LOGINホテルへ入る佳苗と雄吾。
暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。
「……どうして」
佳苗の指先が震える。
まるで誰かに見張られていたみたいだった。
『ねぇお姉ちゃん』
『その人、誰?』
『もしかして浮気?』
次々届くメッセージ。
佳苗は顔を青ざめさせた。
浮気。
その言葉に胸が痛む。
裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。
「見せろ」
雄吾が静かにスマホを受け取る。
メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。
「……なるほど」
「先輩」
「撮られていたな」
低い声。
感情を押し殺したような響き。
「どうしよう……」
佳苗は唇を噛む。
恵は昔からそうだった。
自分が優位に立つためなら、平気で人を陥れる。
もしこの写真を悟に見せたら。
きっと佳苗が悪者になる。
「どうもしなくていい」
雄吾は淡々と言った。
「だが、随分と暇な妹だな」
「……っ」
「姉の行動を逐一監視するほどに」
佳苗は俯く。
監視。
確かにそうだった。
昔から恵は、佳苗の持ち物も交友関係も全部把握したがった。
好きな服。
好きなお菓子。
仲の良い友達。
そして最後には、夫まで。
「……昔からなんです」
ぽつりと呟く。
「恵は、私のものを欲しがるんです」
雄吾が黙って続きを待つ。
「小さい頃からそうでした。私が褒められると機嫌が悪くなって、欲しいって言えば、みんな恵に譲れって……」
両親はいつもそう言った。
『お姉ちゃんなんだから』
その言葉で、佳苗は何度も我慢してきた。
「だから私、慣れてたんです」
笑おうとして、うまく笑えない。
「奪われるのが当たり前で」
すると次の瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
「え……」
気づけば、佳苗は雄吾のすぐ目の前にいた。
近い。
心臓が跳ねる。
雄吾は鋭い目で佳苗を見下ろしていた。
「訂正しろ」
「……え?」
「お前のものを奪っていい人間なんて存在しない」
低く、断言する声。
佳苗は息を呑む。
「でも……」
「お前が諦めていただけだ」
図星だった。
佳苗は反論できない。
嫌われたくなくて。
揉めたくなくて。
ずっと我慢してきた。
その結果、最後には命まで失った。
「佳苗」
名前を呼ばれる。
こんなふうに真っ直ぐ名前を呼ばれたことなんて、いつぶりだろう。
「今度は奪わせるな」
胸が熱くなる。
その瞬間だった。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
佳苗がびくりと肩を震わせる。
こんな時間に?
雄吾の目が細くなる。
「誰か来る予定、あるんですか?」
「ない」
短く答え、雄吾がドアへ向かう。
そして扉を開けた瞬間。
「こんばんは、榊原さん」
甘ったるい女の声が響いた。
佳苗の顔色が変わる。
「……恵?」
「直哉さんが、こちらに……?」 佳苗は思わず玄関のほうを振り返った。『ええ。主人が止めたんですけれど、聞く耳を持ってくださらなくて』「分かりました。知らせてくださってありがとうございます」『本当に申し訳ありません。私たちのことで、佳苗さんまで巻き込んでしまって』「そんなことありません。絢子さんのこと、よろしくお願いします」 電話を切ると、佳苗はすぐに雄吾を呼んだ。 出勤前の雄吾は、寝室でネクタイを締めていた。「どうした?」「直哉さんが、うちに来るって」 事情を説明すると、雄吾はネクタイから手を離した。「今からか?」「うん。一条さんのお宅を出たところみたい」「分かった。今日は少し出社を遅らせる」「でも、お仕事は?」「連絡すれば済む。あいつを佳苗一人で相手にさせるつもりはない」 雄吾は会社に電話をかけ、出社が遅れることを伝えた。 佳苗も職場に連絡を入れた。 直哉が本当に来るかどうかは分からない。けれど、もし押しかけてきたら、落ち着いて出勤などできそうになかった。「雄吾、直哉さんは私が絢子さんをそそのかしたと思ってるみたい」「だろうな」「でも、離婚したいって言ったのは絢子さん自身なのに」「あいつには、それが認められないんだろう」 雄吾は腕時計を着けながら答えた。「自分の妻が、自分の意思で出ていったとは考えたくないんだ」 佳苗は眉を寄せた。 絢子を一人の人間として見ていれば、そんな発想にはならないはずだった。 それから三十分ほど経った頃、インターホンが鳴った。 モニターに映っていたのは、久世直哉だった。 上等なスーツを着て、いつもの人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。『おはようございます。久世です』 佳苗の背筋に緊張が走った。 雄吾が
『あなたの奥さん、何かご存じじゃありませんか?』 電話越しに聞こえた直哉の声に、佳苗は思わず雄吾を見た。 雄吾は表情を変えずに答えた。「なぜ佳苗に聞く?」『妻が最近、佳苗さんと親しくしていたようなので。今日も連絡を取っていたんじゃないかと思いまして』「絢子がいなくなったなら、まず実家に確認すればいいだろう」『もちろん連絡しましたよ。でも、お義母さんは何も教えてくれないんです』 直哉は小さく笑った。『まるで、僕が何か悪いことでもしたみたいにね』「絢子が自分の意思で出ていったなら、まず本人の気持ちを尊重するべきじゃないか」『……ずいぶん事情に詳しいんですね』 直哉の声から笑みが消えた。『やっぱり、あなた方が手引きしたんですか?』「俺たちがどうこう言う話じゃない。夫婦の問題なら、絢子本人と話し合え」『その本人が逃げているんですよ!』 突然、直哉が声を荒らげた。 佳苗は肩を震わせた。 結婚式では、あれほど余裕たっぷりに振る舞っていた男だ。 その直哉が、電話の向こうで怒りを隠そうともしていない。『妻が勝手に家を出て、僕が黙っていると思いますか?』「絢子は成人した人間だ。外出にお前の許可は要らない」『……榊原さん』 低い声が返ってきた。『昔から、あなたはそうやって僕を見下してきた』「今は絢子の話をしている」『僕の妻ですよ。あなたの昔の女じゃない』 佳苗は思わず顔をしかめた。 絢子は雄吾の恋人だったことなど一度もない。 直哉は、それさえ気に入らないのだろうか。「言いたいことはそれだけか」『奥さんにも伝えてください。余計なことをしないように、と』「佳苗を脅すつもりなら、今後はその発言も記録する」 雄吾の声が一段低くなっ
「分かりました。絢子さん、今いるコンビニの名前と場所を教えてください」 佳苗はスマートフォンを握り直した。『駅前の……久世の家から、歩いて十分くらいのところよ』 絢子が告げた店名を、佳苗は急いでメモした。「お母様に連絡します。絢子さんは、迎えが来るまでお店の中にいてください」『でも、直哉さんが探しに来たら……』「そのときは店員さんに助けを求めてください。危険を感じたら、警察を呼んでもらって」『……分かったわ』「今は電話を切って大丈夫です。お母様が迎えに行きますから」『佳苗さん』「はい?」『……ありがとう』 その声は、今にも泣き出しそうだった。 通話が終わると、佳苗はすぐに一条夫人へ電話をかけた。『もしもし、佳苗さん?』「絢子さんが家を出ました。今、駅前のコンビニにいます!」『えっ……絢子が?』「はい。迎えに来てほしいと言っています」 場所を伝えると、夫人は声を詰まらせた。『すぐに行きます。主人にも連絡して……本当に、ありがとうございます』「気をつけてください。直哉さんが探しているかもしれません」『ええ。分かりました』 電話を切った佳苗は、続けて雄吾にも連絡した。『佳苗、どうした?』「絢子さんが家から出られたの。今、お母様が迎えに向かってる」『そうか。場所は?』 佳苗が説明すると、雄吾は短く答えた。『分かった。俺も一条さんに連絡する』「雄吾、絢子さん、大丈夫かな……」『まだ安心はできない。だが、自分の意思で家を出られたのは大きい』「……うん」『佳苗は今、会
突然切れた電話を見つめながら、佳苗はその場に立ち尽くした。 直哉が帰ってきた。 絢子は確かにそう言った。しかも、ひどく怯えた声だった。 もう一度電話をかけようとして、佳苗は指を止めた。 もし直哉が絢子の携帯を取り上げていたら、自分からの着信がかえって彼女を追い詰めるかもしれない。「……どうしよう」 佳苗は急いで雄吾に電話をかけた。『佳苗? どうした』「雄吾、絢子さんから電話があったの」 佳苗は、絢子が離婚したがっていること、直哉を怖がっていること、そして突然電話が切れたことを伝えた。 雄吾は黙って聞いていた。『今、どこにいる?』「買い物の帰り。もうすぐ家に着くところ」『分かった。まず帰れ。俺もできるだけ早く戻る』「でも、絢子さんが……」『一条さんには俺から連絡する。佳苗は久世に連絡するな』「……うん」『絢子が助けを求めたことは、誰にも知られないようにしておけ』 その言葉に、佳苗は頷いた。 電話を切ると、急いで帰宅した。 それから一時間ほどして、雄吾が帰ってきた。「絢子さんは?」 玄関まで迎えに出た佳苗が尋ねると、雄吾は首を横に振った。「まだ確認できてない」「そう……」「母親には話した。絢子から連絡があっても、直哉の前では離婚の話を出さないよう伝えてある」 雄吾は上着を脱ぎながら続けた。「一条さんは、明日にも弁護士に相談するそうだ」「よかった……」 少なくとも、絢子を助けるために動き始めている人がいる。 それだけで、佳苗は少し安心した。 けれど、その夜になっても絢子から連絡はなかった。 翌朝も、状況は変わらなかった。
『今帰ったら、直哉さんに何をされるか分からない』 絢子の母親から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。「雄吾、これ……」 画面を見せると、雄吾の表情が険しくなった。「母親に電話する」 雄吾はすぐに一条夫人へ連絡した。「榊原です。絢子からの電話は、もう切れたんですね?」 佳苗は隣で息を詰めていた。「……分かりました。もう一度連絡が取れたら、無理に帰宅を迫らず、まず安全な場所で話せるか確認してください」 電話を終えた雄吾は、佳苗に向き直った。「絢子は母親に、家には来ないでほしいと言ったそうだ」「どうして……」「直哉に知られたら困る、と」 佳苗は唇を噛んだ。 結婚式で見た絢子の姿が、脳裏に浮かぶ。 美しいドレスを着て、誰よりも華やかに微笑んでいた女性。 あのとき、彼女はもう夫を怖がっていたのだろうか。「雄吾、私たちに何かできないかな」「まずは絢子自身と話す必要がある」「でも、電話も自由にできないんでしょう?」「ああ。だから、慎重に動く」 雄吾は佳苗の肩に手を置いた。「母親には、必要なら警察や専門の相談窓口にも相談するよう伝えた。俺たちだけで解決しようとする話じゃない」「……うん」 佳苗は頷いた。 それでも、何もできずに待つのはつらかった。 翌日、佳苗は美佐子から連絡を受けた。『絢子さんのお母様と相談したんだけれど、しばらく私たちも様子を見ながら連絡を取ることにしたの』「そうですか……」『ただ、直哉さんに知られないようにしないとね』 美佐子の声には、いつになく緊張が滲んでいた。『あの子、昔から気丈なところがあったでしょう。そんな絢子さんが
「絢子を助けていただけませんか」 一条夫人の言葉に、雄吾はすぐには答えなかった。 佳苗も胸が痛んだ。娘の身を案じる母親が、どんな思いでここまで来たのか、想像するだけで苦しかった。「一条さん、絢子とは最後にいつ会いましたか」「十日ほど前です。あの子が一人で実家に来たときで……」「そのとき、何か相談は?」「いいえ。ただ、結婚生活はどうだと聞いたら、うまくやっていると」 夫人は膝の上でハンカチを握りしめた。「でも、あの子、私が少し大きな声を出しただけで、びくっとしたんです。昔はそんな子じゃなかったのに」「……そうですか」「直哉さんに何かされたのかと尋ねても、何も言ってくれなくて」 夫人の目から涙がこぼれた。「私、あのとき無理にでも連れて帰ればよかった」 佳苗はそっとティッシュを差し出した。「まだ、遅くないと思います」 夫人が顔を上げる。「絢子さんは、お母様に何も言わないでほしいとお願いしたんですよね。それは、何かを怖がっているからかもしれません」「ええ……」「だから、まずは絢子さんと直接お話しできるようにしませんか」 佳苗の言葉に、雄吾も頷いた。「俺から久世に連絡します。ただ、絢子を会わせろと要求したところで、素直に応じるとは思えません」「では、どうすれば……」「まずは本人の無事を確認する。会えない理由をはっきりさせる必要もある」 雄吾は落ち着いた声で続けた。「それと、写真は残しておいてください。いつ撮ったものかも記録しておいたほうがいい」「分かりました」 夫人は何度も頷いた。 それから一時間ほど話をして、夫人は帰っていった。 玄関で見送る際、佳苗は彼女の手を握った。「絢子さんから連絡があったら、教え
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし