若子はもう西也とこれ以上話す気も、争う気もなかった。「あんたがそう考えているなら、私にはどうしようもない。私はあんたの考え方を変えられない」西也は彼女の手を離した。「若子、俺は命懸けでお前を守ったんだ。もし俺が抱きしめてなかったら、お前はとっくに死んでたかもしれないんだぞ。感謝しなくてもいいが、今さら俺を責めるなんて、あんまりだろう」「助けてくれてありがとう」若子は冷たくもなく、熱くもない声で言った。「本当に、あんたのおかげよ」「その態度はなんだ?」西也は怒りをあらわにした。「苦しい時こそ本性がわかるって言うだろ。俺は命を懸けてお前を守ったのに、お前から返ってきたのはそんな皮肉ばかり。どれだけの男がそこまでしてくれると思う?俺が守らなければ、お前は......」「西也」若子は堪えきれずに遮った。「あんたは私の夫を殺し、私を誘拐してここに閉じ込め、地震に巻き込んだ。そして今度は私を助けたって、感謝しろって言うの?あんたが自分でめちゃくちゃにしたものを、片付けたからって感謝しろって?」「......」西也は怒りと悲しみが混じった複雑な表情を浮かべ、激しい感情が渦巻いたが、結局こう言うだけだった。「恩知らずだな」若子も、もうこれ以上黙っていられなかった。本当なら西也が激怒して暴れるのかと思っていたが、返ってきたのは「恩知らず」という一言だけだった。「そうよ、私は恩知らずよ。好きに言えばいいわ。あんたが元気そうなら、私はナナのところへ戻る。あの子には私が必要よ」そう言って若子は部屋を出ようとした。「待て」西也が呼び止めた。「何?」怒りを押し殺しながら振り返る。「俺がナナを養子にしたのは、俺たちの家庭を『完成』させたかったからだ。けっして、あの子が俺よりお前の心で大きくなるためじゃない。俺がどれだけお前の心にいないのか、よくわかってるけど、今やお前は俺よりナナの方を気にかけてる。それが気に入らないんだ」若子は振り返り、「嫉妬してるの?小さな女の子にまで?」「俺はもともと狂ってる。今さらだろ」西也は平然と言った。「だから、残るかナナのもとへ行くか、選べ。どっちにしても、あんまりナナを大事にしすぎない方がいいぞ。俺が嫉妬して、また何をしでかすかわからない」その言葉は冷静だが、若
ボディーガードは相変わらず事務的な笑みを浮かべて、「奥さま、遠藤さまがお待ちです。どうぞお越しください」と言った。若子は立ち上がり、病室を出ようとした―そのとき、ベッドから微かな声が聞こえた。「......ママ」「ナナ!」若子はまた椅子に戻り、ナナの手をぎゅっと握った。ナナはゆっくりと目を開け、「ママ、痛いよ......」何かを察したのか、ナナの目から一気に涙があふれた。「ナナ、大丈夫。全部きっとよくなるから」若子は胸が張り裂けそうだった。「奥さま」ボディーガードが背後から声をかける。「お急ぎください。遠藤さまを待たせると、ナナさまに怒るかもしれません」わざとそう言うのだった。若子はナナのそばに顔を寄せ、小声でささやいた。「ナナ、ママすぐ戻ってくるから、怖がらなくていいよ。ここにはちゃんと人がいるからね」「守ってもらえる」と言ってはみたが、自分ですらそれを信じられなかった。でも、行かないと―あの男は本当に何をするかわからない。ナナだって道具にしか見ていない。「子どもが死んでもまた養子をもらえばいい」そんな冷たい言葉を平気で言える人間だった。実の子じゃないから......いや、たとえ実の子でも、きっと同じだった。若子はそっとナナの手を離し、毛布をかけてやった。「ママ、すぐ戻るからね」ナナは泣きながら、小さな手を毛布の中に引っ込めた。その姿を見て、若子の心は痛みでいっぱいになった。彼女は振り返ってボディーガードに言った。「早く医者を呼んできて。せめて痛みを和らげてあげて」ボディーガードは頷いて、「わかりました。では早くお越しください」と返事した。若子は未練がましくナナの病室を出ていった。......西也はベッドのヘッドボードにもたれ、若子が入ってくると手を差し伸べた。「こっちへ来て、顔を見せてくれ」若子はベッドまで歩み寄り、西也に手を取られた。その腕には包帯が巻かれていた。「無事で安心したよ」若子はどう評価すればいいかわからなかった。あれだけ酷いことをしておきながら、養子にしたばかりの娘をあっさり見捨てた。冷酷で無慈悲な人間かと思えば、自分をかばうためには命も顧みなかった。西也が自分に向けている感情は、本物かもしれない。でも、それは歪んでい
地震はおよそ一分半ほど続き、ものすごい揺れだった。わずかな時間で山はすっかりめちゃくちゃになってしまった。山肌には大きな亀裂が入り、木の根がむき出しになり、木々も傾いていた。若子は圧迫されて息も絶え絶えになりながら、なんとか片手を抜き出し、必死で西也の頬を叩いた。「西也!西也?」西也は目を閉じたまま、血が滝のように流れ続けていた。まさかこんなときに、彼がここまで自分を守るとは思わなかった。もし昔の自分なら感動していたかもしれない。でも今は、これまで西也にされたことを思い出すたび、心のどこかに湧いた感情も一瞬で消え失せた。心の中で「このまま死ねばいい」と思った。こんな男、やっと天罰が下ったんだ。若子はナナが埋まってしまった方を見て、涙が止めどなく流れ落ちた。歯を食いしばって何とか体を引き抜こうとしたが、もがいた拍子に近くの石が崩れてきて腕を直撃した。「きゃっ!」若子は激痛に叫び声を上げた。もうこれ以上動いたら、さらに崩落が起きそうで、怖くて動けなかった。そのまま十数分が過ぎ、やっと西也の部下たちが駆けつけてきた。……十数時間後。「若子!若子、怖がるな、俺がいる……若子!」西也は突然目を覚ました。自分が病院にいると気付く。「遠藤さま、ご無事でよかった」ボディーガードが心配そうに近寄る。西也はすぐに訊いた。「若子は?」「遠藤さま、ご安心ください。松本さまは無事です。少し外傷を負いましたが、すでに手当てを受けています。今は別の病室でナナさまと一緒です」若子が無事だと聞いて西也は少し安心した。しかしナナのことを思い出し、眉をひそめた。「あの小娘、まさか生きてたのか?」その口調はとても冷たく、まるで自分の娘ではなく、赤の他人のようだった。ボディーガードは答えた。「はい、一命は取り留めましたが、医師によると右脚に感染症が起こり、やむなく切断するしかなかったそうです」それを聞いて、西也は眉をひそめ、「なかなか運のいい子だな」とつぶやいた。数日過ごして、少しだけ情が湧いたとはいえ、やはり血の繋がらない子供だったし、何より彼の関心は常に若子だけに向いていた。西也はベッドに体を起こそうとしたが、全身が痛み、頭もひどくふらついた。「遠藤さま、どうか安静に。医師の話では腕は骨折し、
みんなでしばらく休憩した後、また山登りを再開した。ナナは先頭で、手も足も使って一生懸命登っていく。まるで小さな子猫みたいに、ぐんぐん上に進み、二人の大人から何十メートルも離れてしまった。小さな子どもは体力はないが、元気いっぱいだ。あっという間に、大人ふたりを置き去りにしてしまった。若子はその後ろ姿を見て、ふっと微笑んだ。ナナは実の娘じゃないけれど、自分も母親。子どもを見ると自然と母性が湧いてくる。最初は拒絶していた「ママ」という呼び方も、ナナが口にするたびに胸が締めつけられ、つい涙が出そうになった。西也は若子の顔に浮かんだ笑みを見て、この子を連れてきて正解だったと確信した。突然、林の中の鳥たちが騒がしく空へ飛び立つ。木々がざわめき、風が吹き、地面が激しく揺れ始め、ゴゴゴゴという音が響いた!まるで天地が崩れるような大地の揺れ。山の石が斜面を転げ落ち、階段はひび割れを起こす。「きゃあっ!」ナナが階段で転んで泣き叫ぶ。「パパ!ママ!」「ナナ、動いちゃダメ、ママがすぐ行くから!」若子は駆け寄ろうとしたが、すぐ脇を大きな石が転がり落ちてきた。「危ない、行くな!」西也が若子を引き戻し、石から守るように強く抱きしめた。「離して、ナナが上にいるのよ!」山体が崩れはじめ、まわりはめちゃくちゃになっていく。石や土の塊がどんどん崩れ落ちてくる。「若子、下山するぞ!」西也は若子を強く抱きしめ、そのまま下へ走ろうとした。「放して、ナナがまだ……!」「無理だ!」西也は怒鳴る。「今はまず俺たちが降りるんだ。あとで人を派遣して助けに行かせる!」階段には三人しかいない。西也は保護のためにボディガードを山のふもとに待機させ、ヘリコプターも上空を巡回させていた。でも、誰がこんなときに大地震が来ると予想できただろう。ヘリも何もできなかった。「パパ!ママ!」ナナの叫びはどんどん大きく、苦しそうになっていく。「ナナ!」若子は何度も後ろを振り返り、手を伸ばし続けた。「西也、お願い、あの子はあなたの娘よ、見捨てるの?あんた、本当に父親なの?」「俺は父親であり、お前の夫だ!」西也は必死に若子を引き寄せる。「子どもはまた養子にできる。でも、お前は一人しかいない!」その冷酷な言葉
西也が出かけるときは、いつも大勢のボディガードを連れていた。どこかで誰かに命を狙われるのではと、常に警戒している。ここは西也にとって「とても安全な場所」のはずなのに、まったく安心できないのだ。山のふもとには護衛の部隊が、山の頂上にはヘリコプターがパトロールしている。西也はナナを腕に抱え、もう一方の手で若子を引き連れ、山のふもとに立った。「さあ、これから家族三人で山登りだ」見上げると長い階段が続いている。この山は本来階段などなかったが、西也が資金を出して階段を作らせた。「若子、ナナ、行こう。三人で始めよう」「ナナ、君が先頭だ。ママは真ん中、パパが最後から二人を守るよ」そう言いながらナナを軽く前に押した。ナナはうれしそうに階段を上り始めた。若子は仕方なくその後についていく。西也は最後尾。三人で二十分ほど登ったところで、若子はもう疲れてしまい、額の汗をぬぐった。ナナも疲れてしまい、その場に座り込んで、そっとママの手を引いた。「ママ、疲れてない?」本当はナナのほうがもう限界なのだが、パパには言えず、まずママにこっそり聞く。ナナはとても賢い。若子は、顔を真っ赤にして息を切らしているナナを見て、西也に言った。「私、もう少し休みたい」「いいよ」西也は階段に腰を下ろした。「じゃあ、少し休もう」バッグから水のボトルを取り出し、若子に渡す。若子は受け取って一口飲み、すぐに横にいるナナのことを思い出し、ボトルを差し出した。ナナは両手でボトルを抱え、ゴクゴクと何口も水を飲んだ。若子は慌ててボトルを引き上げて、「飲みすぎると後で苦しくなるよ」とやさしく注意した。ナナは素直にうなずいた。ナナの目はあまりにも澄んでいて、きらきらと光っていた。まるで光そのもの。こんな純粋な天使みたいな子どもに、若子が情を持たないはずがなかった。ただ、この子の登場自体が間違いだった。西也が無理やりこの子を「家族」に引き入れてしまった。もしかしたら、ナナ自身は今を地獄と思っていないかもしれないが、やがて大きくなったとき、この家庭の異常さに気づくだろう。西也は黙って、母娘の様子を見ていた。それから若子の肩をそっと抱いた。「そのうち、もっと仲良くなれるさ」若子は水のボトルを階段に置き、膝を抱えて足元の階段を見つめた
ナナは、ママが元気ないのを見て、パパの言葉を思い出した。ママを元気づけるように、と言われていたから、思い切って尋ねてみたのだった。 若子はナナの言葉に少し戸惑い、五歳の子どもにも自分が元気ないことが伝わっていると知って、しばらく何も言えなかった。 そして本を閉じて、「別に元気がないわけじゃないの。ただ、私はもともとあまり笑わないだけ。ナナは自分で遊んできて。ママは少し本を読むから」と静かに言った。 どうしても、この子を娘として受け入れることはできなかった。それが実の子かどうかという問題ではなく、西也が一方的に押しつけてきたものだったからだ。 若子はもう一度本を開いて読もうとしたが、一文字も頭に入ってこなかった。 ナナは素直にソファから降りたが、少し寂しそうだった。「ママ、私のこと、嫌い?」 若子は驚いて、「どうしてそう思うの?」 「だって、ママは私のこと嫌いみたい。あんまり話してくれないし、抱っこもしてくれないから」 若子は静かにため息をついた。「ナナ、ママはナナのこと嫌いじゃないよ」 嫌っているのも、憎んでいるのも、西也だけで、この子には何の罪もない。 「パパが、ママを元気づけてあげなさいって言ったの。でも、ママが全然元気なくて......もしかして、私のせいでママが元気ないのかなって思ったの」 「違うよ、ナナ。ナナは悪くない。自分を責めちゃダメ。それは全部、ママとパパの大人の問題だから」 できるだけやさしく、若子はナナに語りかけた。この子にまで西也への憎しみをぶつけるつもりはなかった。 本当は、この子の本当の親がどこにいるのか、若子にはわからない。 西也は「孤児」だと言っていたが、もしかしたら本当の親はすでにこの世にいないのかもしれない。 この子がこんなに臆病なのも、きっと何かつらい思いをしてきたからだろう。 「ママ、パパはね、ママとすごく仲良しで、毎日ママの首に小さい赤いのをつけてあげてるって。そうすると、ママが元気になるって言ってたけど......本当?」 あどけないナナは、悪気もなくそう聞いてきた。 若子は、西也がどんなことまでこの子に話しているのか、想像もつかなかった。あの男は本当に恥知らずだ。 「ナナ、もう遊んできて。ママはちょっと一人になりたいの」 「うん、わかった」ナナ