西也は心配そうな顔をしながら、若子の手をしっかりと握りしめた。 「若子、怒らないで。大丈夫だから。俺は平気だよ。彼もきっとわざとじゃなかったんだ」 彼の言葉には勝利の確信があった。どんな状況でも、若子は自分の味方だった。自分こそが若子の夫であり、修はどこまで行っても若子に捨てられた過去の男にすぎない。 西也は心の中で強く決意していた。この男が再び若子を奪うことは決して許さない。どんな代償を払ってでも、若子を離さないと誓っていた。 一方、修はそんな西也を見つめ、眉間に深いしわを刻んだ。表情を次々と変える西也―陰険な一面と、哀れみを誘う弱々しい一面―そのどちらも修には到底信じられなかった。 若子がこんな男と暮らしているなんて......どうなるんだ? 修は心の中で考えた。西也が本当に記憶喪失でこうなったのか、それともこれが彼の本性なのかはわからない。だが、一つだけ確かなことがあった―この男は危険だ。 「西也、行きましょう。病院に行って診てもらったほうがいいわ」 若子は心配そうに言った。西也の状態はもともと良くないのに、頭を打ったことでさらに悪化する可能性があると考えていた。 修は拳を強く握りしめ、その骨が鳴る音が聞こえるほどだった。そして突如として若子の腕を掴み、彼女を自分の方へ振り向かせた。 「若子!彼はお前を騙してるんだ!見てわからないのか?あれは自分でわざと倒れて、お前を騙そうとしてるんだ!」 「放して!」若子は必死で腕を振りほどこうとした。 その様子を見るやいなや、西也が声を荒げて叫んだ。 「放せ!」 だが、修は若子を抱き寄せると、そのまま数歩後退して西也の手の届かないところへ避けた。 「お前みたいな男、本当に見苦しいな」修は冷たく嘲笑した。 「そんな卑劣な手段を使うなんて、呆れたよ。俺は若子が幸せならそれでいいと思ってた。少なくともお前が彼女を傷つけないならな。でも今は違う。若子をお前のような男の手に渡すわけにはいかない。お前には彼女を守る資格なんてない!」 「修、あなた、正気じゃないの?」若子は怒りを露わにしながら言った。 「放して!桜井さんもここにいるのよ!彼女を怒らせるつもり?」 「どうでもいい!」修は一切の迷いもなく叫んだ。その言葉に、雅子は心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚
若子は急いで西也のそばに駆け寄り、その手首を掴んで連れて行った。 西也は歩きながら振り返り、修を一瞥すると、口元に得意げな笑みを浮かべた。そして若子の腰に手を回し、親密に寄り添う。 「若子!」修は追いかけようと数歩進んだが、途中で急に立ち止まった。 ダメだ。このまま衝動的に追いかけても、また言い争いになるだけだ。前のように無駄に揉め続けるだけで、問題は一つも解決しない。むしろ、状況はどんどん悪くなるばかりだ。 若子は今、自分が西也を傷つけたと信じ込んでいる。しかも、今の状況では西也の方が完全に優勢だ。それは修も認めざるを得なかった。 このまま追いかけても、何も得るものはない。むしろ若子の自分への嫌悪感をさらに煽るだけだ。 どうする?どうすればいい? そうだ、一人、頼れる相手がいる。彼なら― 修は思い切ったように玄関の方へ向かって歩き出した。 「修、どこに行くの?」 雅子が追いかける。 修は振り返りもせずに言った。 「ここで待ってろ。迎えを呼ぶから。俺は用事がある」 「修、修!」 修の歩みは速く、雅子はどうしても止めることができない。その場で悔しそうに足を踏み鳴らした。 「松本のせいよ......!全部彼女が悪いんだから!」 その様子を少し離れた場所から見つめる一人の男性。サービススタッフのような装いをしているが、その目には冷笑が浮かんでいた。 男はポケットからスマホを取り出し、雅子に電話をかける。 スマホの着信音に気づいた雅子はバッグから取り出し、耳に当てた。 「もしもし」 「雅子、やっぱり君は役に立たないな。藤沢を繋ぎ止めることもできないなんて」 「あんた......!」雅子はすぐに問い詰めるように言った。 「今どこにいるの?お願いだから助けて。松本を殺してくれない?彼女さえいなくなれば......あなたの望むこと、何だってするから!」 「今まで君のためにいろいろしてきたけど、君は何一つ結果を出してないよ。それなのに情敵を始末しろなんて。俺は君の道具じゃない」 「じゃあ、どうすればいいの?交換条件が必要なら教えて。私たちは仲間でしょう?」 「本当は君に頼みたいことがいくつかあったんだが、時間が経つにつれて、君はどんどん使えないと分かってきた。修だってもう君を気にして
若子の言葉を聞いた西也は、ふと胸に罪悪感のようなものを覚えた。そして修が言っていたことを思い出す。 もしかして自分は今、若子に守られているだけの存在になってしまったのか? それに今日やったこと―修をちょっと懲らしめて、彼の鼻っ柱を折りたかっただけのつもりだったけど、かえって逆効果になったんじゃないか? 修は自分の行動のせいで、若子を奪い返したい気持ちをさらに強めてしまったのだろうか......? 西也はあの時、ただ修に一発お見舞いして、大人しくさせたかっただけだ。彼のあの傲慢な態度をどうにかしたくて。けど、もし今回の件が裏目に出てしまったら、自分にとっても何一つ良いことはない。 若子は西也がぼんやりしているのを見て、慌てて声をかけた。 「西也、どこか他に痛むところがあるの?何でもいいから言って」 「いや、そうじゃない」西也は首を振った。「ただ、あいつが俺の想像と違っただけだ」 「どういうふうに違うの?」若子が尋ねると、西也はこう答えた。 「俺にとって、あいつはただの他人だ。これまでのことは何も覚えていないし、今日が初対面みたいなものだ。でも、俺の中ではあいつは最低な男だと思ってたんだ。実際に会うまではね。だけど、あいつを見た時、全然違ってた。認めたくないけど、あいつは優秀な男だ。スーツ姿も様になるし、女が寄ってくるのも分かる」 「西也、そんなこと言わないで。どんなに見た目が良くても意味がないでしょ?私はもう離婚してるの」 「違う、俺が言いたいのはそれじゃない」西也は少し焦ったように続ける。 「俺が思ってたのは、あいつはただのクズで、浮気を繰り返してお前を裏切ったような奴だってこと。でも、今日会ってみて、あいつがお前に対して特別な感情を持ってるように感じたんだ。俺の想像してたみたいに、お前を軽く見てるわけじゃない。むしろ、お前を取り戻そうとしてるように見えた......それが愛情なのか、それともただの所有欲なのかは分からないけど」 西也の目に不安の色が浮かんでいるのを見て、若子は急いで言った。 「西也、そんなことないわ。気にしないで。彼が私を取り戻すなんて絶対にあり得ない。それに私も彼のところには戻らない」 「本当に?お前、本当に心が揺れたりしないのか?たとえ、あいつが頭を下げて頼んでも」 「実際に頼まれ
西也が口を開いた。 「食事はお口に合ったか?」 美咲はうなずきながら答えた。 「とても美味しいです。ごちそうさまでした」 「お前は若子の友人だ。つまり俺の友人でもあるからな。もちろん、ちゃんと招待するのが筋だ。ただ......」 西也が「ただ」と言いながら言葉を切った。 美咲は少し首を傾げて尋ねる。 「ただ、何ですか?」 西也は箸を置き、真剣な表情で続けた。 「高橋さん、率直に言うけど、どうもお前がここに来た時から、若子が俺たちを二人きりにしようとしている気がするんだ。まるで、俺たちが以前から親しい間柄だったみたいに......俺たちって、以前会ったことがあるのか?」 その言葉に戸惑った美咲は、一瞬、本当のことを伝えるべきか迷った。けれども、若子のことを考えると、どうにも言葉が出なかった。 西也は、記憶を失っていながらも持ち前の鋭さで何かを感じ取ったのか、さらに問いかけた。 「高橋さん、何か言いたいことがあるなら、隠さずに教えてほしい。お前も分かるだろ、今の俺の状況を。俺は本当にすべてを知りたいんだ」 「松本さんは全部教えてないんですか?」美咲は驚いたように聞き返した。 西也は苦笑いを浮かべながら答える。 「少しは話してくれたけど、完全じゃない。きっと俺を気遣ってくれてるんだろうけど、それが逆に俺を過保護にしてる気がするんだ。正直、過保護にされるのは好きじゃないんだ。だから、高橋さん、もし知ってることがあれば教えてくれないか?」 美咲はちらりとドアの方を見やった。若子がまだ近くにいるかもしれないと思ったからだ。 美咲のためらいに気づいた西也は立ち上がり、 「ちょっと待って」と言うと、ダイニングを出ていった。 わずか一分も経たないうちに戻ってきた西也は、笑いながら言った。 「高橋さん、確認したけど、若子は裏庭に行ったよ。お前も分かるだろ、彼女はまた俺たちを二人きりにしようとしてるんだ。俺には本当に分からない。俺の妻である彼女が、どうしてこんなにも俺たちを安心して放っておけるのか......」 西也は苦笑いを浮かべたが、その胸中では自分が何を知っているのかを確信していた。若子との結婚が偽物だということ―あの日、彼女と成之の会話を盗み聞きしてしまったのだ。それは西也にとって晴天の霹靂だった
西也の頭には何も記憶がなかった。記憶を失っているとはいえ、美咲に対しては一切の感情が湧かない。 若子に関する記憶もなくなっていたが、彼女への「想い」だけは鮮明に残っていた。もし本当に美咲を好きだったなら、記憶がなくなったとしても感情まで消えてしまうものだろうか? いや、たとえその感情が薄れていたとしても、実際に彼女に会ったときに何も感じないなんてことがあり得るだろうか? 西也が困惑した表情を浮かべているのを見て、美咲が口を開いた。 「あなたは彼女を騙しているんです。本当は私のことなんて好きじゃない。本当は彼女が好きなのに、それを言えなくて、代わりに『高橋美咲が好き』って言いましたよ。そして偶然、私の名前が高橋美咲です」 美咲は続ける。 「以前、松本さんはあなたの好きな人に会いたいと言っていたんだと思います。それであなたの妹さんが私を代役として連れて行ったのでしょう。私もあの時は本当に何が起きているのか分からず、ただ困惑していました。でも、よく考えると、多分そういうことだったんだろうと今になって思います」 美咲の話を聞き終えた西也は、しばらく黙り込んだ。腕を組み、椅子の背もたれに寄りかかると、じっと美咲を見つめる。眉間には深い皺が刻まれ、その顔は真剣そのものだった。 美咲はその沈黙に不安を覚え、慌てて言い足した。 「これはあくまで私の推測です。絶対に正しいとは言い切れません。だから、あまり真に受けないでください。あなたが記憶を取り戻せば、自然とすべて分かるはずですから」 西也は少し考え込み、ようやく口を開いた。 「お前の推測、当たってると思う。そういうことなんだろうな。ようやく分かったよ―どうして今日、若子が俺たちを二人きりにしたがっていたのか。きっとお前が俺の記憶を取り戻す手助けをしてくれると思ったからだろう。彼女は俺が本当にお前を好きだと信じているから」 西也は苦い笑みを浮かべ、首を振った。 「若子ったら、全然分かってない。確かに彼女のことを覚えてないけど、彼女に対する気持ちだけは忘れてないのに」 そして彼はうつむき、力なく呟いた。 「いや......分かっているんだ、きっと。だけど逃げてるんだろうな。ちょうど俺が『好きな人がいる』なんて嘘をついたから、彼女もそれを都合良く受け入れて、俺から距離を取る口実
「ありがとう、高橋さん。お前は本当にいい人だと思う。俺の嘘のせいで巻き込んでしまったことを謝りたい」 西也は礼儀正しくも誠実で、全く偉そうな態度を見せない。 「気にしないでください。別にわざとじゃないですし」 美咲も柔らかい笑みを浮かべながら答える。彼女の中で西也への印象は悪くない。それどころか、失われた記憶の前でも今でも、彼の品の良さや魅力が自然と女性を惹きつけるのだと感じていた。 「とはいえ、やっぱり迷惑をかけたのは事実だ。今日お前がこうして話してくれて、俺の疑問もいくつか解けたよ。だから、何か俺にできることがあれば教えてくれ。お礼をしたいんだ」 その誠実な態度を前に、美咲はふと頭に浮かぶことがあった。 彼女が少し考え込む様子を見て、西也が尋ねる。 「どうした?何か言いたいことがあるなら、遠慮なく話してくれ」 「実は......一つだけ気になったことがあります。今日の昼、レストランで食事していた時のことですが......あなたたち四人の間、なんだか変な雰囲気でした。それに、あの桜井という女性―最初、あなたのことを普通の人と見ているようで、少し見下している感じがありました」 西也は頷きながら言う。 「ああ、俺も感じた。あいつには妙な優越感があった。俺を下に見ているような態度だったな。でも、お前がそう言うなら、ますます確信が持てた」 美咲は話を続けた。 「でも、私が『遠藤総裁』って言った後、彼女が私のところに来て、あなたがどういう人なのか尋ねてきました。それで、あなたが雲天グループの総裁だと伝えたら、すごく驚いていました」 西也は薄く笑みを浮かべる。 「あの女、見るからに俗っぽい奴だな。お前に何か嫌がらせとかされなかったか?」 美咲は少し気まずそうに笑いながら答えた。 「直接的に何かされたわけじゃないです。ただ、たぶん彼女が店長に頼んで、私を解雇させたんだと思います。昼食が終わった後、店長から急に辞めてくれと言われましたから」 西也の表情が険しくなる。 「それ、桜井がやったんだな?」 「多分、他に思い当たる人はいません。私は普段から真面目に仕事をしてきましたし、店長もお客さんのせいだとは明言しなかったけど、状況的にそうだと思います」 西也は冷たい目で呟く。 「陰湿な女だな......
遠くからその様子を見ていた若子は、ほっと息をつくと、ゆっくりと二人の元へ歩み寄りながら言った。 「ごめんなさい、友達から電話があって、久しぶりに話し込んじゃったの。すごく楽しそうに話してたみたいね」 「そうだよ。高橋さんって、本当に話してて面白い人だ。彼女と話してると、気持ちがすごく楽になるんだ」 西也がそう言いながら柔らかな笑みを浮かべると、それを見た若子も自然と微笑んだ。 若子は西也の隣に腰を下ろし、その明るい表情を見て、今日は高橋さんと西也を二人きりにして正解だったと感じた。 やっぱり好きな女性の前だと違うんだな、と彼女は心の中で思った。西也は美咲と一緒にいると、本当にリラックスしている。二人は案外お似合いかもしれない。 夕食の間、若子は頻繁に席を外した。トイレに行ったり、ちょっと用事があると言ったりして、ほとんどの時間を二人だけで過ごさせた。その結果、この夕食はずいぶんと長引いた。 食事が終わっても、若子は美咲をすぐには帰そうとせず、彼女を引き止めて会話を続けた。 そして時折、話題を二人に振り、自分はそっと会話の輪から外れて静かにしていた。 西也が美咲と話している様子は、若子にとってはとても微笑ましく映った。西也が美咲に本当に心を開いているのか、それとも若子の気持ちを気遣って、あえて美咲と話を合わせているのかは分からなかった。それでも、二人の会話が弾んでいるのは確かだった。 そんな様子を見て、若子は思った。もしかして高橋さんも西也を気に入っているのではないか?高橋さんが彼をきっぱり拒絶したなんて、本当だろうか?どこかに誤解があるのでは......? 気づけば、夜はすっかり更けていた。美咲ははっと我に返り、驚いた。気づけば西也とこんなにも長い時間話し込んでしまっていた。しかも、彼の妻である若子がすぐそばにいる状況で― それどころか、この状況そのものが若子によって意図的に作られたものだと考えると、改めて妙に滑稽に思えてしまう。 美咲はちらりと時計を確認し、口を開いた。 「もう遅いので、そろそろ失礼します」 「もう帰りますか?」若子は少し残念そうに尋ねた。 「ええ、さすがにもう遅いので、そろそろ失礼します」 若子も時計を見てうなずいた。 「確かに遅いですね。本当にごめんなさい、こんなに引き止め
美咲はわずかに口元を引きつらせながら、静かに尋ねた。 「本当にそう思うんですか?」 若子はすぐに頷いて答えた。 「ええ、本当にそう思います」 「......嫉妬とかしないんですか?あなたは彼の奥さんなんでしょう?たとえ、お二人が......」 若子は軽く笑いながら言った。 「私が何を嫉妬するんですか?心配しないでください。嫉妬なんてしませんよ。だって私と彼は本当の夫婦じゃありませんし、むしろ彼が自分にぴったりの女性を見つけてくれることを願っています。高橋さん、あなたは本当に彼にふさわしいと思いますよ。彼があなたをそんなに好きなのも分かる気がします。以前、彼が私にあなたの話をしたとき、本当に嬉しそうで、それと同時に少し悲しそうでもあって......きっと彼にとって、あなたの存在は特別なんでしょうね。誰かを好きになるって、そういうものなんだと思います」 その言葉を聞いて、美咲は心の中で少し気まずさを覚えた。どう答えていいか分からず、視線をそらす。 ―本当にこの子は、どうしてこんなに鈍いのだろう。遠藤さんが好きなのはあなただというのに、どうして気づかない?もし彼が本当に私を好きだったなら、私は絶対に彼を拒まない。それだけ魅力的な人だもの。拒絶できるのは、あなただけよ、この鈍感さん...... 若子が少し首を傾げて尋ねた。 「高橋さん、どうしましたか?何か気になることがあれば教えてください。私で力になれることなら何でもします。それとも、どこか具合が悪いとか?」 「いえ、そうではなくて......」美咲は言葉を選びながら答えた。 「ただ、私はお二人がすごくお似合いだと思うんです。もしかして......彼はあなたが思っているほど私のことを好きじゃないのかもしれませんよ。むしろ、あなたと一緒にいる方が幸せなんじゃないですか?」 その言葉に若子は一瞬動揺したようで、微笑みが少し引きつった。 「高橋さん、誤解しないでください。私と西也はただの―」 美咲は少し真剣な声で遮るように言った。 「松本さん、正直に答えてほしいんです。彼があなたと一緒にいるのを好きだと思いませんか?」 若子は小さく息をついて答えた。 「確かに彼は私にとても優しいです。でも、西也は記憶を失っていますから......それで、私に対して依存してい
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声