「お母さんには会いました。あまり機嫌が良くなさそうでした」若子が答えると、曜の声が少し陰りを帯びた。「彼女の機嫌が悪いのはわかっている。だが、なぜそんな気分なのか、わかるか?」「私にもわかりません」若子は正直に答えた。彼女は思った。光莉があんなに激しく曜を罵り、「消えろ」とまで言ったのに、曜はそれについて一切不満を漏らさない。きっと、もう慣れてしまったのだろう。「彼女に聞いたか?」「はい、聞きました。でも、お母さんは答えてくれませんでした」「全て、昔の俺のせいだ。もしあの時のことがなければ、彼女は今頃もっと幸せだっただろうに......」「お父さん」若子は落ち着いた声で言った。「時には、相手があなたに干渉されたくないと思っているのなら、その距離を保つことが、相手にとって一番の幸せかもしれませんよ」若子の声は穏やかだったが、言葉にはわずかな皮肉が込められていた。過ちを犯した男たち─あの時はどんなに説得されても耳を貸さず、独善的な行動で大切な人を傷つけたくせに。そして、ようやく自分の間違いに気付いた時には、まるで深い愛情を持っているかのような態度で後悔を語る。だが、一度与えた傷は、「間違いだった」と認めるだけで癒えるものではない。曜はその言葉の裏に込められた意味を理解したのか、何も言わずに沈黙した。しばらくして、彼は電話を切った。若子は唇をかすかに引き上げて苦笑する。ふとスマホの画面を見ると、新しいメッセージが届いていた。差出人は修だった。「若子、もう起きてる?」若子は車内でスマホをじっと見つめる。そこに表示されたのは、たった一言の何気ない挨拶だった。「起きてる?」特に変わったことのない、ごく普通の言葉。けれど、それが修から送られてきたものだと思うと、何かがおかしく感じられた。どうしてわざわざ彼女にメッセージを送るのだろう?どうして彼はこんなにも気軽に、あたかも普通の友人同士であるかのように彼女に話しかけられるのか?若子はスマホを握りしめたまま、目を伏せた。修からのメッセージに返信することなく、スマホを助手席に放り投げて車を走らせた。帰宅後、彼女は必要な荷物を簡単にまとめ始める。心の中では、行き先をすでに決めていた。それは小さな街で、国境近くにある静かな場所だった。冬でも暖かく、
修は若子が電話を切ったことに気づいた。彼は少し苛立ちながら、もう一度電話をかけた。しかし、すぐに機械的な音声が耳に入る。「おかけになった電話番号は、現在通話中です。しばらくしてからおかけ直しください」若子はきっと忙しいのだろうと考え、修は一旦スマホを脇に置き、待つことにした。十数分後、再びスマホを手に取り、彼女に電話をかける。「おかけになった電話番号は、現在通話中です......」またしても同じ音声案内が流れる。修の表情は次第に険しくなり、胸の奥に嫌な予感が広がった。彼はスマホを手に取り、ラインを開くと、若子に一言メッセージを送った。「若子、もし何かあったなら教えてくれ。一人で抱え込む必要はない。俺が解決する。俺たちは家族だ」メッセージを入力し終えると、彼はそれを何度も読み返してから、ようやく送信ボタンを押した。だが、画面の左側には、赤い感嘆符が表示された。修の頭が一瞬真っ白になる。まるで何か固いもので頭を叩かれたような感覚が走り、心臓が大きく震えた。彼は目を見開き、その赤い感嘆符を何度も見直した。だが、表示が変わることはない。若子が彼を......ブロックしたのだ。彼女の電話が通話中だったのは、誰かと話していたわけではなかった。彼女はすでに修の番号をブロックしており、何度かけ直しても「通話中」という音声案内が流れるだけだったのだ。最初は信じられなかった修だったが、次第にその事実に愕然とし、最後には胸の奥から怒りが込み上げてきた。「どうして若子は俺をブロックしたんだ......?頭がおかしくなったのか?」修は椅子から立ち上がり、怒りで息を荒らしながらオフィスのコート掛けに手を伸ばす。「心配していたのに......彼女が突然こんなことをするなんて!」コートを手に取ると、修はオフィスを後にしようと足を踏み出した。若子に直接会い、理由を問いただすつもりだった。しかし、修はふと立ち止まり、頭を抱えた。彼は若子の現在の住まいを知らなかった。彼女が家を出た後、その行き先を調べようとしなかったし、離婚してからも彼らは頻繁に顔を合わせていたわけではない。だが、今になって初めて実感する。これから彼らは、もしかすると二度と会えないかもしれないということを。そして、若子が彼をブロックしたという
修は目を閉じ、こみ上げる怒りを必死に抑え込んだ。「もう笑わないでくれ」だが、彼の胸中は怒りで沸騰しそうだった。光莉は喉を軽く鳴らして咳払いをした。「わかった、もう笑わないわ。それにしても、若子があなたをブロックした理由はわからないわね。まあ、こうしましょう。いずれ私たち二人が会う時に、若子も連れて行くわ。ちょうどいい機会だし」「それなら......」修は少し考えてから言った。「今夜にしよう。若子も呼んでくれ」光莉は穏やかに返した。「それじゃあ、後で彼女に電話して、時間があるか聞いてみるわ」「彼女は時間がある」修は即答した。「若子は今仕事をしていないんだ。だから時間はたっぷりある。もし『忙しい』なんて言ったら、それはただの言い訳だ。それを許しちゃだめだ」修のこの発言を聞いて、光莉は眉をひそめた。「......彼女があなたをブロックした理由がわかる気がするわ」「なんだって?」修は眉を寄せ、母をじっと見つめるような声色になった。「理由がわかるのか?」光莉はため息をつきながら言った。「息子よ、それはね......あなたが時々、とても嫌な人だからよ」「......」修はその場で固まった。彼はこれまでの人生で、誰かにここまで率直に「嫌われる理由」を指摘されたことがなかった。ましてや、それを口にしたのが実の母親だという事実が、さらに衝撃だった。「なぜかわかる?」光莉は淡々と続けた。「若子が今、正社員として働いていないからって、彼女に自由な時間があると思い込んでるでしょ。それで、あなたは彼女を好きな時に呼びつけたり、振り回したりしても問題ないと考えてる。でもね、彼女がそれを受け入れるはずがないのよ。あなたは自分が忙しいと思い込んでるだけで、彼女が何をしているかなんて考えたことがある?例えば、この前の夜だってそうよ。もしあなたが偶然、彼女が徹夜で資料を調べていたのを見ていなかったら、彼女が一日中何もしていないと思い込んでいただろう?夜にはただ寝るだけだって」光莉の声は穏やかだった。怒鳴りもせず、叱責するわけでもなかった。その柔らかい口調に、修はただ黙り込むしかなかった。光莉はそれ以上何も言わず、黙って彼の反応を待った。急かすこともなく、ただ待ち続ける。電話越しの沈黙の中で、修が困惑し、何かを考え込んでいる様子は明らか
「積極的に動けって?」光莉は少し意地悪そうな口調で言った。「つまり、彼女を引き留めて、他の場所に行かせないようにしろってこと?」「引き留めても悪くないだろう」修は少し口調を和らげて答えた。「これだけ長い間、若子は藤沢家にいたんだ。わざわざ遠くに行く必要なんてない」彼は、かつて若子が大学に進学する際、遠くへ行かせたくなかったことを思い出していた。修は認める。彼には少しだけ自分勝手な思いがある。若子が離れていくのを避けたいという気持ちは、親が子どもを手元に置いておきたいと思うのに似ている。それでも、もし若子が本当に遠くの大学を選びたいと言ったなら、無理に止めることはしなかっただろう。結果として、若子は修の言葉を聞き入れ、海城で大学生活を送ったのだ。「若子は旅行に行きたいって言ってたような気がするわね」光莉は軽く眉を上げ、目の奥にいたずらっぽい光を宿らせながら言った。「旅行だと?」修は眉間にしわを寄せ、不安げに聞き返した。「どこに行くつもりなんだ?」「それは私も知らないわ」光莉はさらりと言った。「ただ、そう言っていただけで、詳しくは聞かなかったの。だって、旅行なんて普通のことじゃない?いちいち詮索するほどのことでもないわ」「でも、少しくらい聞くだろう?どこに行くつもりなのか、一人なのか、それとも誰かと一緒なのか。国内なのか、海外なのかも気にならないのか?」修が次々と質問を浴びせる中、光莉は彼の心情が少しずつ見えてきた気がした。「彼女に会った時、自分で聞けばいいじゃない」光莉は静かに答えた。「そんなに彼女の生活が気になるなら、なぜ離婚なんてしたの?彼女を自分のそばに置いておけば、堂々と気にかけられるじゃない」「俺は......」修は言葉に詰まり、一瞬だけ黙り込んだ。彼が答えに窮しているのを感じて、光莉は小さくため息をついた。「まあ、ゆっくり考えなさいな。私は忙しいから、これで失礼するわ」そう言って、光莉は電話を切った。そして首を軽く振りながら、独り言のように呟く。「藤沢家の男たちは、どうしてこうも鈍感なのかしらね」その後、光莉は若子に電話をかけることはせず、メッセージを送ることにした。「今夜、修と会うんだけど、あなたも来られる?」若子からはすぐに返信があった。「ごめんなさい。今夜は都合がつかないんです。友達と約
西也は個室を予約していた。来る前に若子に連絡を入れ、迎えに行こうと提案したが、彼女は断った。自分で車を運転して向かうと言い張ったのだ。若子がそこまで固辞するので、西也も無理に誘わなかった。彼は早めに個室に到着し、今は若子と花が美咲を連れて来るのを待っていた。ただ、花が用意したという人物が本当に大丈夫なのか、少し心配だった。演技にほころびが出てしまったらどうしようかと考えが頭をよぎる。時間がまだあったので、西也はスマホを取り出して花に電話をかけた。一方、クラブのソファにうつ伏せで寝ていた花は、突然鳴り響いたスマホの着信音で目を覚ました。彼女は目を細め、眠そうにスマホを手探りでつかみ耳に当てると、不機嫌そうに言った。「誰よ?」「花、今どこにいる?」兄の声だと気づいた瞬間、花はハッと目を見開き、ソファから勢いよく起き上がった。「お兄ちゃん!?なんで......」「それを俺に聞くのか?」西也の声は冷たかった。「昨夜、俺が頼んだことを忘れたわけじゃないだろうな?人は見つかったのか?早く来い」ゴロゴロゴロ......花の頭上で雷鳴が響いたかのようだった。衝撃が頭に直撃する。花は言葉を失い、西也の声が鋭くなる。「まさかとは思うが、失敗したんじゃないだろうな?今どこにいる?」「失敗なんかしてないよ!」花は慌てて答えた。「お兄ちゃん、今どこにいるの?すぐ行く!」「もう場所の情報は送ってあるだろう。さっさと連れて来い」「わかった、今すぐ向かうから!」電話を切った後、花は時間を確認し、驚愕した表情でソファから飛び跳ねた。「やばいやばいやばいやばい!!」時計は午後4時を指している。彼女は丸一日寝てしまっていた。昨夜、彼女は友人たちと遊び通し、一睡もしていなかった。朝になり、みんなが解散した後、疲れ果てた彼女はクラブで仮眠を取ることにした。2~3時間だけ寝るつもりだったのに、気づけば一日が終わろうとしている。美咲って何だっけ?彼女の頭から完全に飛んでいた。「もうどうしよう......!」と叫びながら、花は部屋を飛び出し、廊下を走りながらスマホを手に取り、ある番号に急いで電話をかけた。通話が繋がると、彼女は一気にまくし立てた。「女の人を一人探して!演技ができて、見た目が清楚な人で......
レストランの個室に。西也は何度も時計を確認していた。「花のやつ、本当に頼りにならないな......」彼は大事なことをあの妹に任せた自分を後悔し始めていた。どうせまた何かトラブルを起こしているに違いない。その時、個室のドアが開き、若子が姿を見せた。「西也」西也は一瞬ビクッとして、慌てて立ち上がった。「若子、どうしてこんなに早く来たんだ?」雲天グループの総裁である西也が、若子の前ではまるで教師に叱られるのを恐れる小学生のような態度だった。若子は柔らかく笑った。「特に用事もなかったから、少し早めに来ただけよ。あなたも早かったみたいね」「そうなんだ」西也はぎこちなく笑い、唇を引きつらせた。まさか若子がこんなに早く来るとは思っていなかった西也は、完全に予定を狂わされてしまった。「どうしたの、西也?」若子は彼のそばに歩み寄り、その顔を覗き込んだ。「顔色があまり良くないわね。具合でも悪いの?」「いや、大丈夫だ!」西也は内心で混乱しながらも、慌てて答えた。「どこも悪くない。とりあえず座って、何か飲む?」「いいえ、大丈夫よ。ここで少し待ちましょう。花と高橋さんはもう来る頃?」西也は落ち着かない表情で答えた。「まだ来ていないようだ。花に迎えに行かせたけど、あの子のことだから、ちゃんとやっているかどうか......不安だな」若子は微笑んで励ました。「大丈夫よ。少し待てばいいじゃない」「うん」西也は頷くと、椅子を引いて若子を座らせた。若子が席に腰を下ろすと、西也も彼女の隣に座った。その瞬間、若子からほのかな香りが漂ってきた。西也はその香りにふと気づく。香水の匂いではない、自然で優しい石鹸やボディソープの香りだ。その穏やかな匂いに、彼の心は少し和らいだ。ふと若子が顔を西也に向けた。そのタイミングで、西也が真剣な眼差しで彼女を見つめていることに気づいた。「西也?」若子が不思議そうに首を傾げた。若子は一瞬、胸がざわめくのを感じた。「どうしたの?私の顔に何かついてる?」「いや、違うよ」西也は我に返り、軽く首を振った。「ただ少し緊張してるだけだ。これから彼女に会うと思うと......」本当は、彼が今緊張している理由はそれだけではなかった。彼はすでに「会いたかった人」を目の前にしていたのだ。若子は微笑んで彼
「花、まだ来ないの?何かあったんじゃないかしら?一度電話してみたら?」若子は焦れた様子ではなかったが、どこか心配そうに言った。「わかった、俺が電話してみる。ここで待っててくれ」西也はスマホを手に取ると、個室を出て行った。若子は不思議そうにその背中を見つめる。どうしてわざわざ外に出て電話をかけるのかしら?だが、それ以上は深く考えず、椅子にもたれかかり、手をお腹に添えた。優しく微笑みながら囁く。 「赤ちゃん、西也おじさんの問題が片付いたら、ママが君を連れて、とても素敵な場所に行くわ。これからは二人で一緒に生きていきましょうね」......西也はスマホを手に、花に再度電話をかけた。何度も呼び出し音が鳴り、ようやく通話が繋がる。電話口から、気まずそうな花の声が聞こえてきた。西也は苛立ちを隠せず言った。「お前、今どこにいるんだ?正直に答えろ。ちゃんとまともな人を見つけたんだろうな?」「もう着いたってば!」外から花の声が聞こえてくる。西也が振り返ると、花が一人の女性を連れて駆け込んでくるのが見えた。女性は花の後ろを必死に追いかけ、息を切らしている。歩き続けるのも辛そうで、腰が折れ曲がりそうになっていた。この女性―高橋美咲は、クラブで突然現れた奇妙な客に引き止められたばかりだった。その客、つまり花は、なぜか必死に「友達になりたい」と言い出し、一緒に食事に行こうと誘い始めた。もちろん美咲は最初、頑なに断った。だが、その後、この遠藤家の娘がただの客ではなく、雲天グループのお嬢様だと知った。クラブのマネージャーまで彼女に頭を下げる姿を見て、美咲は驚きを隠せなかった。花は彼女にこう頼んだ。少し手伝ってほしい、と。その代わり、仕事が終わったら百万円を渡すと約束してくれた。そして、その「手伝い」というのは、ただ自分自身として振る舞うこと。西也は椅子から立ち上がり、駆け寄る二人を出迎えた。花は彼に駆け寄ると、満面の笑みで兄の腕にしがみついた。「お兄ちゃん!ほら、連れてきたわよ!正真正銘の高橋美咲!」美咲は汗だくの状態で、目の前の男性を見上げた。―なんてハンサムな人なの......!彼女の心に不安と動揺が一気に押し寄せる。この状況が信じられない。初対面にもかかわらず、美咲は完全に準備不足で、狼狽した姿を晒していた。必
それで、彼女が高橋美咲っていう名前だと、何か問題があるの?この名前に、何か不都合があるのだろうか?若子は柔らかく微笑みながら手を差し出した。「こんにちは。私は松本若子。お会いできて嬉しいです」美咲は少し戸惑いながらも手を伸ばし、若子と握手した。「どうも......松本さん」二人は丁寧に挨拶を交わすが、どこかぎこちなさが漂っていた。それを見た花は、眉をひそめながら思った。―何これ?妙に堅苦しい雰囲気......お兄ちゃん、私より罪作りだわ!「はいはい、もういいじゃん!」花は手を振りながら話を遮るように言った。「みんな自己紹介も済んだし、早く個室に行こうよ!お腹ペコペコだよ!料理の注文、もうした?」若子は軽く頷いて答えた。「注文はしたけど、みんなが揃うのを待ってて、まだ出してもらってないの」「じゃあ、私が店員さんに伝えてくる!」花はまるで逃げるように、急いで店員のところへ駆け寄り、何やら伝えてから戻ってきた。その後、彼女はそそくさと個室に入り、自分の兄の視線を避けるように目を伏せた。残された三人は互いに見つめ合い、急に沈黙が訪れる。言葉が出ず、気まずい雰囲気が漂った。若子は、美咲と西也の間に微妙な距離があるように感じた。きっと、西也が緊張しているのと、美咲があまり積極的な性格ではないからだろう。その結果、二人の間に静けさが広がっている。若子は微笑みを浮かべながら口を開いた。「みんな揃ったことだし、そろそろ中に入りましょう。こんなところに立ってないで」「そうだな、行こう」西也はそう言うと、若子のそばに歩み寄り、美咲を後ろに残したまま部屋に向かい始めた。若子は歩きながら何か違和感を覚え、ふと立ち止まると、小声で西也に話しかけた。「西也、彼女と一緒に歩くべきじゃない?」西也は一瞬だけ美咲を振り返り、その視線にはわずかな居心地の悪さが滲んでいた。美咲もまた、明らかに戸惑いを隠せない。どうして私がこんな妙な状況に巻き込まれなきゃいけないの?若子は、西也が緊張しているのだと思い、美咲のそばに寄り添いながら歩き出した。美咲が疎外感を抱かないようにと配慮したのだ。西也、ほんと不器用なんだから......これじゃ全然女の子を口説けないじゃない。美咲は二人を見て、頭の中が疑問符だらけだった。―何、この状
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声