会議はおよそ一時間半ほど続いた。 会場には市の幹部や主要産業の代表、そして金融界の重役たちが集まっていた。 終了後、成之は何人かと軽く言葉を交わしながら、ロビーに立っていた。 「村崎さん、ご一緒に食事でもどうですか?」 そう誘われた瞬間、彼の視線はふと遠くに現れた光莉の姿を捉えた。 「先に行ってください」 そう言い、軽く手を挙げると、彼は彼女のほうへ向かった。 少しして、光莉がハンドバッグを持って彼の前に立つ。 成之は彼女を上から下までさっと見渡し、眉を寄せた。 「......あまり元気がないようですが、昨晩はよく眠れませんでしたか?」 会議中、彼女がどこか上の空だったことに気づいていた。 光莉は軽く笑って肩をすくめる。 「ちょっと夜更かししちゃったみたいで。でも、村崎さんのスピーチ、とても勉強になりました」 少なくとも、退屈な決まり文句の羅列ではなかった。 多くの幹部は、長々と話しているように見えて、中身は何もないことが多い。 台本なしではまともに話せない者も少なくない。 だが、成之は違う。無駄な言葉を一切使わず、どんな場でも的確に話せる。 「先ほど、皆さんが食事に行くと言っていましたが、ご一緒にいかがですか?」 「私は遠慮しておきます」 光莉は微笑みながら首を振った。 「では、僕も行きません」 「え?」 彼女は驚いたように彼を見上げる。 「どうして?」 「大した話もないのに、ただのご機嫌取りばかり。もう聞き飽きました。静かに昼食をとりたい気分です。どこか良い店はありませんか?」 成之は淡々とした口調で言う。 冗談ではなく、本気らしい。 光莉は少し考えた後、尋ねる。 「どんな料理がいいですか?中華?和食?洋食?」 「中華がいいですね。ほかはあまり口に合わなくて」 「それなら、良いお店があります」 光莉はバッグから名刺を取り出し、彼に渡す。 「ここは特に特色のある料理が多くて、ほかの店ではなかなか食べられない味ですよ」 成之は名刺を受け取り、ちらりと目を通す。 「ここなら、そんなに遠くないですね。一緒に行きませんか?」 光莉は少し口元を引きつらせる。 「......私と食事を?」 成之は軽く頷く。 「ええ。お時間はあ
光莉は礼儀正しく微笑んだ。 「プレッシャーというほどではありませんが、確かに少し緊張しています」 今までにも幹部クラスの人と食事をする機会は何度もあった。 だが、成之は今まで出会ったどの人物とも違っていた。 他の人なら、一目見ればどんなタイプか、おおよその好みまで察することができる。 けれど、成之は違った。彼の考えを掴むことができない。 彼の視線を受けるたび、なぜか緊張してしまう。まるで、その目が彼女を見透かし、溶かしてしまうような錯覚に陥る。 生きてきた中で、光莉はそう簡単に勘違いをするほど天真爛漫ではない。 成之が自分に特別な感情を抱いているとは思っていない。 だが、それでも心の奥底で、彼の視線にはどこか違和感を覚えずにはいられなかった。 「なぜ緊張するのですか?伊藤さんに厳しくすると思われていますか?それとも、何か難しいお願いをするのではと?」 成之の声は穏やかで、礼儀正しく、どこまでも上品だった。 光莉は微笑みながら答える。 「村崎さんとご一緒する以上、慎重にならざるを得ません」 成之はゆっくりと視線を落とし、しばらく沈黙した後、静かに言った。 「そんなに気を遣わなくていいですよ。普段通り接してください。伊藤さんに迷惑をかけるつもりはありませんし、困らせるつもりもありません。ましてや、伊藤さんの意思に反することを強要するつもりもありません。ただの食事です。もし本当に気が重いのであれば、この場を離れても構いませんよ」 その口調は、どこまでも紳士的だった。 だが、光莉はこんなことで退席するつもりはなかった。 「村崎さん、お気遣いいただきありがとうございます。正直に言うと、ご一緒できることは光栄に思っています」 「そんなに形式ばった言い方をしなくてもいいですよ。光栄かどうかはともかく、銀行の支店長ともなれば、毎日忙しいでしょう。むしろ、こうしてお時間をいただけることは、僕にとってありがたいことです。僕は金融の専門家ではありませんから、いろいろと教えていただきたいと思っています」 光莉は、これまでに数多くの権力者と接してきた。 しかし、地位が高く、かつ謙虚で品のある人物には、滅多に出会わない。 多くの人間は、そのどちらか一方を持っているだけでも十分立派な方だ。 だが、成之はど
成之は軽く頷いた。 「どうぞ、ごゆっくり」 光莉はスマートフォンを持ったまま個室を出ると、わずかに苛立ちながら通話を繋げた。 「......今度は何?」 電話の向こうから、優しげな声が響く。 「お前のネックレスが昨夜、俺のところに落ちていたよ。今どこにいる?届けに行こうか?」 高峯の声だった。 光莉はスマートフォンを握りしめる。手のひらにじんわりと汗が滲んだ。 しばらく沈黙した後、低く問いかける。 「......どうしたら、私を解放してくれるの?」 この間ずっと、高峯は彼女を脅し続けていた。 あの夜、彼は無理やり彼女を侵した。そして、その一部始終を録画していた。 最初は必死で抵抗していた。 けれど、回数を重ねるうちに、光莉の心は次第に麻痺し、反抗することすらなくなっていった。 そして、その映像の中で、彼女が抵抗しなくなった瞬間を切り取った高峯は、それを武器に脅してきた。 ―まるで、自分から受け入れたかのように。 彼は、その映像を藤沢家の人間に見せると脅している。 高峯は狂人だ。破滅を恐れない。 だが、光莉は藤沢家がこの事実を知ることを恐れていた。 もし彼らが知れば、事態は取り返しのつかないことになる。 彼女がどれだけ傷つこうと、それ自体はもうどうでもよかった。 ―ただ、藤沢家の人たちが巻き込まれるのだけは避けたかった。 だから、高峯が「会いに来い」と言うたび、光莉はその要求に従った。 たとえ、その先にどんな屈辱が待っていても。 「これでいいじゃないか?光莉、俺はもう結婚しろなんて言わない。ただ、たまには俺の相手をしてくれればそれでいい。俺は、お前を藤沢曜だけのものにはしない」 「......いい加減にして。これ以上、しつこくするなら......」 「西也のこと、知りたくないか?」 光莉が言葉を続けようとした瞬間、高峯が遮るように言った。 「......っ」 彼女の手が震える。 「......彼が今、海外でどう過ごしているか。知りたくはないのか?」 「......あの子はあんたの息子よ。私が知る必要なんてないわ」 「強がるな、光莉」 電話の向こうで、くすりと笑う声が聞こえる。 「お前はずっと西也を気にしているじゃないか。息子だと打ち明
昼食の時間は、終始穏やかで和やかだった。 最初、光莉は少し緊張していたものの、成之はとても気さくな態度で接してくれた。 次第にその空気に引き込まれ、自然と会話も弾んでいく。 話題はビジネスや金融のことから、互いの趣味や興味、さらにはこれまでの面白い体験談にまで広がった。 気がつけば、二人はすっかり打ち解けていた。 何度か、光莉は成之の言葉に思わず笑ってしまった。 そのたびに、成之は優しい目で彼女をじっと見つめていた。 まるで、彼女の笑顔そのものを楽しんでいるように。 だが、光莉がその視線に気づきそうになると、彼はさりげなく目を逸らし、何事もなかったかのように表情を引き締めた。 食事を終えた後も、二人はしばらく会話を続けていた。 気がつけば、もう午後二時を回っていた。 光莉はふと時計を見て、驚いたように言う。 「......もうこんな時間ですね。村崎さん、私、かなりお時間を取らせてしまいましたね?」 成之は静かに微笑んだ。 「いえ、むしろ僕のほうこそ、伊藤さんの貴重な時間を奪ってしまったのでは?」 光莉は礼儀正しく微笑む。 「そんなことはありません。まさか、こんなに話が合うなんて思いませんでした」 成之は、今まで光莉が会ってきたどの幹部とも違った。 彼は礼儀正しく、常に相手に配慮している。 ただ権力を持っているからといって横暴になることもなく、相手を見下すような素振りもない。 たとえ、給仕が皿を取り替えたり、ナプキンを差し出したりしたときでも、必ず「ありがとう」と言葉を添える。 そんな気遣いを自然にできる人間は、そう多くはない。 ―きっと、彼はとても魅力的な人なんだ。 けれど、不思議なことに、彼は今まで一度も結婚していないらしい。 子どももいない。 おそらく、その人生をすべて仕事に捧げてきたのだろう。 だが、こういう男性は未婚であろうと、決して女性に困ることはない。 権力と地位を持つ男たちの中には、結婚していても影で遊び歩く者が少なくない。 彼らの世界では、それが「当たり前」のことだった。 高級レストランや夜の社交場では、光莉も何度もそんな場面を見てきた。 名のある俳優や女優たちが、まるで「飾り」のように男たちの腕に絡みついているのを。 ―この世
光莉の頭の中で、一瞬にして何かが弾けた。 目を大きく見開き、驚愕のまま目の前の男を見つめる。 成之は目を閉じ、まるでこの瞬間を楽しむかのように、余裕すら感じさせる表情を浮かべていた。 光莉の体は硬直し、まるで動けなくなってしまった。 拒むことも、押し返すこともできない。 ―どうして?力が入らない...... すると、次の瞬間― 強い力で壁際へと押し倒される。 「っ......!」 成之の唇が、さらに深く彼女を貪るように重なる。 大きな手が肩を押さえ、さらに下へと滑り落ちる。 もう片方の手は彼女の腰を抱き寄せ、背中へと回る。 ―逃げなきゃ...... そう思うのに、体が言うことを聞かない。 全身の力が抜け、膝が震える。 壁に押し付けられながらも、彼に支えられなければ立っていることすら難しかった。 唇が重なり続ける中で、光莉の思考はだんだんとぼやけ、すべてが遠のいていくような感覚に陥る。 まるで、自分のものではないかのように。 そんなときだった。 腰に回された大きな手が、ぐっと強く彼女の肌を掴んだ。 その刺激に、光莉はハッと我に返る。 「......っ!」 全身の力を振り絞り、成之を突き飛ばした。 「......はぁ、はぁ......っ」 息を荒くしながら、光莉は成之を睨むように見上げる。 成之もまた、彼女をじっと見つめ返していた。 その視線には、深い感情が渦巻いていた。 光莉は慌てて服を整え、胸の高鳴りを必死に抑えようとする。 成之はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。 「......ごめんなさい。つい、抑えきれませんでした」 その口調は淡々としていた。 まるで、謝罪というよりも、「事実の確認」のように。 ―彼は悪びれていない。 彼はただ、「欲望に抗えなかった」と言っているだけだった。 本来なら、この行為は許されるものではない。 それなのに、なぜか光莉は怒ることができなかった。 ―怒りよりも、怖い。 ―この場から逃げ出したい。 「......大丈夫ですか?」 成之が手を伸ばそうとする。 光莉は、反射的にその手を避けた。 「......大丈夫です」 成之は手を引っ込め、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「すみません、村崎さん。私の考え違いかもしれません。ただ......」 光莉は、どう言葉を続ければいいのかわからなかった。 ―なんだか、現実離れしている。 「謝る必要はありませんよ。むしろ、謝るべきなのは僕の方です」 成之はふっとため息をついた。 「......僕たちの間には何か特別な感情があると思っていました。でも、僕の勘違いだったようですね。僕は、随分と愚かだったようです」 「......違います!」 光莉は咄嗟に否定した。 その瞬間、成之の目がかすかに光る。 だが、次の瞬間には、再び落ち着いた表情を浮かべる。 「違うんですか?」 彼の声はどこか沈んでいた。 「つまり、僕たちは―」 ―しまった。 光莉は一瞬、自分の発言が罠にかかったことに気づいた。 ―この人、ただのビジネスマンじゃない。駆け引きが上手すぎる。 「村崎さん、私が言いたかったのは......」 言葉を選びながら、慎重に続ける。 「人間、誰しも勘違いすることはあります。それは決して愚かなことではありません」 彼女の直感が告げていた。 ―この人には、深入りしない方がいい。 「すみません、そろそろ失礼します。では、また」 光莉はその場を去ろうと、くるりと背を向ける。 「......本当に『また』ですか?」 成之の声が、背中越しに届いた。 「そのままの意味で、また会えるということでしょう?」 光莉の足が止まる。 どう答えればいいのか、言葉が見つからない。 「......私、夫とは仲が良いんです」 最終的に、彼女が選んだのはその言葉だった。 成之は、微かに口角を上げる。 「......そうですか。でも、僕が聞いた話は、少し違いますね」 光莉の心臓が跳ねる。 ゆっくりと振り返り、睨むように彼を見つめた。 「......私のことを調べたんですか?」 「わざわざ調査をしたわけではありません」 成之は淡々と言う。 「そういう趣味はありませんから。ただ、少し耳に入っただけです......伊藤さんとご主人の関係は、それほど良好ではないと聞きました。彼は、伊藤さんを裏切ったことがあるのでは?」 光莉の胸に、鈍い痛みが走った。 過去の傷が、再び疼く。 「......失
「本当かい?それなら、すぐに電話しておくれ」 華は嬉しそうに言った。 しかし、光莉は眉をひそめ、すぐに口を挟む。 「修、今すぐ若子に電話するつもり?今は忙しいかもしれないわ」 まるで、修が若子に電話をかけたら、この世の終わりでも来るかのような顔をしている。 修は何も言わず、そっと華の手を離すと、ポケットからスマホを取り出した。 そして、皆の前から離れ、別荘の玄関へ向かう。 光莉は慌てて追いかけた。 修はすでに連絡先を探していた。 「......本当に若子に電話するの?」 彼女は息を呑む。 ここまできて、もし修が突然連絡を取れば、すべてが水の泡になる。 過去と同じ繰り返し、終わりのない泥沼へ逆戻りするだけ。 「俺が若子に連絡するの、そんなに怖い?」 修の声には、どこか棘があった。 「違うの。そんなつもりじゃないわ、ただ......」光莉は言葉を選びながら続ける。「ただ、あんたがまた傷つくんじゃないかって、それが心配なだけよ」 「心配無用だ」 修は冷たく言い放つ。 「傷つこうがどうしようが、それは俺の問題だ。俺はもう子供じゃないんだから、母さんに守ってもらう必要はない」 光莉は申し訳なさそうに俯く。 「......修、ただ、またあの関係に戻ってしまうのが怖いのよ」 その言葉に、修の中で怒りがふつふつと湧き上がった。 だが、それを抑え込むように、無言のまま電話をかけ、スマホを耳に当てた。 光莉は息を詰まらせる。 彼が何を話すつもりなのか、気が気でなかった。 奪い取ってでも止めたい―でも、それはさすがにやりすぎだ。 もし彼と若子がまた関われば、修、若子、そして西也の関係はますますこじれる。 その混乱は、以前よりも酷いものになるだろう。 そんな不安の中、電話が繋がり、修が口を開いた。 「......もしもし、山田さんか」 「......!」 光莉は驚いて顔を上げる。 ―「山田さん」? 「ちょっと頼みがあるんだ」 相手の返事を聞き、修は続ける。 「俺のおばあさんが、元妻に会いたがってる。でも、彼女は今ここにいない。お前は少し似ているから、代わりに会いに来てくれないか?」 数秒の沈黙の後、修は言った。 「じゃあ、車を手配する。今どこに
侑子が部屋に入ると、全員の視線が彼女に集中した。 光莉は、その顔を見た瞬間、目を見開いた。 ―似てる...... 曜もまた、驚きを隠せない様子だった。 だが、彼らは分かっている。この女性はあくまで「似ている」だけで、若子本人ではないことを。 華はソファに座ったまま、うとうとしていた。 修が彼女に近づき、そっと身を屈める。 「おばあさん、若子が来ましたよ」 その言葉を聞いた途端、華はぱっと目を開いた。 視線を向けると、そこには見覚えのある顔。 しばらくの間、呆然と見つめる。 けれど、何か違和感を覚えたのか、眉をひそめた。 部屋は静まり返った。 ―まさか、ここにきて正気に戻ったりしないだろうか。 「おばあさん、若子に会いたいって言ってたでしょう?ほら、来てくれましたよ」 修はもう一度、優しく言った。 「......あぁ、若子、大きくなったねぇ」 華は手を伸ばす。 「こっちへおいで、おばあさんに顔を見せておくれ」 侑子は少し緊張しながら、修の方を見た。 修は静かに頷き、安心させるような視線を送る。 侑子は勇気を出して華の隣に座り、微笑んだ。 「おばあさん、会いに来ましたよ」 「まぁ、なんていい子なんだろうねぇ......」 華はそっと侑子の頬に触れる。 「しばらく見ない間に、また大きくなって......おばあさん、もうあんたの顔を見分けられなくなっちゃうよ」 侑子は笑みを浮かべながら、静かに答えた。 「最近、食べすぎちゃったのかもしれませんね。ごめんなさい、おばあさん、なかなか会いに来れなくて......」 「いいのさ、みんな忙しいんだからな」 華は微笑みながら、ふっと息を吐いた。 「でも、こうして元気な姿を見られただけで、おばあさんは安心したよ......そうだ、あんた、今は大学生だろう?」 侑子は頷く。 「はい、大学に通っています」 「うん、えらいえらい」 華は満足げに頷いた。 すると、彼女は修を手招きする。 「修、あんたもこっちへ来なさい」 修は少し戸惑いながら、彼女のそばに近づく。 「おばあさん、どうしましたか?」 「立っていないで、若子の隣に座りなさい」 修は口元を引きつらせるが、ここで逆らうわけにはいか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった