続く言葉を探した。寂しいと伝えたいのか、心配だと言いたいのか、自分でも整理できていない。

「最近、私が何か話そうとすると、忙しいと言われることが多くて。少し気になっていたんです」

隆哉は箸を止めた。

「この間も言ったけど、今は旅館にとって大事な時期なんだ。お前だって忙しさはわかっているだろう」

「もちろん、わかっています」

「なら、もう少し理解してくれないか」

その言葉で、綾乃はそれ以上何も言えなくなった。

仕事が忙しいことは理解している。だからといって、夫と話したい気持ちまで、間違いになるのだろうか。

食事を終えた隆哉が立ち上がった。

「明日の資料を少し見ておく。先に休んでいてくれ」

「……はい」

部屋を出ていく背中を見送り、綾乃は二人分の食器を下げた。

もし疑いが事実なら、自分は何を失うのだろう。夫との暮らしだけではない。神崎楼での仕事、そこにいる人たちとの日々も、これまでと同じようには続かなくなるかもしれない。

考えるのが怖かった。だからといって、何も聞かずにいれば、明日も同じ食卓で言葉を選び続けることになる。

綾乃は洗い終えた食器を伏せ、手を拭いた。

まだ何も決まったわけではない。まずは、本人の言葉を聞こう。

隆哉が戻ってきたとき、綾乃は席を立たずに待っていた。

「隆哉さん。最後に、一つだけ聞いてもいいですか」

「何だ?」

綾乃は夫の目を見た。

「藤崎さんとは、仕事以外でも親しい関係なんですか」

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