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夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました
夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました
Author: 中岡 始

1.女将を降りろ

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-10-17 13:27:30

十月の榊ノ湯は、日が落ちると急に冷え込む。

神崎楼の玄関先では、庭の楓が色づき始めていた。夕食を終えた宿泊客が浴場へ向かい、賑わっていた廊下にも少しずつ静けさが戻ってくる。

「女将さん、明日の朝食ですが、七時をご希望のお客様が一組増えました」

フロント係から差し出された連絡票に、綾乃は目を通した。

「三〇二号室の方ですね。昨日は八時と伺っていましたけれど、変更されたんですね」

「はい。明日は早めにお出かけになるそうです」

「わかりました。厨房の準備時間を確認してから、お客様にお返事しましょう。朝食会場の担当者にも伝えてください」

綾乃は連絡票をいったん預かり、予約管理画面と翌朝の配膳予定を照らし合わせた。七時台はすでに希望が集中している。調理場に確認すると、開始を十五分ずらせば無理なく対応できるという返事だった。

「お客様には七時十五分でご案内を。もし早い時間でないと難しいようなら、改めてご相談を受けます」

「承知しました」

係が戻ろうとしたところで、綾乃はもう一枚の用紙に気づいた。

「こちらは、明日の清掃の割り振りですね」

「はい。別館の担当者が一人、午前中に通院することになりまして」

綾乃は表を確かめ、連泊客の部屋とチェックアウト予定の部屋を指で追った。

「では、午前中は退室済みのお部屋から進めましょう。急がなくていい部屋は午後に回せます。休憩時間まで詰めないよう、責任者の方と調整してください」

「ありがとうございます。助かります」

フロント係が去ったあと、綾乃は一日の引き継ぎ事項をまとめた。館内の設備不具合は施設担当へ、食事の変更は厨房と接客担当へ。伝えたつもりで終わらせず、誰が受け取ったかまで確かめる。

宿の仕事は、目立つ場面ばかりではない。客に気持ちよく過ごしてもらうためには、その裏側で小さな調整を積み重ねる必要がある。

女将になってから、綾乃はそのことをいっそう強く意識するようになっていた。

時計は午後十時を回っている。最後の記録を保存して席を立とうとしたとき、事務室の電話が鳴った。

「綾乃、まだ残っているか」

夫の隆哉だった。

「はい。今、引き継ぎを終えたところです」

「少し話がある。社長室に来てくれないか」

「わかりました。すぐ伺います」

用件は告げられなかった。綾乃は机の上を片づけ、社長室へ向かった。

社長室の扉を開けると、隆哉は窓際に立ち、温泉街の明かりを眺めていた。机には何枚かの資料が重ねられている。

「お疲れさまです。何か急ぎの確認でしょうか」

「いや、座ってくれ」

綾乃が向かいの椅子に腰を下ろすと、隆哉も席に戻った。昼間、取引先と話すときと変わらない、穏やかな表情だった。

「綾乃。女将を降りてくれ」

綾乃は、すぐには返事ができなかった。

今聞いた言葉を頭の中で繰り返す。女将を降りる。休みを取るという意味でも、仕事の一部を誰かに任せるという意味でもないのだろう。

「……理由を、聞いてもいいですか」

「これからの神崎楼には、新しい経営方針が必要なんだ」

隆哉は机の資料に目を向けた。

「創業から百三十年近くになる。伝統は大切だよ。でも、それだけを守っていれば客が来る時代じゃない。若い世代にも選ばれる宿に変えていかなければ、先がないと思っている」

綾乃は頷いた。それ自体は、以前から二人で話してきた課題でもある。

「私も、変えていく必要はあると思います。予約の入り方も、お客様が求めるものも、昔とは違いますから」

「だったら、わかるだろう」

「いえ。改革が必要なことと、私が女将を退くことは、別の話だと思います」

隆哉の目が、わずかに細くなった。

「お前は今のやり方に慣れすぎているんだ。日々の運営をきちんと回しているのは認める。けど、これから求められるのは、それだけじゃない」

「新しい取り組みに反対しているわけではありません。何を変えるのか決まれば、現場と相談して進めることもできます」

「その進め方自体を、見直したいんだ」

綾乃は膝の上で手を重ね直した。

隆哉は商談でも、結論を急ぐより相手の考えを聞く人だった。今も声を荒らげてはいない。ただ、綾乃が質問するたび、答えは少しずつ遠ざかっていく。

「私の仕事に、何か問題がありましたか。お客様からご指摘があったのなら、確認したいですし、従業員との連携に不足があるなら改善します」

「そういうことじゃない。誰かが悪かったという話をしたいんじゃないんだ」

「では、どうして私であってはならないのでしょう」

隆哉は答える代わりに、指先で資料の端をそろえた。

「俺は社長として、神崎楼の将来を考えなきゃならない。今の規模の宿を維持するだけでも金がかかる。新しい客を呼び込むためには、思い切った判断が必要になる」

「それはわかります。でも、女将が代わることで、何がよくなるのかを教えてください」

「今ここで、一つひとつ説明しなければいけないのか」

責めるほど強い声ではなかった。それでも、綾乃の胸は小さく縮んだ。

同じ旅館で働き、夫婦として暮らしている相手に、仕事を退く理由を尋ねることさえ難しいのだろうか。

「説明してほしいんです。私にも、引き継ぐ責任があります。今日まで担当してきた業務を、明日から急に誰かに任せることはできません」

「明日すぐに全部変えろと言っているわけじゃない」

「それなら、いつ、どのように変えるおつもりですか」

「細かいことは、これから詰めればいい」

綾乃は黙った。客室の不具合や人員の調整なら、確認すべきことを順に整理できる。けれど今は、肝心の理由がわからないまま、結論だけを受け入れるよう求められている。

隆哉の言う改革には賛成できる。神崎楼を続けていくために、新しい発想が必要なことも理解している。それでも、自分が退くべきだというところにだけ、どうしても考えがつながらなかった。

「隆哉さん。私にも考える時間をいただけませんか」

「もちろん、話し合う時間は取るつもりだ」

その返事に、綾乃はわずかに安堵しかけた。

しかし隆哉は、すぐにこう続けた。

「ただ、後任については、もう考えてある」

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