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2.次の女将

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-10-17 13:27:45

「後任は、藤崎さんに任せようと思っている」

隆哉の口からその名が出たとき、綾乃は思わず聞き返した。

「藤崎莉央さん、ですか」

「ああ。広報を担当している彼女なら、これからの神崎楼を変えていける」

社長室の時計は十時半を回ろうとしていた。廊下の向こうから、ときおり夜勤の従業員が行き交う足音が聞こえる。つい先ほどまで、綾乃は明日の朝食時間を調整していた。その同じ夜に、自分の後任の名を聞くことになるとは思わなかった。

「藤崎さんが女将に就くというお話は、ご本人もご存じなんですか」

「まだ正式な話にはしていない。ただ、本人には今後もっと大きな役割を担ってもらいたいと伝えてある」

「そうですか……」

莉央は昨年から神崎楼の広報に関わっている。公式サイトの見直しに始まり、季節の料理や館内の写真を使った発信、宿泊プランの見せ方まで、これまで手の届かなかった仕事を次々と形にしてきた。

実際、新しい広告を始めてから、若い宿泊客の問い合わせが増えた。予約の入り方にも変化が見えている。しかも莉央は、思いつきだけで企画を押し通す人ではない。掲載する写真を選び直し、反応を確かめ、結果が悪ければ表現を変える。その地道さを、綾乃も評価していた。

「彼女は数字で結果を出しているんだ」

隆哉は机の上の資料を一枚取り、綾乃の方へ向けた。予約サイトの閲覧状況や広告の反応がまとめられている。

「このところ、新規の客が増えている。今までと同じやり方で待っているだけじゃ、こうはならなかっただろう」

「はい。藤崎さんの企画が成果につながっていることは、私も感じています」

「それなら、彼女をもっと前に出す意味もわかるだろう。女将が宿の魅力を発信し、企画にも直接関わる。そういう体制にしたいんだ」

綾乃は資料に目を落とした。

写真の選び方も、言葉の使い方も、以前より洗練されている。彼女が取り組んだことを、綾乃は一度も無意味だと思ったことはない。

「新しいお客様に来ていただけるのは、ありがたいことです。広報を強化する方針にも賛成です」

「藤崎さんが外から連れてきてくださったお客様を、また来たいと思えるようにお迎えしたいんです。そのためにも、新しい企画と館内の運営は、一緒に考えていきたいと思います」

「だったら話は早い」

隆哉の表情がわずかに和らいだ。

「ただ……女将を任せるとなると、もう少し考える必要があると思います」

その途端、彼の指が資料の上で止まった。

「なぜだ?」

「広報の仕事と、女将の仕事では、必要な経験が違いますから」

綾乃は言葉を選んだ。莉央の実績を否定したいのではない。むしろ、その能力を発揮できる場所で働いてほしいと思っている。

「藤崎さんは集客の専門家です。どんなお客様に、どんな魅力を伝えるかをよくご存じです。でも、女将はお迎えする前から、お帰りになった後まで、館内の仕事をつなぐ役割も担います」

「それはお前がそう考えているだけじゃないのか」

「たとえば新しい宿泊プランを始めるなら、予約の受け方を変え、厨房と食事会場の準備を合わせなければなりません。特別な要望が重なったとき、どこまでお応えできるかを判断する必要もあります」

「そういうことは各部署の責任者が判断すればいい」

「もちろん、各部署で決められることは任せています。ただ、部署ごとには問題がなくても、旅館全体で見ると調整が必要な場合があります。女将が全部を指図するわけではありませんが、各部署の判断が食い違ったとき、間に入る人は必要です」

綾乃は机上の資料を指さしかけて、手を止めた。広告の成果を示す数字を、別の仕事の価値を否定するために使いたくなかった。

「藤崎さんが女将に向いていないと、決めつけているわけではありません。経験を積めば、できることも増えると思います。でも、後任にするなら、仕事の範囲や引き継ぎを先に整理するべきです」

隆哉は椅子の背にもたれた。

「結局、反対なんだな」

「反対というより、確認をしたいんです」

「同じことだよ。俺が新しい方針を示すたびに、お前は現場の事情を持ち出す。できるかどうか試す前から、難しい話ばかりするじゃないか」

「難しい話ではなくて、必要な準備の話です」

綾乃の声は、自分でも驚くほど静かだった。

隆哉はしばらく何も言わず、窓の外へ目を向けた。温泉街の明かりが、黒いガラスに小さく映っている。

「綾乃。今までの仕事には感謝している。でも、それにとらわれていたら、変わるものも変わらない」

感謝している。

その一言を、どう受け止めればよいのかわからなかった。客室を整えたことも、従業員の相談に応じたことも、何か特別な手柄だと思ってはいない。それでも、そうした仕事があってこそ宿は毎日客を迎えられる。

隆哉は、そのことを知っているはずだった。

「私が今までしてきた仕事は、もう必要ないのでしょうか」

問いかけてから、綾乃は自分の声が少し揺れたことに気づいた。

「必要ないとは言っていない。やり方を変えると言っているんだ」

「でしたら、どの仕事を残して、どの仕事を変えるのか、話し合えませんか」

「それも含めて、新しい体制で考える」

その体制の中に、自分の席はあるのだろうか。綾乃は尋ねかけたが、隆哉が重ねた資料を片づけ始めたのを見て、言葉を飲み込んだ。

隆哉が女将の仕事を軽く見ているとは、これまで思っていなかった。それでも今の説明を聞く限り、彼が求めているのは宿を外へ売り込む役割であり、自分が日々担ってきた仕事は、その後に誰かが処理すればよいものらしい。

「明日、藤崎さんから新しい企画の報告を受ける。お前も同席して、彼女がどういう仕事をしているのか見てほしい」

「……わかりました」

綾乃は立ち上がり、椅子を戻した。

扉に手をかけたとき、背後から隆哉の声がした。

「実際に見れば、俺の言っていることもわかると思う」

綾乃は振り返り、小さく頷いた。

莉央がどれほど優れた仕事をしているのかは、確かめたい。けれど、その実績が自分に女将を降りる理由になるのかどうかは、まだわからなかった。

綾乃は明日の報告を、先入観を持たずに聞こうと決めた。

夫がそこまで高く評価する仕事を、自分の目で確かめたかった。

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