そのとき、西也が歩いてきた。「若子、おじさん、お前たち何の話をしてるんだ?」 西也はそのまま若子の隣に座り、彼女の肩を軽く抱き寄せた。 「ちょっとした話よ」若子は微笑んで答えた。 西也はそれ以上追及せず、こう提案した。「若子、午後、少し外に出ないか?久しぶりに外に行きたいんだ。医者も適度な外出なら問題ないって言ってたし」 若子は頷いた。「もちろんいいよ。どこに行きたい?私が連れて行く」 「どこでもいい」西也は笑って言った。「お前が一緒なら、どこだって楽しいから」 「分かった。じゃあ、昼ご飯を食べたら出かけましょう」若子は成之に視線を向けた。「おじさん、お昼は何が食べたいですか?」 成之は西也を一瞥し、軽く笑った。「いや、俺は昼に会食があるから、お前たち二人でレストランにでも行ってくれ」 そう言うと、成之は立ち上がった。「じゃあ、俺はこれで失礼する」 若子も立ち上がり、「おじさん、外まで送ります」と言った。 成之は一瞬断ろうとしたが、ふと何かを思いついたようで頷いた。「そうしてくれ」 西也も立ち上がろうとしたが、成之が若子にさりげなく視線を送った。 若子はその意図を察し、西也に向き直って言った。「西也、ここで待っててね。私がおじさんを送ってくるから」 西也は素直に頷いた。「分かった」 若子は成之を外まで送り出した。 「おじさん、何か話があるんですか?」若子は、さっきの成之の様子から、彼が何か話したいことがあると感じ取っていた。 成之は軽く頷いた。「ああ、ちょっとお前に聞きたいことがある」 「何ですか?」 「少しプライベートな質問になるが、気を悪くしないでくれ」 若子は眉をひそめながら、「質問って......」と促した。 「お前と西也の間に......その、何かあったのか?」 「......」 成之の問いに、若子は一瞬言葉を失い、気まずそうに視線を逸らした。「どうして急にそんなことを聞くんですか?」 「誤解しないでくれ。俺がこう聞くのは、決してお前が考えているような意味じゃない。ただ......」 成之はそこで言葉を詰まらせた。 「もちろん、何もありません」若子はきっぱりと言った。「西也とはそういう関係じゃありません」 成之は安堵の息を吐き、続けた。「若子、俺はお前を
若子の言葉は決然としていて、迷いは一切見られなかった。 成之は小さく頷き、「分かった。ありがとう、若子。お前の信頼に応えて、俺もいつか必ずはっきりとした答えを伝える」と言った。 二人が話している間、少し離れた装飾建築の影で、西也が隠れていた。 その目には驚き、混乱、信じられないという感情が渦巻き、やがて顔色は次第に暗くなっていった。 彼の手は無意識に建物の金属装飾を掴み、力強く引き裂いた。 「ブツッ」という音と共に、手のひらから血が滴り落ちる。 若子がリビングに戻ると、西也の姿がなかった。 彼を探そうとしたそのとき、後ろから声がした。「若子」 「西也」若子は振り向いて彼に歩み寄った。「どこに行ってたの......?」 そう言いかけて、彼の手のひらから血が流れているのに気づいた。 若子は驚いて叫んだ。「西也!手がどうしたの?!」 西也は一瞬ぼんやりした目で若子を見つめていたが、すぐに微笑みを浮かべた。「俺の不注意だ。花瓶を割っちゃって、拾おうとしたときに切っちゃったんだ」 若子は西也の手首を掴んで、「すぐに手当てしなきゃ」と言った。 彼を急いで椅子に座らせ、薬箱を取りに行くため振り返る。 焦る若子の姿を見つめながら、西也の目には一瞬、柔らかな感情が浮かんだ。しかし、次の瞬間、その眉間には冷たい陰りが戻り、まるで冬の寒い風のような表情になった。 若子は薬箱を持って戻ると、消毒や包帯を手早く、しかし丁寧に施した。 手当てを受けながら、西也は近くにいる若子をじっと見つめ、かすかに聞こえるほどの小さなため息をついた。 なぜ、こんなことになっているんだ? 彼女が自分を裏切って誰かの子供を身ごもったとしても、そのほうがよほどマシだった。 もし裏切りであれば、自分にはそれを責める理由ができる。償わせる口実も得られる。 だが、彼女が口にしたのは「偽装結婚」だった。 記憶を失っている間に、そんなことを忘れていた自分がいたなんて。 彼女は決然として言った―「いずれ離婚する」と。 愛する人だと信じていた若子、かけがえのないものだと思っていた結婚、頼るべきだと思っていた愛情......すべてが虚構だった。 自分が抱いていた感情は、滑稽なまでの勘違いだったのだ。 いや、勘違いどころではない。これ
西也は首を振って言った。「何でもない。ただ、記憶をなくしてから、なんだか気持ちが落ち着かないんだ。毎日家の中にいるばかりで」 若子は西也の手を軽く叩き、「西也、今日はお昼ご飯を食べに行くでしょ?それから午後は外を散歩しましょう。どこへ行きたいか言ってくれれば、一緒に行くわ。ずっと家にこもってたら、さすがに疲れるでしょ?今日はしっかり外の空気を吸おう」 西也は頷いた。「分かった」 昼になり、若子は車を運転して、西也を市中心部にあるレストランに連れて行った。だが、店に入るとすぐ、マネージャーが迎えに来て言った。 「申し訳ございません、本日はレストランが貸し切りとなっておりまして、他のお客様にはご利用いただけません」 若子は少し眉をひそめ、「でも、事前に電話で予約したんですが。そのときは問題ないと言われました。どうして急に貸し切りなんですか?」と尋ねた。 マネージャーは申し訳なさそうに答えた。「恐らくスタッフのミスでございます。本当に申し訳ありません」 若子は不満げな表情を浮かべた。「でも、何の連絡もなく、わざわざ来たのに突然貸し切りだなんて。本当に不親切ですね」 「大変申し訳ありません、ではこうしましょう。次回お越しの際には割引をご提供いたします。本日は本当に申し訳ございません」 若子はまだ納得がいかない様子だったが、これ以上言っても仕方がないと思い、黙った。 そんな彼女の様子を見た西也は前に出て、冷たい声で言った。「これはお前たちの問題だ。事前に知らせなかったせいで、わざわざ足を運んだんだぞ」 記憶をなくしても、西也の背が高くがっしりした体格と自然に放たれる威圧感は健在だった。 マネージャーはたじろぎ、慌てて笑顔を浮かべて謝った。「本当に申し訳ありません。では次回ご来店いただける際には50%割引を適用いたします」 「割引なんかいらない」西也は冷然と言った。「何事にも順序というものがあるだろう。それに、このミスはお前たちのせいだ。金の問題じゃない。俺がこのレストランを買い取って、貸し切りを取り消すようにしてやってもいいぞ」 「えっ、それは......」マネージャーは困惑し、その場でどうすればいいか分からない様子だった。 そのとき、レストランの入り口から一組の男女が入ってきた。 マネージャーは彼らに気づくと、
若子は本能的に西也を自分の後ろに庇い、警戒した目で修を睨んだ。 雅子は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、修の腕にしっかりと腕を絡めていた。内心では驚いていたものの、その表情には出さず、口調も穏やかにこう言った。 「まあ、あんたたちだったのね。ここで会うなんて思わなかったわ。でも残念ね、このレストランは修が貸し切りにしたのよ」 雅子の声は一見礼儀正しく、柔らかだったが、その裏には皮肉めいた雰囲気が漂っていた。それでいて、明確に非を指摘できるような言葉ではない。 若子はそのいわゆる「上から目線」の態度に胸がむかついた。「別に残念じゃないわ。この辺りにレストランは他にもあるから。西也、行こう」 そう言いながら若子は西也の手首を掴み、その場を離れようとした。 二人が修と雅子のそばを通りかかったとき、西也が突然足を止めた。 若子はその様子に気づき、振り返って尋ねた。「どうしたの、西也?」 西也はゆっくりと修と雅子に目を向け、そのまま若子の腰を引き寄せて抱き寄せた。「若子、紹介してくれる?この二人は誰だ?」 雅子は西也のことを以前から知っていた。ノラが話していた話―本来なら彼の心臓が雅子のものになるはずだったのに、若子がどうしても同意しなかったせいで、その話が流れたということを。西也は死ぬはずだったが、結局生き延びた。 「西也、帰ってから話しましょう」若子は今この場で話すつもりはなかった。修と雅子を見るだけで気分が悪くなっていたのだ。 若子の様子を見て、西也は彼女に無理をさせたくなかったのか、頷いた。「分かった」 二人が去ろうとしたそのとき、修が口を開いた。「俺は彼女の元夫だ。藤沢修と言う。遠藤、記憶を失ったと聞いたが、その様子だとあまり良くないみたいだな」 西也は修の敵意を察知したが、動じることなく余裕の笑みを浮かべた。「なるほど。だから若子はお前と離婚したのか。お前の目は確かに良くないな。だが、このところ若子の献身的な世話のおかげで、俺はすっかり元気だ。俺たちはどこに行くにも一緒だよ」 二人の男の間に、張り詰めた空気が漂い始めた。 若子はその緊張感に居心地の悪さを感じ、雅子も心中穏やかではなかった。 雅子は修が若子を巡って西也と暗に張り合っているのを感じ取ったのだ。 いつも一緒にいる。 西也のその言葉
修は、まるで腹を決めたような表情を浮かべていた。 その様子に、雅子の顔色が変わる。驚きと不安が混じり、彼女は口を開いた。 「修、それって......彼たちに迷惑にならないかしら?」 「俺はいいと思うけど?」 西也が不意に口を挟み、雅子の言葉を遮った。 その声に、若子は驚いて西也を見つめる。 西也は修に向き直り、わずかに顎を上げながらこう言った。 「そうだよな。こんな機会、めったにない」 そして、今度は若子をまっすぐに見つめる。 「若子、大丈夫か?」 一応、彼は若子の意見を求める形を取っていた。 「西也、私は......」 彼女は断ろうとしたが、西也が彼女の手をぎゅっと握りしめる。 そして、期待と懇願が入り混じったような瞳で若子を見つめた。 その眼差しに、若子は何かを感じ取る。 もし彼女がここで断ったら、今日はうまく切り抜けられたとしても、後で西也は一人で悶々と考え込むだろう。 それなら、いっそ今日のうちに彼の不安を吐き出させた方がいい。 若子は西也の目を見つめ、ゆっくりと頷いた。 その様子を見ていた修は眉をひそめる。 若子と西也が目と目で会話しているような、そんな親密な雰囲気が、彼の胸に焼けるような痛みを走らせた。 けれど、修はその感情を表には出さず、平静を装った。 若子は修に向き直り、小さく頷きながら言った。 「それじゃ、いいよ」 若子と西也の同意を受けて、雅子の顔は苦々しいものになった。 何か言いたそうにしていたが、修に一瞥を送ると、何も言えなくなる。 この状況はもうどうしようもない。余計なことを言えば小さい人間だと思われるし、彼女には修の気持ちがある程度わかっていた。 だから、これ以上修を刺激する勇気はなかった。 彼女は以前、修を怒らせるような言葉を吐いたことがある。それで修の忍耐を使い果たしてしまったのだ。 今ここで無駄口を叩けば、完全に見限られてしまうかもしれない―そう考えた雅子は、仕方なく黙ることを選んだ。 一方、そばで様子を見守っていた店のマネージャーは、客同士の話がうまくまとまったことに安堵の息をついた。 その後、マネージャーは四人を静かな個室に案内した。 席についたばかりの頃、若子が立ち上がりながら言う。 「ちょっとお手洗
若子は頷いた。「うん」 「若子、まだ彼を愛してるのか?」西也は冷静に尋ねた。 その問いを受けて、若子は顔を上げて言った。「彼とはもうすぐ十一年になるわ。昔からずっと愛してた。でも、あんなにたくさんのことが起きて、彼の行動に心が疲れてしまった。今は、彼のもとには戻りたくない」 西也の目には、心からの痛みが浮かんだ。 「西也、ちょっと気になることがあるの。どうして彼と一緒に食事するのか、あなたは......」 若子は言いかけて止めたが、その視線には疑問が浮かんでいた。 「彼をもう一度知りたかったんだ」西也は言った。「もしかしたら、前の記憶を取り戻す手助けになるかもしれない。若子、心配しないで。彼と争うつもりはない。ただ、お前の前夫がどんな人だったのか、知りたいだけなんだ」 「......」 少しの間の沈黙の後、若子は再び口を開いた。「西也、修はまだ私が妊娠していることを知らないから......」 「俺は言わない。だって、彼にはその資格がないから」西也は若子の細い肩を優しく掴んだ。「若子、どんなことがあっても、お腹の中の子は俺の子だ。俺はその子を自分の子として大切にするから、心配するな」 彼女は自分がどれほど幸運だったのか、西也に出会えたことを信じられないほど感じていた。彼がしてくれたことには、心から感謝していたが、現実は冷静に告げてきた。自分と彼は、決して同じ未来を歩むことはできないんだと。 彼女にはもはや、誰かを愛する力もなかった。 若子はただ頷くことしかできなかった。 修はレストランのテーブルに座り、何度も時計を見ていた。 雅子はその様子を見て、修が少しイライラしていることに気づいた。「修、どうしたの?ちょっと様子を見てこようか?」 修は冷たい表情を崩さずに言った。「いい、行かなくていい」 その言葉が終わると、修は洗面所の方向をちらりと見て、冷たい声で言った。「行ってくる」 彼が立ち上がろうとしたその瞬間、少し離れたところから西也と若子の姿が見えた。 修はその瞬間立ち上がりかけた体をすぐに座らせ、いつも通り冷静な表情を取り戻した。まるでイライラしていたことなどなかったかのように。 すべてを見ていた雅子は、内心で不安を感じていた。彼女は自分の衣服を無意識に引きつけ、目にはわずかな怒りの色が
「見た感じ、桜井さんと藤沢さんもよくお似合いですね。長い付き合いなんですか?」と西也が尋ねた。 「ええ」雅子は微笑みながら答えた。「修とは長い付き合いよ」 「10年くらいですか?」西也は首を傾げながら疑問を口にした。「俺の若子と藤沢さんは10年の付き合いですよね?」 その場の空気が一瞬固まり、若子はそっと西也の手を引き、もうこの話題をやめるよう示した。 修は明らかに不快そうな視線を西也に送っていたが、西也の目的はすでに達成されていた。彼の心の中には妙な満足感が広がっていた。 「すみません、ウェイターさん」西也が声を上げると、マネージャーがスタッフを連れてきた。 若子はそのスタッフの顔を見て、少し驚いた表情を浮かべた。「あなたは......」 美咲も同じように驚いた顔を見せた。「松本さん、遠藤さん、こんにちは」 彼女もここで二人に会うとは思っていなかった。 修は美咲に目を向けて、「どうして、お前たち知り合いなのか?」と尋ねた。 若子は西也をちらりと見て、何かを言おうと口を開いたが、修と雅子がいることを考えて結局黙り込んだ。 その様子を見て、西也は不思議そうに尋ねた。「どうしたんだ?」 西也は美咲の顔をじっと見つめたが、どこかで見たような気がするものの、その記憶を思い出すことができなかった。いや、彼女は記憶に残すほどの相手ではないとすら思った。 美咲も困惑しながら、西也に記憶がない様子を見て納得した。彼のような人物が自分を覚えていなくても不思議ではないし、前回の出会いも少し気まずいものだったからだ。 確か、彼は「好きな女の子」がいると偽り、その名前が偶然にも美咲だったため、彼女に芝居を頼んだ。実際に彼が好きだったのは、目の前の若子なのだろう。 若子は少し笑みを浮かべて言った。「特に何もないわ。高橋さんとは以前少し会ったことがあるだけ。ここでまた会えるなんて思わなかった」 「なるほど」マネージャーが口を挟んだ。「彼女はうちの優秀なスタッフなんです。ぜひお席を担当させていただきますね」 若子は軽く頷いた。「ええ、お願いします」 四人はそれぞれメニューを手に取り、料理を選び始めた。 「西也、何を食べたい?」若子が尋ねた。 「お前は何を食べたいんだ?」西也は逆に問いかけた。 若子はメニューを見な
若子の冷たい視線はまたしても修の胸を刺した。彼は口元を引きつらせ、少し力なく言った。「そうか。本当に羊肉を食べるつもりか?」 「別にいいじゃない。羊肉は美味しいわ。西也が好きなら、私も好きになる」若子は顔を西也に向け、「じゃあ、羊肉を注文しましょう」と続けた。 若子のその様子は、明らかに意地を張っているように見えた。西也もそれに気づき、少し迷った。彼女が本当に羊肉を好きになったのかは分からなかったが、以前嫌いだったものを無理に食べさせるのは気が引けた。 「若子、やっぱり羊肉はやめよう。別のものを食べよう。何か食べたいものを頼んでくれ」 若子も羊肉を食べたくはなかった。さっきの発言はただの意地だった。しかし冷静に考えれば、無理に食べて反応を見せてしまえば、修の思う壺になりかねない。 彼女はメニューをじっと見つめたが、なかなか何を選ぶべきか決められなかった。 「赤ワイン煮込みのビーフシチューにしろ」突然、修が口を開いた。「それが一番好きだっただろう」 修はそのままスタッフに向き直り、「俺は赤ワイン煮込みのビーフシチューを頼む。お前もこれでいいはずだ」と言った。 若子は眉間にわずかな皺を寄せ、明らかに不機嫌そうだった。「この男、いつも挑発ばかりしてくる」 「赤ワイン煮込みなんて、もう飽きてる」若子は冷たく言い放ち、「トロピカルシーフードグラタンを二つお願いします」と美咲にメニューを返した。 修は眉をひそめた。「そうか、飽きたんだ。じゃあ、何なら飽きないんだ?」 若子は冷ややかに笑みを浮かべ、「どうしてあなたに言う必要があるの?あなたが何か関係ある人なの?」と返した。「藤沢さん、まずは隣の彼女を気遣ったらどう?」 雅子はぎこちなく笑いながら、「じゃあ私も赤ワイン煮込みにする。それと赤ワインを一本お願いね」とスタッフに注文した。そして四人に向けて問いかけた。「皆さんも何かお酒を飲みますか?」 「いりません」若子と修が同時に答えた。 二人の言葉が重なり、目が合った。お互い数秒間、そのまま硬直した。 雅子の笑顔が一瞬硬くなった。「どうして?お酒は飲まないの?」 修はふと笑みを浮かべ、若子をじっと見つめた。その目には、先ほどの冷たさが消え、どこか柔らかな光が差していた。 その様子を見た西也は何かがおかしいと感じた。
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった