Masuk「俺は昔から、お前しか欲しくない」
低い声が耳元で響く。
佳苗は息を呑んだ。
車内の空気が熱い。
逃げ場がない。
雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。
「……先輩」
喉が震える。
理解が追いつかない。
昔から?
ずっと?
そんなはずない。
自分は特別な人間じゃない。
妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。
ただ都合よく利用されるだけの女だった。
「信じられないか」
雄吾が静かに言う。
佳苗は答えられなかった。
すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。
「まあいい」
「え……」
「今すぐ答えを求める気はない」
その言葉に、佳苗は少しだけ安堵する。
けれど同時に、胸の奥が妙にざわついた。
もしこの人が本気なら。
自分はどうすればいいのだろう。
考えかけた、そのとき。
車がゆっくり停車した。
「着いた」
窓の外を見て、佳苗は目を見開く。
「……ホテル?」
高級ホテルだった。
都内でも有名なラグジュアリーホテル。
エントランスにはスーツ姿のスタッフが並び、夜景のような照明が輝いている。
「今日はここに泊まれ」
「えっ、でも……!」
「家には帰れないだろ」
佳苗は言葉に詰まる。
確かに、帰りたくない。
けれど――。
「お金、そんなに持ってません」
「必要ない」
「でも」
「俺が払う」
当たり前のように言われ、佳苗は困惑した。
「そんなわけには……」
「じゃあ今からあの男のところへ戻るか?」
「っ……」
悟の顔が脳裏に浮かぶ。
怒った顔。
冷たい目。
“代理母として完璧だった”と言った声。
佳苗の身体が小さく震えた。
「……帰りません」
「なら決まりだ」
雄吾はそう言って車を降りる。
佳苗は慌てて後を追った。
ホテルマンたちが一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、榊原様」
その光景に、佳苗は改めて目の前の男が“別世界の人間”なのだと実感した。
エレベーターへ乗り込む。
二人きり。
静かな空間。
鏡越しに視線が合い、佳苗は慌てて目を逸らした。
「……緊張してるな」
「そ、それはしますよ……」
「俺が怖いか?」
佳苗は一瞬黙る。
怖い。
正直、少し怖い。
この人は強引だ。
自分の知らないところで全部決めてしまう。
まるで逃がす気がないみたいに。
でも――。
「……怖く、ないです」
不思議だった。
悟といる時のような息苦しさはない。
むしろ安心してしまう。
その答えに、雄吾がわずかに目を細めた。
エレベーターが最上階で止まる。
案内された部屋を見て、佳苗は息を呑んだ。
「すごい……」
広い。
夜景が一望できる大きな窓。
高級感のあるインテリア。
ふかふかのソファ。
まるでドラマの世界だった。
「好きに使え」
雄吾はネクタイを緩めながら言う。
その仕草が妙に色っぽくて、佳苗はどきりとした。
「先輩は……?」
「俺もここにいる」
「えっ!?」
佳苗が固まる。
雄吾は平然としていた。
「スイートはここしか空いてなかった」
「そ、そんな……!」
「嫌か?」
低い声。
試すような目。
佳苗は言葉に詰まる。
嫌、ではない。
でも。
男の人と二人きりなんて。
しかも昔から自分を好きだと言う人と。
「安心しろ」
雄吾がゆっくり近づいてくる。
「お前が嫌がることはしない」
佳苗の鼓動が跳ねる。
距離が近い。
逃げられない。
「ただ」
雄吾の指先が、そっと佳苗の髪に触れた。
「今夜だけでも、俺を頼れ」
甘く囁かれた瞬間。
ブルブル、とスマホが震えた。
佳苗はびくりと肩を揺らす。
画面には、恵の名前。
そして次の瞬間、メッセージが表示された。
『お姉ちゃん、今どこ?』
『悟さん、すごく怒ってるよ?』
『それとももう、他の男と一緒にいるの?』
さらに、一枚の写真が送られてくる。
「……っ!」
佳苗の顔色が変わった。
その写真には――。
ホテルへ入る佳苗と雄吾の姿が、はっきり写っていた。
その夜。「一条さんに、言いました」 夕食のあと、佳苗は雄吾にそう報告した。「何を?」「昨日のことです」 佳苗は少し緊張しながら続ける。「雄吾さんが言っていないことを、言ったように私へ伝えるのはやめてくださいって」「そうか」「……怒ってませんか?」「なんで俺が怒るんだ?」「だって、一条さんとは昔からのお友達ですし」「それとこれとは関係ない」 雄吾はきっぱりと言った。「事実と違うことを伝えられて嫌だったなら、そう言っていい」「……はい」 佳苗は少しだけ笑った。 以前なら、こんなことはできなかった。 誰かを不快にさせるくらいなら、自分が我慢すればいい。 そう思っていたから。「絢子からも電話があった」「え?」 佳苗の表情が変わる。「何て……?」「仕事の担当を外れた方がいいと思うって」「どうして?」「佳苗が嫌がっていると思うから、だそうだ」「そんなこと、私……!」「分かってる」 雄吾が遮る。「だから言った。佳苗を理由にするなって」「……」 まただった。 絢子は自分が何も言っていないことまで、自分の気持ちとして雄吾へ伝えようとしている。「私、一条さんに近づかないでなんて言ってません」「ああ」「仕事をやめてほしいとも」「分かってる」「なのに……」 佳苗はそこで言葉を止めた。 今までなら。『一条さんは私を気遣ってくれただけ』 そう考えただろう。 けれ
「ずっと……苦しかったです」 口にしてしまうと、これまで必死に押し込めていた気持ちが、一気に溢れ出してきた。「でも、私が嫉妬しているだけだと思っていました」「佳苗」「一条さんは何も悪くないのに、私が勝手に気にしているんだって」 絢子はいつも優しかった。 謝ってくれた。 自分を気遣ってくれた。 雄吾とのことも、隠さず教えてくれた。 だから疑うこと自体が悪いことのように思えていた。「でも……今日のことは」 佳苗は雄吾の手にあるスマートフォンを見る。「違うんですよね?」「ああ」「雄吾さんは、一条さんと食事に行くって言ってない」「言ってない」「私が待っているから帰るとも」「言ってない」 雄吾ははっきり答えた。 佳苗の胸が苦しくなる。「じゃあ、どうして……」 そこから先を口にするのが怖かった。 雄吾がスマートフォンを佳苗へ返す。「俺にも分からない」「……」「ただ、少なくとも事実とは違う」 佳苗はスマートフォンを受け取った。「私……一条さんを疑ってもいいんでしょうか」 雄吾が眉を寄せる。「疑うのに許可なんていらない」「でも」「佳苗はずっと、絢子に悪意がないことを前提に考えてただろ」「……はい」「その結果、全部自分が悪いことにしてた」 佳苗は俯いた。 否定できなかった。「だったら、一度くらい逆に考えてもいいんじゃないか?」「逆に……」「絢子が、佳苗を不安にさせるためにやっていたとしたら
『今ちょうど終わった。これから帰る』 雄吾から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。 そして、絢子からのメッセージを見る。『今から二人で何か食べに行くことにしたの』「……どういうこと?」 どちらかが嘘をついている。 そんな考えが浮かび、佳苗はすぐに打ち消した。 雄吾が嘘をつく理由などない。 だったら――。 スマートフォンが震えた。 絢子からだった。『ごめんなさい』『雄吾さん、やっぱり帰るって』「……」 続けて、もう一件。『佳苗さんが待ってるからって』 佳苗は息を吐いた。(そういうことだったんだ……) 自分がメッセージを送ったから、雄吾は予定を変えたのだろうか。 それなら、言葉が食い違っていたわけではない。 そう思ったのに。『昔なら、無理やりにでも連れていったんだけど』『今はもう、私がそこまですることじゃないものね』 また、昔。 佳苗の胸に小さな棘が刺さる。 返事をせずにいると、さらにメッセージが届いた。『佳苗さんがいてくれてよかった』『これからは雄吾さんのこと、佳苗さんがちゃんと見ていてあげてね』「……」 なぜだろう。 恋人である自分が、絢子から雄吾を任されているように感じる。 まるで今まで雄吾を支えてきたのは自分だとでも言うように。 佳苗はスマートフォンを伏せた。 ◇ 三十分ほどして、雄吾が帰宅した。「ただいま」「おかえりなさい」 佳苗は玄関へ向かう。「夕食、まだですよね?」「ああ」「すぐ用意しますね」
「……それは、できません」 佳苗の言葉に、雄吾は黙った。「どうして?」「一条さんから、私に話してくださったことだからです」「俺には見せられない?」「……はい」 雄吾の表情が険しくなる。 佳苗は慌てて続けた。「雄吾さんに隠し事をしたいわけじゃないんです」「でも、絢子から連絡が来るたびに佳苗は傷ついてる」「それは……」「だったら、俺にも関係があるだろ」 何も言い返せなかった。 確かにそうなのかもしれない。 けれど。『昔、雄吾さんのことが好きだったの』『好きじゃなくなったのかと聞かれたら、自信はないけれど』 あれは絢子が自分だけに打ち明けた気持ちだ。 勝手に雄吾へ見せることなどできない。「ごめんなさい」「佳苗」「これだけは……」 佳苗はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。「私から雄吾さんに話してはいけないと思うんです」「……分かった」 意外にも、雄吾はそれ以上求めなかった。「無理に見るつもりはない」「雄吾さん……」「ただ、一つ約束してくれ」「何ですか?」「絢子から何を言われても、一人で抱え込むな」「……はい」「俺に話せないことなら、話せないでいい。でも、嫌だったとか、苦しかったとか、それくらいは言ってくれ」 佳苗は少し迷ってから頷いた。「分かりました」「それと」 雄吾の声が少し低くなる。「俺のことを絢子から聞いて判断するな」「え?」「俺が何を考えてるか知りたいなら
「よかったら、一緒に行く?」 絢子の言葉に、佳苗はすぐには答えられなかった。 雄吾の会社へ。 絢子と一緒に。 行けば、二人が何を話しているのか気にせずに済む。 けれど――。(それじゃあ、まるで……) 絢子と雄吾を二人きりにしたくないから、ついていくようではないか。 仕事の話なのに。 そこまで自分が口を出していいはずがない。「……私は行きません」 佳苗はそう答えた。「そう?」「はい。雄吾さんもお仕事ですし、私がお邪魔したら申し訳ないので」「邪魔だなんてことはないと思うけれど」「大丈夫です」 佳苗は笑った。「私はこのまま帰ります」「分かったわ」 絢子も微笑む。「じゃあ、またね」「はい」 絢子が去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、佳苗は胸の奥に残るざわつきを必死に押し込めた。(大丈夫) 仕事なのだから。 雄吾だって、自分を愛していると言ってくれている。 絢子も何もしないと言っている。 信じればいい。 ◇「来たか」 雄吾の会社へ到着した絢子は、応接室へ通された。「急に呼んで悪かったな」「いいのよ。ちょうど近くにいたから」 絢子は向かいのソファへ腰を下ろす。「そういえば、佳苗さんと会ったわ」「ああ。さっき聞いた」「一緒に来るか聞いたんだけど、帰るって」「そうか」「私と二人になるの、嫌じゃないかしら」 雄吾が眉を寄せる。「仕事だろ」「そうだけど」 絢子は少し困ったように笑う。「この前、佳苗さんを不安にさせてしまった
午後の仕事を終えても、佳苗の胸には小さなもやが残っていた。 美佐子と絢子。 そこへ雄吾も加わって、今頃三人で過ごしている。(別に、何もおかしくない) 雄吾は仕事が近くで終わったから、母親に呼ばれて顔を出しただけ。 絢子と二人きりでもない。 それに絢子は、自分も一緒ならよかったと言ってくれた。 頭では何度もそう考える。 それでも。 スマートフォンが震えるたび、佳苗は反射的に画面を見てしまった。 また絢子からだった。『雄吾さんも来たわ』 その下には、一枚の写真。「……」 美佐子と雄吾と絢子。 三人がテーブルを囲んでいる。 雄吾はカメラを意識していないらしく、美佐子の方を向いている。 絢子はその隣で微笑んでいた。 家族写真のようだった。『おばさまが撮ってって店員さんにお願いしたの』『昔みたいで嬉しいって』 佳苗の胸が痛む。 昔みたい。 自分と出会うよりずっと前から、この三人にはこういう時間があったのだ。『今度は佳苗さんも一緒に四人で撮りましょうね』「……はい」 誰もいないところで、佳苗は小さく返事をした。 そしてスマートフォンを伏せた。 ◇「ただいま」 夜。 玄関から雄吾の声がした。「おかえりなさい」 佳苗はいつものように迎えに出る。「今日は、お母様たちと楽しかったですか?」「ああ。少し顔を出しただけだけどな」「写真、見ました」「写真?」「三人で撮った写真です。一条さんが送ってくださって」 雄吾が眉を寄せた。「また絢子から?」「はい」「&he
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし







