LOGIN「やっと捕まえた」
耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。
捕まえた。
その言葉は、優しいのにどこか危険だった。
「榊原、先輩……?」
佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。
その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。
「佳苗!」
苛立った声。
悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。
「何やってんだよ」
だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。
「……誰?」
警戒した声音。
雄吾は答えない。
ただ静かに佳苗の前へ立った。
庇うように。
その背中の広さに、佳苗は息を呑む。
「佳苗、こっち来い」
悟が手を伸ばす。
反射的に佳苗の肩が震えた。
すると雄吾の目がすっと細くなる。
「触るな」
低い声だった。
けれど空気が一瞬で張り詰める。
悟もそれを感じたのか、眉をひそめる。
「……は?」
「聞こえなかったか」
雄吾は冷たく言い放った。
「その手で、もうこいつに触るな」
佳苗は目を見開く。
悟の顔が引きつった。
「何なんだよ、あんた」
「榊原雄吾」
短く名乗る。
その瞬間、悟の表情が変わった。
「榊原……って、まさか」
知らないはずがない。
榊原グループ。
国内有数の巨大企業。
若くしてグループを掌握した冷徹CEO――それが榊原雄吾だ。
「……なんでそんな人が佳苗と」
悟の声に焦りが混じる。
佳苗自身も同じ気持ちだった。
どうして。
どうしてこの人が、自分なんかに。
「関係ないだろ」
雄吾は淡々と言った。
「今は俺が話している」
その圧に、悟が一瞬言葉を失う。
けれどすぐに苛立ったように舌打ちした。
「佳苗、帰るぞ」
「……帰りません」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
悟が目を見開く。
「は?」
「今日は帰りたくない」
「何ガキみたいなこと言って――」
「嫌なの」
佳苗は震える手を握り締めた。
「今、あなたと一緒にいたくない」
空気が凍る。
悟は信じられないものを見るような顔をした。
「……佳苗、お前」
そのとき。
雄吾が佳苗の肩を引き寄せた。
ふわり、と高級な香水の香りがする。
「話は終わりか?」
「っ……!」
悟の顔が歪む。
自分の妻が他の男に触れられている。
それが気に食わないのだろう。
――どの口が。
佳苗は胸の奥で冷たく笑った。
妹と不倫していたくせに。
「佳苗!」
悟が再び手を伸ばす。
だが雄吾はそれを遮るように佳苗を車へ乗せた。
「乗れ」
「え、でも……」
「ここにいたいのか?」
低い声。
佳苗は息を詰まらせた。
マンションの前。
怒った悟。
逃げ場のない空気。
前世の恐怖が蘇る。
「……っ」
佳苗は小さく首を振った。
「なら乗れ」
その声は強引なのに、不思議と安心した。
佳苗は震える足で車へ乗り込む。
ドアが閉まる。
外の空気が遮断された瞬間、全身の力が抜けた。
すぐ後に雄吾も乗り込んでくる。
「待てよ!!」
悟が車へ駆け寄る。
だが雄吾は窓越しに冷たい視線を向けただけだった。
「出せ」
運転手が静かに車を発進させる。
遠ざかっていく悟の姿。
怒鳴っている。
けれどもう声は聞こえない。
佳苗は呆然と窓の外を見つめた。
本当に。
本当に出てきてしまった。
結婚生活を。
悟のいる家を。
「……後悔してるか」
隣から低い声がした。
佳苗ははっと顔を上げる。
雄吾がこちらを見ていた。
暗い車内でも分かるほど、鋭い目。
けれどその奥にある感情だけは読めない。
「……分かりません」
正直に答える。
怖い。
不安だ。
でも、家に残ることの方がもっと怖かった。
「そうか」
雄吾は短く呟いた。
それから、佳苗の手元へ視線を落とす。
強く握り締めすぎて、指先が白くなっていた。
「力を抜け」
そう言って、雄吾の大きな手が佳苗の手に重なる。
「っ……」
「安心しろ」
低く、静かな声。
「もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない」
佳苗の胸が、大きく揺れた。
母との電話から数日後。 佳苗のもとへ、今度は恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、今大丈夫?』「うん。どうしたの?」『お母さんから変なこと言われた』「変なこと?」『しばらく私から連絡しないでって』 佳苗は眉を寄せた。「どうして?」『お姉ちゃんがいつ気づくか見たいんだって』「……何それ」 思わず声が低くなる。『私もやめなよって言ったんだけどさ』「うん」『だって、私がお母さんと普通に連絡取ってたら、本当に何かあったときはお姉ちゃんにも言うでしょ? それじゃ意味ないって』 佳苗はしばらく言葉が出なかった。 母が何を確かめたいのかは分かる。 自分から連絡しなくても、娘が心配してくれるのか。 けれど、そのために恵まで巻き込むのは違う。「恵は普通にしてて」『もちろん。そのつもり』「お母さんに何かあったら教えて」『当たり前じゃん』 恵は呆れたように言った。『こういうの、試すのよくないと思うんだけど』「私もそう思う」 ◇ その日の夜、佳苗は母へ電話を掛けた。『どうしたの?』「恵から聞いたよ」 母が黙る。「私がいつ連絡するか確かめたいって、本当?」『……恵、言ったのね』「お母さん」『別に大したことじゃないでしょう?』「大したことだよ」『ただ、あなたがどれくらい私のことを気にしてるのか知りたかっただけよ』「だったら普通に聞いて」『聞いたら意味ないじゃない』 佳苗は小さく息を吐いた。「そういうふうに試されるの、嫌だよ」『試すって……そんなつもり
母から連絡が来なくなって、一週間が過ぎた。 佳苗も最初の数日は気にしていたが、仕事に追われているうちに、いつもの生活へ戻っていた。 そんなある日、恵からメッセージが届く。『お母さんから連絡あった?』『ないよ』『やっぱり』 嫌な予感がして、佳苗は電話を掛けた。「何かあった?」『いや、何もないんだけどさ。今日電話したら、お姉ちゃんから一週間も連絡ないって言ってたから』「……それだけ?」『それだけ』 佳苗は眉間を押さえた。「お母さんからも連絡ないよ」『私もそう言ったんだけど』「何て?」『たまには娘の方から連絡するものでしょうって』「この前、私から連絡したこともあったんだけどな……」『覚えてないんじゃない?』「覚えてると思う」 きっと、そういう問題ではない。 母は今、自分が何もしなくても佳苗が気づいてくれることを待っているのだ。 ◇ 電話を切ったあと、佳苗は迷った。 このまま放っておいてもいい。 けれど、母と話したくないわけでもなかった。 結局、その日の夜にメッセージを送った。『元気?』 すぐに既読がついた。『元気よ』『最近連絡なかったから』 返事はしばらく来なかった。『佳苗も連絡くれなかったでしょう』『うん。お互い様だね』 また沈黙する。 数分後。『普通、親が連絡しなかったら心配しない?』 佳苗は画面を見つめた。『一週間くらいなら、忙しいのかなって思うよ』『倒れてるかもしれないのに?』『そのときは連絡して。必要ならすぐ行くから』 母が求めている答えではないことは分かっていた。『連絡できない状態だったらどうするの?
日曜日。 佳苗は予定通り雄吾と出かけた。 昼食を済ませ、以前から見たかった家具店を回る。それだけの休日だった。 それでも、佳苗はときどきスマートフォンを気にしていた。「母親から連絡?」「いえ。来てないです」「なら何で見る」「なんとなく……」 雄吾は少し呆れたように佳苗を見る。「昨日のこと気にしてるのか?」「少し」「佳苗は午後なら会えるって言ったんだろ」「はい」「それを断ったのは向こうだ」「分かってるんですけど」 佳苗は苦笑した。「お母さん、楽しみにしてたのかなって」「だったら午後から来ればよかっただろ」「……そうなんですよね」 雄吾の答えは単純だった。 けれど、その通りでもある。 佳苗は母に会うことを拒否していない。 ただ、先に入っていた約束を守っただけだ。 ◇ 夕方、恵からメッセージが届いた。『今日お母さんち行った?』『行ってないよ』『だよね』『どうしたの?』 しばらくして、電話が掛かってきた。『私、今日呼ばれたんだよね』「お母さんに?」『うん。お姉ちゃんが来なくなったから、ご飯食べない?って』「行ったの?」『行ったよ。暇だったし』 そこまでは何も問題ない。『でもさ、お母さん、お姉ちゃんの話ばっかりするの』「私の?」『雄吾さんとの予定を優先されたって』 佳苗はため息をついた。「優先したんじゃなくて、先に約束してたの」『そう言ったよ』「恵が?」『うん。そしたら、結婚したら夫が一番になるものなのかって聞かれた』
母から返事が来たのは、その日の夜だった。『分かった。もう急に行かないわ』 それだけだった。 佳苗は少し気になったものの、これ以上話を広げる必要もないと思い、『うん。今度はゆっくりお茶しよう』 と返した。 既読はついたが、返信はなかった。 ◇ 数日後、恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、お母さんとまた何かあった?』「どうして?」『この前、お姉ちゃんの家に行ったら、雄吾さんに邪魔そうにされたって言ってたから』「……やっぱり恵にも言ったんだ」 佳苗は事情を説明した。 突然訪ねてきた母を、雄吾は家へ上げたこと。 飲み物も出したこと。 ただ、仕事中だったため、ずっと話し相手にはなれなかったこと。『それだけ?』「それだけ」『普通じゃん』「私もそう思う」『ていうか、急に行ったんでしょ?』「うん」『それで仕事やめて相手してくれなかったって怒ってるの?』「怒ってるというか、歓迎されてないって思ったみたい」 電話の向こうで、恵が大きくため息をついた。『お母さん、めんどくさ……』「恵」『だってそうじゃん』 否定はできなかった。 ◇ その週末、母から佳苗へ電話が掛かってきた。『来週の日曜日、そっちに行ってもいい?』 今度はきちんと事前に聞いてきた。「ちょっと待って。予定確認するね」 カレンダーを見る。「午後なら大丈夫だよ」『雄吾さんもいる?』「いると思う」『じゃあ、お昼くらいに行こうかしら』「午後って言ったでしょう?」『お昼なら一緒に食べられるじゃない』
母が料理を持ってきてから、二週間ほど経った。 その間にも、母から料理の写真が送られてきたり、佳苗の好きだった菓子の話をしたりすることが増えた。 母との関係は、少しずつ良くなっている。 佳苗もそう思っていた。 ◇ ある土曜日。 佳苗は美容院へ出掛け、雄吾は自宅で仕事をしていた。 昼を少し過ぎた頃、インターホンが鳴る。 画面に映っていたのは佳苗の母だった。「こんにちは」「こんにちは。佳苗なら今、出掛けてます」「あら、そうなの?」 母の手には紙袋があった。「近くまで来たから、これを渡そうと思って。すぐ戻るのかしら?」「夕方になると思います」「そう……」「よかったら、上がって待ちますか?」「いいんですか?」「はい」 雄吾に促され、母は家へ上がった。 ◇「仕事中だったんですね」「少しだけ片づけたいものがあって」「あら、ごめんなさい。邪魔しちゃったかしら」「大丈夫です」 雄吾は飲み物を用意し、母の前へ置いた。「ありがとうございます」「佳苗に連絡しておきます」「あ、わざわざいいですよ。これを渡しに来ただけだから」 母は笑った。 けれど雄吾はすぐに仕事へ戻った。 同じ部屋にはいるものの、パソコンへ向かったまま会話はない。 母は一人で飲み物を口にした。 五分。 十分。 雄吾はときどき電話にも出ている。 忙しいのだろう。 頭では分かる。 それでも、だんだん居心地が悪くなってきた。「雄吾さん」「はい?」「私、そろそろ帰りますね」「佳苗を待たなくていいんですか?」
恵が帰ったあとも、母は一人でその言葉を考えていた。『必要だから一緒にいるんじゃなくて、会いたいから会うんじゃ駄目?』 言っていることは分かる。 今日だって恵は、頼み事があったわけでもないのに訪ねてきた。 それは嬉しかった。 けれど同時に、妙な寂しさもあった。 昔は違った。「お母さん、これどうしたらいい?」「お母さん、分からないから教えて」 娘たちは何度も自分を頼った。 自分が答えを教えれば安心した顔をした。 いつの間に、それがなくなったのだろう。「大人になったんだから、当たり前なのよね……」 口にしてみても、胸の奥はすっきりしなかった。 ◇ 数日後。 佳苗のスマートフォンに母から写真が届いた。 見覚えのある料理だった。『これ覚えてる?』『覚えてるよ。昔よく作ってくれたよね』『そう。久しぶりに作ったの』 懐かしくなり、佳苗は素直に返信した。『おいしそう』『今度作ってあげようか?』『食べたい』 すぐに返事が来る。『じゃあ今度持っていくわね』 佳苗の指が止まった。『うちに?』『そうよ。雄吾さんにも食べてもらいたいし』 母が家へ来る。 それ自体が嫌なわけではない。 ただ、勝手に日程を決められるのは困る。『来るなら先に日を相談してね』『もちろんよ』 その返事に、佳苗はほっとした。 ◇ 翌週。『土曜日はどう?』 母から連絡が来た。 佳苗は雄吾に確認してから返信する。『午後なら大丈夫だよ』『じゃあ持っていくわね』『ありがとう』 土曜日、母
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は







