Mag-log in子供のことを考えるたびに、前の結婚まで一緒に思い出してしまう。
そのことに気づいてから数日。
佳苗の中で何かが劇的に変わったわけではなかった。
ただ、以前よりは自分の気持ちを見分けられるようになった気がする。
怖い。
だから嫌なのだと、すぐに決めつけなくなった。
◇
土曜日。
佳苗は雄吾と買い物に出ていた。
「これ、なくなりそうだったよね」
日用品売り場で洗剤を手に取る。
「ああ」
「詰め替えでいい?」
「いいんじゃないか」
「じゃあ、これ」
カートへ入れて、そのまま歩く。
特別なことなど何もない休日だった。
途中、子供用品の売り場の前を通った。
小さな靴。
動物の耳がついた帽子。
以前なら、特に気に留めなかったはずなのに、今日は自然と目が向いた。
「
子供のことを考えるたびに、前の結婚まで一緒に思い出してしまう。 そのことに気づいてから数日。 佳苗の中で何かが劇的に変わったわけではなかった。 ただ、以前よりは自分の気持ちを見分けられるようになった気がする。 怖い。 だから嫌なのだと、すぐに決めつけなくなった。 ◇ 土曜日。 佳苗は雄吾と買い物に出ていた。「これ、なくなりそうだったよね」 日用品売り場で洗剤を手に取る。「ああ」「詰め替えでいい?」「いいんじゃないか」「じゃあ、これ」 カートへ入れて、そのまま歩く。 特別なことなど何もない休日だった。 途中、子供用品の売り場の前を通った。 小さな靴。 動物の耳がついた帽子。 以前なら、特に気に留めなかったはずなのに、今日は自然と目が向いた。「小さい」 思わず呟く。 雄吾もそちらを見た。「靴か?」「うん。こんなに小さいんだね」「赤ん坊ならそんなもんだろ」「そうなんだけど」 佳苗は少し笑った。 黄色い靴を手に取る。 手のひらに乗りそうなほど小さい。「可愛い」「欲しいのか?」「え?」「それ」「あ、靴?」「他に何がある」「びっくりした……」 佳苗は靴を棚へ戻した。 何を聞かれたと思ったのか。 自分で分かってしまって、少しだけ気まずくなる。「どうした?」「なんでもない」「そうか?」「うん。行こう」 先に歩き出すと、雄吾がカートを押してついてくる。 そのまま別の売り場へ移った。 それだけだった。
翌朝になっても、佳苗の中には昨夜考えたことが残っていた。 子供が嫌なのではない。 雄吾との子供を想像することさえ、本当は嫌ではない。 ただ、そこに昔の記憶が重なってしまう。 妊娠していた頃のことだけを、きれいに切り取ることができない。 あの頃の自分が感じていたことも、最後に知ったことも、全部がひとつながりになっている。 だから、子供のことを考えると苦しくなる。 それが分かっただけでも、昨日までとは少し違った。「佳苗、今日は遅いのか?」 コーヒーを飲んでいた雄吾に聞かれて、佳苗は時計を見る。「たぶん普通。月末前だから、少し残るかもしれないけど」「夕飯は?」「遅くなるなら連絡する」「分かった」 いつもの会話だった。 佳苗はバッグを手に取ってから、雄吾を見る。「……なに?」「ううん」「なんだよ」「なんでもない。行ってきます」「行ってらっしゃい」 玄関を出てから、佳苗は小さく息を吐いた。 今朝はまだ、うまく話せそうになかった。 ◇ その日の夜。 夕食を終えて、雄吾が食器を片づけているときだった。「雄吾」「ん?」「この前の、子供の話なんだけど」 雄吾が振り返った。「私、やっぱり前の結婚のこと、まだ引きずってるのかもしれない」 口にすると、思っていたより自然に出てきた。「もう終わったことだし、今は全然違うって分かってるんだけどね。子供とか、家族とか、そういうことを考えると……なんか、あの頃の嫌な気持ちまで一緒に出てくるみたい」「そうか」「うん」 雄吾はそれ以上、何も聞かなかった。 佳苗は少し迷ってから続ける。「でも、雄吾との子
子供を産むことが怖い。 そう思っていたけれど、本当にそれだけなのだろうか。 佳苗は最近、何度も同じことを考えていた。 子供が欲しくないのかと聞かれれば、分からない。 雄吾との子供を想像したことはある。 雄吾に似た男の子。 自分に似た女の子。 美佐子が楽しそうに話していた光景を思い出せば、そんな未来も悪くないと思う。 むしろ、少し見てみたい。 それなのに。 そこから先を考えようとすると、胸の奥が重くなる。 ◇ 夜。 雄吾が風呂に入っている間、佳苗は一人でベッドに横になっていた。 前の人生でも、子供が嫌だったわけではない。 妊娠したと分かったときは驚いた。 けれど、少しずつ大きくなるお腹を見ながら、生まれてくる日を待っていた。 初めて胎動を感じた日のことも覚えている。 お腹の中で動いた。 ただそれだけのことが不思議で、何度も手を当てた。 名前はどうしよう。 どんな子になるだろう。 悟はどんな父親になるのだろう。 そんな未来を、当たり前のように考えていた。 幸せになるのだと思っていた。 それなのに。 佳苗は目を閉じた。 思い出そうとしたわけではない。 けれど、子供のことを考えていると、いつもそこへ辿り着いてしまう。 身体から力が抜けていく中で聞いた声。 悟と、恵。 自分が知らなかった二人の関係。 そして――もう、自分は必要ないのだと知った。「……」 佳苗は目を開けた。 雄吾との子供を考えていたはずなのに。 いつの間にか、悟と恵の声を思い出している。 雄吾は悟ではない。 そんなことは分かっている。 佳苗が妊娠したからと
翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はコーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていた。「おはよう」「おはよう」 昨夜のことを引きずっているのは、自分だけらしい。 雄吾はいつもと変わらない。「母さんから連絡来てる」「何て?」「昨日会った人から、昔の俺の写真を送ってほしいって言われたらしい」「どうして?」「知らない。孫が俺に似たらどうとか、まだ盛り上がってるんじゃないか」「ふふ」 佳苗は笑った。 やっぱり美佐子は楽しみにしている。 でも、それを嫌だとは思わなかった。 ただ、胸の奥が少しざわつくだけだ。 ◇ 会社へ行けば、いつもの仕事が待っていた。 午前中に請求書を処理し、午後からは契約書類の整理をする。 昼休みには、先日一緒に食事をした同僚から声を掛けられた。「榊原さん、今日どうする?」「外行こうかな」「じゃあ一緒に行こう」 会社の近くの定食屋へ入る。 今度は子供の話も出なかった。 仕事の愚痴を言って、期間限定のメニューをどちらが頼むか迷って。 佳苗はようやく、以前のような時間が戻ってきた気がした。「そういえば、来月の研修どうする?」「申し込むつもり」「私も。終わるの遅いんだよね」「でも内容は面白そうじゃない?」「そうなんだよねえ」 来月。 その次の月。 仕事の予定なら、何の抵抗もなく先のことを考えられる。 なのに子供のことだけは、考えようとすると身体が固くなる。 その違いが、自分でも不思議だった。 ◇ 帰宅途中、ドラッグストアへ寄った。 シャンプーを買うだけのつもりだった。 目的の商品を籠に入れ、レジへ向かおうとしたと
子供の話をしてから数日。 佳苗の気持ちは、ひとまず落ち着いていた。 今すぐ答えを出す必要はない。 そう思えるようになっただけでも、ずいぶん楽になった。 その週末、佳苗と雄吾は美佐子に誘われ、三人でホテルのレストランを訪れていた。「そうでしたの。職場の方も、少し落ち着いてきたのね」「はい。まだちょっと気まずい人はいますけど、仕事は普通にできてます」「それならよかった。せっかく佳苗さんが続けたいと思っているお仕事ですものね」 食事をしながら、最近の出来事を話す。 デザートが運ばれてきた頃、近くの席にいた年配の女性がこちらに気づいた。「あら、美佐子さん。お久しぶり」「まあ。ご無沙汰しています」 どうやら美佐子の知人らしい。 しばらく近況を話したあと、女性の視線が佳苗へ向いた。「こちらが雄吾さんのお嫁さん?」「ええ。佳苗さんです」「榊原佳苗です。初めまして」「まあ、おめでとうございます」「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに笑った。「じゃあ、美佐子さんも次はお孫さんね」「あら、そうなのよ」 美佐子の顔がぱっと明るくなった。「まだ何も聞いていないんですけどね。いつか孫の顔を見られたらいいなと思っているの」「楽しみでしょう?」「もちろん。男の子でも女の子でも可愛いでしょうねえ」 佳苗は笑顔のまま、二人の会話を聞いていた。「雄吾さん、小さい頃は可愛かったものね」「今は?」「今も可愛いわよ。母親から見ればね」「いらない、その情報」 雄吾が嫌そうな顔をして、二人の女性が笑う。「佳苗さんに似た女の子も可愛いでしょうね」「まあ、それは絶対に可愛いと思うわ」「母さん、まだできてもないから」「想像するくらいいいでしょう?」「俺を巻き込むな」 いつもの親子のやり取りに、佳苗も思わず笑った。「男の子だったら、雄吾さんみたいになるのかしら」「それも楽しそうですね」「でしょう?」 美佐子はすっかり楽しそうだった。 そこへ知人が何気なく続ける。「会社のことを考えたら、跡継ぎも必要でしょうしね」「ああ、それもあるわね」 美佐子も深く考えずに頷いた。「まあ、今は男の子でなくてもいいのでしょうけど」「母さん」「何?」「話が早すぎる」「まだ何も決まってないのに、先のことばっかり言うなよ」「あら、ごめん
帰宅すると、雄吾はまだ帰っていなかった。 佳苗は着替えを済ませ、冷蔵庫から飲み物を取り出した。 いつもならテレビでもつけるところなのに、今日はその気になれない。 ソファに座ると、昼間の言葉がまた浮かんだ。『跡継ぎとか言われそう』 雄吾はそんなことを一度も言っていない。 結婚前に子供の話をしたときも、佳苗が怖いなら無理をする必要はないと言ってくれた。 それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。「ただいま」 玄関から声がした。「おかえり」 佳苗が立ち上がると、リビングへ入ってきた雄吾がすぐに足を止めた。「どうした?」「何が?」「なんかあっただろ」「……そんなに分かりやすい?」「分かりやすい」 少し迷ってから、佳苗はソファへ座り直した。「今日、会社で子供のこと聞かれた」「子供?」「妊娠してるのかって。ちょっと疲れて見えたみたい」 雄吾の眉が寄る。「また会社で何か言われたのか?」「違う違う。今回はそんな感じじゃないよ」 佳苗は慌てて否定した。「普通の雑談。聞いた人もすぐ謝ってくれたし」「ならいいけど」「それでね」 佳苗は膝の上で指を組んだ。「雄吾が会社の社長だから、跡継ぎとか言われそうって」「誰に?」「その人に。雄吾じゃないよ」「俺は言わない」「分かってる」 佳苗は小さく笑った。「分かってるんだけど……ちょっと怖くなった」 雄吾が隣に座る。 何も言わず、続きを待ってくれた。「前に子供のこと話したでしょう?」「ああ」「そのときは、まだ先のことだと思ってた。でも結婚したら、周りか
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。