「ずいぶん怒ってるね」電話の向こうから、気の弱そうな声が響いた。「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか。怖いよ、怖がらせると手が震えるかもしれないよ?もしそのせいで、彼女の首に何かしちゃったらどうする?」 修は怒りに燃え、拳を握りしめる。その握力で骨が鳴る音が聞こえた。 「若子はどうしている?彼女に傷一つでもついていたら、俺は―」 「脅す気?」男は彼の言葉を遮った。「藤沢総裁、状況をちゃんと理解してほしいね。若子は僕の手の中だ。僕がどうするかは僕次第さ。君が『彼女に触れるな』って言えば言うほど、僕は逆に触れたくなるんだよね。そういう性分でさ、言われたことと逆のことをしたくなる、反抗的な性格なんだ」 修は深呼吸をして怒りを抑え込み、低い声で尋ねた。「何が目的だ?何を望んでこんなことをしている?何か俺に恨みでもあるのか?」 一瞬、相手は黙り込んだ。 その沈黙に、修はある可能性を悟る。「俺たち、どこかで会ったことがあるか?俺とお前の間に何か因縁でもあるのか?もし何か恨みがあるなら、俺に向ければいいだろう。女性を巻き込むなんて、男らしくない真似だ」 「僕が彼女をいじめてる?君、何言ってるんだ?僕が彼女をいじめるわけないだろう!」男はわざとらしく憤慨し、その勢いで続けた。「もう知らない!これから遠藤西也に電話して、君の奥さんを探させてやる!」 そう言い残して、男は一方的に電話を切った。 修は怒りに満ちた声で悪態をつき、すぐさまその番号にかけ直したが、聞こえてきたのは「ツー、ツー」という無機質な音だけだった。すでにその番号は使えなくなっていたのだ。 修はすぐに矢野にスマホを手渡し、命じた。「この番号を追跡しろ!」 だが時間が経っても、何も分からなかった。その番号は仮想のもので、発信元を突き止めることすらできなかった。 監視カメラにも、犯人の痕跡は全く映っていない。まるで、犯人が時空を超えたかのように、どこにも存在していなかったのだ。 ―こいつ、果たして人間なのか?それとも何か別の存在なのか? 修はじっとしていられず、ふとあの男の言葉を思い出した。「遠藤西也に電話する」と言っていたが、どうにも気が進まない相手だ。しかし若子を救うためには、彼を頼らざるを得ない。 修は電話を手に取り、嫌々ながらも西也に連絡をした。 西也
「若子の安全がかかっていることは分かっている」修は冷静を装いながら答えた。「だからこそ、お前に電話したんだ。だが、その犯人がまだお前に連絡していないなら、この話を続けても意味がない。先に切らせてもらう」 「待て!」西也が声を上げて彼を引き止めた。 「何だ、まだ何かあるのか?」修は苛立ちを隠さず問い返す。 「もし、犯人がまたお前に連絡してきたら、必ず俺にも知らせろ!」 修は少し黙った後、しっかりとした口調で言った。「お前もだ。もし犯人がそっちに連絡したら、俺に知らせろ。何があっても若子の安全が最優先だ。協力すれば、少しでも可能性を高められる。過去の因縁はその後に片付ければいい」 「分かった」西也も承諾した。「約束だ。俺たちのどちらかに情報が入ったら、必ず知らせ合おう」 電話が切れると同時に、西也は怒りを爆発させ、スマホを床に叩きつけた。 「藤沢修、そんな話、信じるわけがないだろう」 ...... 時間は無情に過ぎていく。午前0時を過ぎても、修は一睡もせず待ち続けていた。 犯人は夜間に動く可能性が高い。取引を持ちかけてくるとしたら、この時間帯だ。 修は椅子に座ったまま、窓の外を眺める。その目は疲れ切っているが、鋭い光を失わなかった。 朝になっても、警護チームからは何の連絡もなかった。西也からも同様だ。 もし犯人が西也に連絡を取ったとして、西也がそれを伝えない可能性は十分にある。しかし、修には確かめる術がない。問いただしても西也が隠し通せば意味がないし、犯人が西也に接触していないなら、そもそも無駄だ。 修は、この無力感に苛まれていた。かつて若子を失ったとき、彼はただ自分の心が傷ついただけだった。彼女が無事でいると知っていたからこそ、それは耐えられる痛みだった。 しかし今、若子が命の危険にさらされている。彼女がどんな恐怖に直面しているのか想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。 修は心の底から祈った。もしできることなら、自分の命と引き換えに若子を救いたいとさえ思った。 「若子、お前は今どうしているんだろう?」 修は天井を見上げ、月の光に目を向けた。「神様がいるなら、どうか彼女を守ってくれ。俺に何をさせてもいいから、彼女を無事でいさせてくれ」 普段は神も仏も信じない修だが、このときだけは、その存在にす
「その通りだよ」男は薄く笑いながら言った。「僕はただ楽しんでいるだけさ」 そう言いながら、黒い手袋をはめた手で若子の顔をぐっと掴み、その目を無理やり閉じさせるように押さえつけた。 「何をするつもり?」彼に目を閉じろと言われるほど、若子はますます閉じられなくなった。目を閉じた瞬間、何をされるのか想像もつかない。 そんな彼女の心の中を見透かしたように、男が低い声でささやく。 「僕が君に何かしたいと思ったら、目を開けていたって無駄だよ。大人しく言うことを聞くんだ」 両手で顔を包み込むように押さえ、その圧力で若子の頬は変形しそうだった。 「お腹の中の小さな子を気をつけないとね」 その言葉は柔らかく、声のトーンも穏やかだったが、その実、言葉一つひとつに残酷な冷たさが滲み出ていた。若子は抵抗することもできず、仕方なく目を閉じた。 男は彼女の顔から手を離すと、目隠しを取り出してその目に布を巻きつけた。視界を奪った後、彼女の腕をつかんで強引に部屋から連れ出す。 どこへ向かっているのか分からない。車に乗せられ、どれほど走ったのかすらも知る由がなかった。時間の感覚をすっかり失い、ただ無力感に包まれていた。 やがて車が止まり、男は彼女を車外に降ろした。続いて、彼は若子を肩に担ぎ上げ、どこかへ連れて行く。辿り着いたのは冷たい空間。鉄柱のようなものに縛り付けられた。 質問をしても無駄だ―若子は悟った。この男が話す気がない以上、どんな問いも意味を持たない。そう考えて、口を閉ざした。 男が去り、静寂が訪れる。しばらくして、隣の部屋から女性の悲鳴と懇願の声が聞こえてきた。 「お願い、もう許して!言われた通りにやったじゃない!」 その声を聞いた瞬間、若子は驚愕する。 ―この声、蘭の声じゃないか? 彼女は耳を澄ました。声はすぐ近くから聞こえている。壁一枚を隔てた隣だろうか。 「ドンッ!」鈍い音とともに、何かが床に倒れる音が響く。それに続いて、女性の叫び声。 「ぎゃあああ!」 若子の胸が強く脈打った。緊張が全身を駆け巡る。 「お願いだから、もうやめて!言われた通りにやったのに!あなたは約束してくれたじゃない!」蘭が床に膝をつき、懇願の声をあげている。 「僕が何を約束したって?」男が冷たく問い返す。 蘭は泣きながら答え
若子は蘭の絶叫を聞きながら、内心では恐怖を感じていた。それでも、蘭の末路は自業自得だと思う。悪人には悪人なりの裁きがある、ということなのだろう。 ギャンブルに溺れ、借金を山のように抱えた挙句、自分の姪を誘拐するために犯人と手を組むなんて、到底許されることではない。 悲鳴は何分も続き、やがて蘭の声が次第に弱まり、ついには聞こえなくなった。 「クソッたれが!」男が荒い息をつきながら悪態をついた。どうやら疲れたらしい。だが、それでも苛立ちは収まらないようで、彼は蘭を再び蹴り上げた。 「見ろよ、君のせいで僕が汚い言葉を使っちまったじゃないか。僕って、こんなに品がある人間なのに、どうして君みたいなやつに引きずり下ろされるんだ?」そう言いながら、また一言罵った。「くそっ!」 「おい、まただ!くそっ!」彼は怒りに任せ、近くにあった瓶を掴むと、蘭の頭に叩きつけた。 「僕に汚い言葉を使わせる奴は、全員死ぬべきだ!」 「ガシャーン!」瓶が割れる音が鋭く響き、破片が床一面に飛び散った。その音はまるで鋭利な刃物のように、若子の耳を刺す。 その後、足音がこちらに近づいてきた。若子は身震いし、全身が緊張でこわばる。やがて目隠しが外され、明るい光が彼女の目に飛び込んできた。 あまりに長く暗闇にいたため、光が眩しくて目がくらむ。数秒後、ようやく目が慣れた若子は、目の前に立つ男の姿を見た。そのマスクには血が付いている。それが蘭の血であることは間違いなかった。 若子の呼吸は浅くなり、目には恐怖が宿った。「あなた......私をどうするつもり?」 「どうする?」男は突然大声で笑い出した。「それなら君が教えてよ。どうされたいか、言ってみなよ」 「私が言うの?」若子は弱々しい笑みを浮かべながら答えた。「私、痛めつけられたくないの。できるなら、ここから解放してくれると嬉しいけど」 「松本若子、君は本当におかしいよね。僕がこんなに手間をかけて君をここに連れてきたのに、解放するためだとでも思ってるのかい?どうしてそんなに能天気なんだろう?」 「だって、あなたが『言え』って言ったからよ」と若子は言い返した。「だから答えたのに、あなたはまた怒る。何なの?」 「僕が聞きたかったのは、どうやって痛めつけられたいか、だよ。解放してほしいなんて言葉は聞いてない!」男
若子は息を詰めながら尋ねた。「どんなゲームをするつもり?お願いだから、私の子供を傷つけないで」 男はゆっくりと彼女の前に歩み寄り、顔を低くした。手のひらを彼女のわずかに膨らんだお腹にそっと当てながら、柔らかい声で問いかける。 「君の子供?それとも藤沢の子供?」 「私の子供よ、そして彼の子供でもある」若子はきっぱりと答えた。「何があっても、この子に罪はないわ。お願いだから、傷つけないで」 「ずいぶんその胎児を大事にしてるんだね」男はくすっと笑った。「なのに、なんで君は藤沢に妊娠を伝えないんだろう?」 若子は返す言葉を失った。 この男、何もかも知っている......まるで彼女や修の周囲にいた人間のようだ。だが、彼が一体誰なのか、若子には見当もつかなかった。 「どうしたの?怖くて言えないの?だったら、彼がここに来たときに僕から教えてあげようか?」 「彼に連絡したの?」若子は即座に問い返した。 「その目つき、彼が来ることを期待してるんだね?」 男はさらに顔を近づけ、黒いマスクが彼女の視界を覆った。その異様な姿に、若子は無意識に顔を背けた。 「彼はもう別の女と結婚したわ。彼を呼んでも無駄よ。やめておきなさい」 「へえ、そう言うなら余計に試してみたくなるな」 男はそう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出し、番号をダイヤルした。 電話の向こうで応答音が数回鳴った後、通話が繋がった。「もしもし」 男はスピーカーモードをオンにし、修の声が部屋に響いた。 「お前か?」修の声が少し苛立っている。 若子の瞳には一瞬、困惑の色が浮かんだ。 その瞬間、男が話し始めた。「藤沢総裁、こんにちは」 男の声を聞いた修は即座に問いただす。「若子はどうなってる?彼女は無事なのか?条件は何でもいい。言え、お前の望みを」 若子はその言葉を聞いて、修がすでに彼女が誘拐されたことを知っていると悟った。 彼はどうやってそれを知ったのだろう? もしかして、この男が直接修に知らせたのだろうか? そう考えると、すべてが腑に落ちる。 「いつまで黙ってるつもりだ?」修の苛立ちが声に滲む。「彼女を捕まえて、何が目的だ?」 「藤沢、ひとつ質問させてよ」男は笑いを含んだ口調で話した。 「何だ?」 「彼女は君が助けに来る
「確かに俺は前夫だ。でも、お前も調べているだろう?俺と若子は10年の付き合いだ。たとえ離婚しても、俺たちは家族のようなものだ。それに比べて遠藤の奴よりも、俺のほうが信頼できるはずだ。話があるなら、俺に直接言え。わざわざあいつを巻き込む必要はない」 「へえ、そうなんだ?」男は興味を引いたような口調で続けた。「でもさ、昨日の深夜、もう彼には連絡済みなんだよね。彼には松本さんの状況を伝えたけど、すごく心配してたよ。彼も君と同じことを言ってた。『何でもするから、若子を解放してほしい』ってね。それを聞くと、どうも君より彼のほうが熱心に見えるけど?」 「お前があいつに連絡したのか?」修の眉間に深い皺が寄った。 「信じられない?」 修は呼吸が荒くなった。 やはり西也は、何も教えてくれなかった。お互いに情報を共有すると約束したはずなのに。だが、そんなことは最初から期待していない。西也のような人間が情報を独占したがることなど、分かりきっていた。 修は短く息を吐き出し、静かに言った。「分かった。もしお前が何か変なゲームをしようっていうなら、俺が相手になる。でも、若子の安全を保証してくれ」 「はははは!」男は突然笑い声を上げた。「やっと分かってきたみたいだね。いいねえ、金の話をしないっていうところが素晴らしいよ。僕はゲームが大好きなんだ。金なんてつまらないものより、ゲームのほうがずっと刺激的だ」 男の笑い声を聞きながら、修は確信した。この男は紛れもない異常者だ。あの誘拐犯たちの無惨な死に様を見れば分かる。こんな奴にとって金銭なんて関係ない。 彼にとって価値があるのは、他人を苦しめることで得られる快感だけだ。それはどんな大金よりも彼を興奮させるに違いない。 「ということは、藤沢総裁、君は僕のゲームに付き合う覚悟があるってこと?」 「ああ、その通りだ」修は毅然と答えた。「何が望みだ?」 「そうだな......何をしようか考えてみるよ」 「その前に若子の声を聞かせろ。彼女が無事かどうか、確認しないとどうにもならない」修は言葉に力を込めた。「もし若子が死んでいたら、お前がどこに隠れていようが、この世の果てまで追い詰めてやる」 「いいよ」男はあっさりと承諾すると、スマホを持ったまま若子の前に歩み寄った。「君の前夫が話をしたがってる。彼に元気だ
「聞こえた?」男は不気味に笑いながら言った。「君の前夫が君と話したがってるよ。早く話したらどうだい?君が何も言わないと、彼は君が死んだと思い込んで、僕とゲームをする気を失くしちゃうかもしれない。そうなると、僕が機嫌悪くなっちゃうけど?」 若子はそれでも沈黙を保っていた。彼女は修に何を言えというのだろう? 今の彼女の状況を伝えたところで、それが修にとってどれだけの負担になるかを考えると、口を開く気にはなれなかった。 この状況、修が彼女を助けようとするのは間違いないだろう。しかし、それだけは避けたかった。彼が来れば、きっと良い結末にはならない。 彼女の命を救うために修が命を落とせば、その後、彼の家族はどうなるのか。祖母も彼の両親も、彼がいなければ生きていけない。そんなことは、絶対に許されない。 「このクソ野郎!まさか若子を殺したのか?」修の怒りが声に滲み出る。 だが、若子は依然として口を開かなかった。このままでいい―彼が自分を死んだと思ってくれれば、助けに来ることもなくなる。 そのとき、突然鋭いナイフの刃が彼女の腹に向けられた。光を反射した刃先が、恐怖を突き立てるように輝いている。 男が彼女に顔を近づけ、耳元で冷たい声をささやく。「お腹の中の赤ちゃん、いらなくなったのかい?」 若子の唇は震え、視線は男が手にしたスマートフォンの画面に向けられていた。 追い詰められた彼女は、震える声で絞り出すように言った。「修......私はまだ生きてる」 若子の声がスピーカー越しに響くと、修はようやく息をついた。「若子!大丈夫か?ケガはないか?奴に何かされたのか?」 若子は一瞬、息を呑んだ。そして、冷たくきっぱりと言い放った。「桜井さんと結婚するんじゃなかったの?なんで結婚式をキャンセルしたのよ?私と離婚したのはそのためでしょ?もう呆れるわ。もし私のためにキャンセルしたっていうなら、そんなこと感謝しないから!私は戻らない!」 彼女はわざときつい言葉を選びながら話した。修に失望させるためだ。そうすれば、彼は彼女を助けに来ようとしないだろう。この男は誘拐犯たちよりも危険だ。修が来れば、彼がどんな目に遭うか分からない。 彼女の冷酷な言葉を聞き、修の心は鋭く痛んだ。 だが、誰がこんな状況で、救いを拒むだろう?それが意味するのはただ一つ―
「よく考えてね。君は一人で来るしかない。もし誰かを連れてきたのを僕が見つけたら、その場でこの女の腹を裂いて―」 男はそこで言葉を止め、ちらりと若子を見やった。その目は底知れない不気味さを帯びている。 若子の心臓は喉元まで跳ね上がりそうだった。この男、まさか彼女が妊娠していることを修に伝えるつもりなのか? 男は再び口を開いた。「その先の光景は、君が想像してみてよ」 「誰も連れて行かない」修は怒りを必死に抑えながら答えた。「彼女には指一本触れるな。お前の言う通りにする」 「いい子だね」男は満足げに笑い、続けた。「じゃあ、今から住所を送るよ。ちゃんと大人しくするんだよ?」 そのとき、若子は必死で声を上げた。「修!来ちゃだめ!」 彼女の言葉が録音されると同時に、男は電話を切った。 男は若子の目の前に近づき、大きな手で彼女の顎を掴み、無理やり顔を上げさせると、冷たく嘲笑するように言った。「こんな姿になってまで、まだ前夫を守ろうとするのか? ......どうして彼に妊娠のことを言わなかったの?」 さっきの電話のとき、男は「腹を裂いて」と言いかけ、明らかに彼女の妊娠に触れるつもりだった。だが、結局その部分を省略したのだ。 もし修が妊娠の事実を知ったら、あの男はどう反応するだろう?若子は恐ろしくて想像すらしたくなかった。修はすでに十分な心配を抱えているのだ。 「そんなこと、どうして僕が言わなきゃいけないの?」男は口元に笑みを浮かべた。「それは君の秘密だろ?僕はね、人のプライバシーを勝手に暴露するのが嫌いなんだよ。すごく礼儀正しい人間だからね。だから、もし君に何か秘密があって、それを黙っていてほしいなら、絶対に誰にも言わないさ」 その口調は穏やかで、妙に信頼を感じさせるものだった。だが、彼のこれまでの行動を目の当たりにした若子には、その言葉が虚しい響きにしか聞こえなかった。 「修に何をするつもりなの?」若子は声のトーンを下げ、静かに尋ねた。この男は、強く当たると余計に反発するタイプだと彼女も理解していた、だから強気に出るのは得策ではない。 「うーん、分からないなあ」男は少し考えるような仕草をし、顔をほころばせた。「そういうのって、現場で考えるのが好きなんだよ。今から計画を立てるなんて、僕の性に合わない」 「じゃあ、つまり
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声