「......ううん、赤ちゃんの声じゃないの」若子は小さく首を振った。「さっきトイレに起きただけ。その時に電気を点けて......あんたがいなくて、どこに行ったんだろうって思ってた。泣いてたの?私、全然気づかなかった」そう言って、何も知らないふりをした。修はそっと彼女の近くに歩み寄る。「うん。赤ちゃん、ちょっと目が覚めてたみたい。でももう大丈夫、また寝かしつけたよ」「そっか......ありがとう。でも、どうして起こしてくれなかったの?」「ぐっすり眠ってたからさ。無理に起こすのも悪いと思って。今は何も心配いらないよ。もう一度寝よう。電気、消すね」そう言って、スイッチに手を伸ばした、その時。「修」若子が突然、彼を呼び止めた。「ん?どうした?」修が不安そうに振り返る。若子は何かを言おうとして―けれど、言葉が出てこなかった。その瞳には、複雑な感情が揺れていた。「......若子?体調悪い?」修は驚いてベッドの縁に腰を下ろし、彼女の額にそっと手を当てた。「熱は......ないみたいだけど。どこか痛むの?何か気になることがあるなら、ちゃんと話してほしい」「......大丈夫」若子は彼の手を軽く払いのけた。―たった今、言いかけた。「暁は、修の子どもだよ」って。でも、喉元でその言葉が止まった。この時間に、いきなりそんなことを告げる勇気はなかった。怖かった。そして、遅すぎる気もしていた。修は、若子がどこか緊張しているのに気づき、すぐにベッドのそばに腰を下ろした。「どうした?何かあったなら、俺に話してくれ。もしかして......また侑子が何かしたのか?だったら、今すぐあいつを出て行かせる」「大丈夫。ただ、目が覚めちゃっただけ。眠れなくなって、ちょっとぼーっとしてただけ......心配しないで」沈黙。修は、ベッドの端に座ったまま動かない。「若子、俺も言いたいことがあるんだ」「何?」「俺と侑子のことだけど―」「言わなくていい」若子はすぐにさえぎった。「若子」修はそっと彼女の手を握った。その動作には、迷いがなかった。「お願いだ。最後まで聞いてくれないか?俺、本気で話したいんだ。ちゃんと、伝えたいことがある」その目に宿る切実な光を見
「わかった。私、寝るね。あんたも、早く休んで」若子はそう言って、彼を軽く押し返した。修はようやく納得したように、ベッドの掛け布団をきれいに直してくれた後、静かに背を向けてソファへ向かっていった。そのまま、部屋の灯りが落ちた。ベッドには若子、ソファには修。それぞれの場所で、何も言わずに静かな夜が始まった―......が。おそらく、二時間ほど経った頃だろうか。かすかな泣き声が、若子の眠りを浅くした。赤ちゃんの声。その音に、彼女の目がぱっと開く。「......!」灯りを点け、反射的にベッドを抜け出す。だが、その時―目に入ったのは、空っぽのソファだった。かけていたはずの毛布は落ちていて、修の姿はどこにもなかった。「......どこ行ったの?」軽く目をこすりながら、パジャマの上にコートを羽織り、そっと部屋を出た。泣き声は、もう聞こえない。けれど、心配で―足は自然と、赤ちゃんの部屋へ向かっていた。......ドアの前。部屋の中から、優しくてあたたかい声が聞こえてきた。「怖かったのか?......一人で心細かったんだな。大丈夫、もう一人じゃないよ。もし悪い奴が来たら、俺が全部追い払ってやるからな」中では、修が赤ちゃんを抱いて、ゆっくりと歩きながら優しく話しかけていた。その腕の中、赤ちゃんがくすくすと笑う。それを見た修も、ふっと優しい笑みを浮かべて―「ほんと、可愛いな......お前、ママにそっくりだ」そして、ぽつりと。「......でも、将来はパパに似ないでくれよな」修はそっと、赤ちゃんの頬を撫でながら続けた。「......お前は遠藤の子かもしれないけど、若子の子でもある。だったら、俺もお前を大事にするよ......叔父さんとして、な」彼は小さく子どもの額にキスを落とした。―その姿を。若子は、ドアの外で黙って見つめていた。その瞳には光が宿っていた。胸の奥が、温かくなって、でも少しだけ痛んだ。足元はまるで動かず、息を潜めたまま。修、あなたはこの子の叔父さんなんかじゃない。この子の「父親」なんだ。「この子、修にそっくりだね」って、おばあさんが言ったのは、ただの思いつきなんかじゃない......だって、本当にそうだから。若子は唇
「俺は、衝動なんかじゃない。たとえおばあさんの記憶がどうなっても―お前は、若子じゃない。もう誰かの代わりとしてお前を見たくないんだ」修の声には、一片の迷いもなかった。その言葉に、侑子の顔が歪んだ。「......もういい!『代わり』って言わないで!まるで私のことを気遣ってるふうな口ぶりだけど、結局は自分の気が済むように言ってるだけじゃない!本当に私のことを考えてるなら、今ここでそんな話しないでよ......疲れた。もう休むから。続きは、またいつかにして」そう言い残して、侑子は走り去った。修はその背を追わなかった。万が一、声を荒げれば、おばあさんに聞かれてしまうかもしれない。ただ―胸の中には、深い自己嫌悪が渦巻いていた。......結局、自分はまた誰かを傷つけてしまった。どうしていつも、こんなことになるのだろう。まるで、呪われているかのようだった。侑子はそのまま部屋に戻った。彼女と安奈は同じ部屋で寝ていた。安奈はちょうどお風呂から上がり、ベッドに腰を下ろしてスマホを手にしていた。お気に入りの「憎き作者」をディスる準備万端―......だったのに。侑子が泣きながら駆け込んできた。「侑子姉!?ど、どうしたの!?」布団に顔を埋めて、声を押し殺すように泣く侑子。安奈はすぐさま駆け寄り、心配そうに背中をさする。「なにがあったの?」「......修が、私に別れ話をしてきたの。急に......こんなタイミングで、信じられない」「えっ、マジで!?なにそれ、ひどすぎる!」安奈は目を見開いて叫んだ。「それって絶対、あの女の仕業じゃん!あの『聖人ヅラ』女、ホントに無理......!絶対、裏であんたを貶めるようなこと吹き込んだに決まってる!最低最悪!!」「......どうして、こんな仕打ちを受けなきゃいけないの?」侑子は唇を噛み締めながら、涙をぬぐった。「私、こんなに尽くしてきたのに......」「全部、あのクソ女のせいだよ!」安奈はまるで確信しているかのように言い放つ。「修さまに悪いこと吹き込んでるの、ぜっっっったいあの女だから!修さまは絶対に悪くない。あの女が汚してるのよ!」侑子は手の甲で目元を拭った。「これから、どうしたらいいの......?」「
若子は少し考え込んだ。―もし夜中におばあさんに見つかって、別々の部屋にいたら......また余計な心配をかけるかもしれない。華の心を刺激したくない。「......わかった。一緒にいよう」「それと、暁は?」「坊ちゃんは今、ベビールームでぐっすり眠っておられます。ミルクも終わって、落ち着いておりますので、どうぞご心配なく。おふたりとも、ゆっくりお休みください」「うん......ありがとう」正直、若子も今日はかなり疲れていた。部屋へ戻ると、二人は互いに視線を交わした。気まずい沈黙が流れる。「先にシャワー、どうぞ」「いや、お前から入って。着替えもちゃんと準備してあるって、執事が言ってたし。終わったら教えて、俺はそのあとでいい」「じゃあ、お言葉に甘えて」若子は軽くうなずき、浴室へと向かった。そしてドアを閉めると―カチッと鍵の音。その音に、修の胸がずきんと痛んだ。―自分がめちゃくちゃにしてしまった、大切な関係。かつては、何の気兼ねもなく、同じ風呂に入り、同じベッドで眠っていた。今は―まるで、知らない人みたいだった。深く息を吐いた修は、そっとドアを開け、廊下へ出た。そのまま、子どもの様子を見に行こうと歩いていたところ―「修!」ばったりと侑子が現れる。「一緒に寝るの?あの女と?どういうつもりなのよ!」修は慌てて彼女の腕を掴み、人のいない場所まで連れて行った。「今はやめろ。おばあさんに聞かれたらまずい」人目のない場所まで移動すると、修は侑子の腕を放し、落ち着いた声で言った。「今、おばあさんは俺と若子が『夫婦』だと思ってる。だから同じ部屋で寝るしかない。お前も変なこと言わないでくれ」「そんなの、おかしいわよ......!だったら、別の部屋で寝て、朝だけ一緒に出てくればいいじゃない。あんたたち、もう離婚してるのよ?男女が一つ屋根の下で......!」「侑子」修が静かに彼女の言葉を遮った。「伝えたいことがあるんだ」「何?」「今まで、お前にしてきたこと......本当にごめん。お前のことを、若子の代わりにしてた。自分の寂しさを埋めるためだけに。お前がしてくれたことには、感謝してる。だけど......これ以上、こんなふうに接するのは違うと思う。お前には、お
子どもが執事の手で預けられたあと、修と若子はそれぞれ自分の食事を口に運び始めた。その様子を見た華が、ふと口を開く。「修、なんで自分の分ばっかり食べてるのよ。若子にもちょっと取り分けなさい。あんたたち夫婦、ケンカでもしたの?」二人の距離が、どこかよそよそしく感じられた。結婚していて、子どもまでいるのに―なぜか、その関係性に違和感があった。―大事なことを忘れてるような......けど、思い出せない。華の言葉に、修はすぐさま反応した。箸で鶏のもも肉をひとつつまみ、若子の茶碗へそっと入れる。「たくさん食べろよ。最近、ちょっと痩せたんじゃないか?」その目は優しく、声には自然と甘さが滲んでいた。演技ではない―本当にそう思っていた。修は心の中で少しほっとする。―おばあさんに促されれば、自然と距離を詰められる。それなら、彼女の前では「夫」としての役割を演じても、悪くない。若子も、それを察したのか、にっこりと笑って―「修も、ちゃんと食べてね」自分の箸で、彼の茶碗にも料理をひとつ入れてあげた。「夫婦」が互いに料理を取り合い、気遣い合うその光景に、華は満足げに笑顔を浮かべる。「そうよ、そうやってお互いを大事にするの。夫婦なんだから」その横で、侑子の指先が震えていた。握っていた箸に、じんわりと力が入る。安奈は、なにも言わなかった。現実の世界で声を張るような勇気は、彼女にはなかった。「二人とも、好きなものをどんどん食べなさいね。遠慮しないで」華は、そう言って二人にも気を配っていた。「はい、奥さま」侑子はすぐに笑顔を作り、礼儀正しく返事をする。さっきまで「おばあさん」と呼びかけようとしたのを、思いとどまった。―今の華にとって、自分は「孫」ではない。その事実を思い知ったのは、少し前の言葉だった。華は、あえて訂正もしなかった。今の彼女の中に、山田侑子を「松本若子」と重ねる意識は、もうなかったのだろう。彼女は正気を取り戻し、ただの「他人」として接していた。夕食は、少なくとも表向きは平和に進んでいった。食事が終わると、若子はリビングで華と一緒に座り、おしゃべりに花を咲かせていた。修は隣で黙々と果物を剥きながら、二人の会話に耳を傾けていた。こんな、ささや
修は、若子の気持ちがもう自分に向いていないことを、まだ理解していなかった。本当に―もう何も感じていない。妬くこともない。張り合う気もない。侑子と何があろうと、どうでもよかった。若子にとって、修との関係はもう過去のものだ。彼が誰といようが、それは彼の自由。ただ、自分の世界にだけは、もう関わってほしくない―それだけだった。「若子......さっきのことは、やっぱり侑子が悪かった。あんな言い方、するべきじゃなかった」「言ったものは消えないよ。謝るよりも、二度と私に近づかないように言っておいて。次は、黙ってはいられないから」「でも、侑子には悪気はなかったんじゃないか?ただの誤解かもしれないし......」修のその言葉に、若子の中に眠っていた怒りがふつふつと浮かび上がる。「ふふ......あんたって、ほんと『想いの深い人』だよね」皮肉を込めた笑みだった。それが自分に向けられた言葉ではないことに、修はうっすらと気づいていた。「相変わらず趣味が一貫してるよね。前は桜井さん、今は山田さん―どっちも『儚げ』で『優しそう』に見えるけど、裏では爪を立ててくるタイプ。なるほど、そりゃ私と合うわけないよね。私、あんたの『好きなタイプ』とは真逆だもん」「若子、違うって。俺が心から愛してるのは―」「やめて」若子は、修の言葉を冷たく遮った。「本当に私を愛してるなら、他の女とそんなふうに関わったりしない。私はあんたの言葉なんて、もう信じない。今日が山田侑子じゃなかったとしても、明日は佐藤侑子、あんたの周りから女は消えないでしょ?」そう言い終えて、若子は修に背を向けて歩き出す。だが―「......じゃあ、お前はどうなんだ?」修の声が背中から飛んできた。「とっくに遠藤の子を身ごもってただろ?俺の周りに女が途切れないように、お前の周りにも男は絶えないよな」その言葉に、若子の爪がぎゅっと手のひらを抉る。けれど、振り返った彼女の顔には、静かな笑みが浮かんでいた。「そうだね。あんたは女に困らない、私は男に困らない―そういう私たち、相性最悪ってことだよ」その目に浮かぶ皮肉な笑みに、修の胸に不安が走った。すぐに歩み寄って―「......悪かった。さっきのは俺が言い過ぎた」だが、若子はそ