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第1177話

Author: 夜月 アヤメ
千景はドアを軽くノックしながら声をかけた。

「若子、入ってもいいか?」

けれど、中からは何の反応もなかった。赤ん坊の泣き声だけが響いている。

不安になった千景は、そっとドアを開けた。

部屋の中では、揺りかごの中で赤ん坊―暁が大きな声で泣いていた。

千景はすぐに駆け寄り、赤ん坊を優しく抱き上げた。

「大丈夫だよ、暁。おじさんがいるからね、怖くないよ」

浴室からはまだ水の音が聞こえていた。ガラスのドアには湯気でできた曇りが厚く張り付いていた。

―中で若子がシャワーを浴びているのだろう。

けれど、これだけ泣き声が響いているのに、なぜ反応がない?

千景は一瞬疑問に思ったが、深く考えずに赤ん坊をあやし続けた。

「暁、泣かないで。ね?おしっこかな?」

おむつを確認してみるが、濡れていない。

「お腹が空いたのか?」

急いでミルクを作ってみたが、赤ん坊は哺乳瓶を受け付けなかった。

泣き声はますます激しくなり、息も苦しそうになってくる。

千景は哺乳瓶を置き、そっと赤ん坊を抱き締めながら話しかけた。

「暁、ママに会いたいんだね。もう少しだけ我慢しよう。ママはすぐに出てくるから、ね?」

けれど、どれだけあやしても泣き止まなかった。

ついに、千景は赤ん坊を抱えたまま浴室の前へ向かった。ドアの前に立ち、声をかける。

「若子、ごめん。暁がずっと泣いてて......中に入ってきたよ。もう出た?暁が君を待ってる」

浴室からは依然として水音が続いているだけで、返事はなかった。

ゴン、ゴン。

千景は今度は少し強めにドアを叩いた。

「若子、聞こえてる?返事して!」

胸の奥に、ぞわりと不吉な感覚が広がっていく。

拳を握りしめて、思い切りドアを叩いた。

「若子、どうした?返事してくれ、頼む!」

顔色はどんどん青ざめていく。

「若子!......声を出してくれ!無事なら、それだけでもいいから!」

バン、バンッ!

恐怖と焦りに突き動かされるように、千景は最後の警告を口にした。

「出ないなら......開けるぞ」

ドン、ドン、ドン!

そして―

千景はついに、決意を込めて浴室のドアを開けた。

その瞬間、目に飛び込んできたのは―

裸のまま、床に倒れている若子の姿だった。

「若子!」千景の顔色が一変した。

駆け寄ろうとしたが、腕の中にはまだ赤
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