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第14話

作者: 酒井 雫
長い沈黙のあと、夏彦がかすれた声で言った。

「ひより、今は信じてもらえなくてもいい。

これからの人生をかけて、お前を愛していることを証明するから。

離婚だけはやめてくれ。頼む。もう俺を好きじゃなくても、鏡也には母親が必要だ」

私は鏡也を一瞥し、こう答えた。

「新しい母親を探してあげればいいじゃない」

鏡也は弾かれたように顔を上げ、ワッと声を上げて泣き出した。

「嫌だ!ママがいい!ママじゃなきゃ嫌だ!」

顔をくしゃくしゃにして、息を詰まらせながら激しく泣いていた。

以前の私なら、すぐに駆け寄っていただろう。抱きしめて、背中を撫で、優しく声をかけたはずだ。

けれど私は一歩後ろへ下がり、冷淡に、そして静かに告げた。

「二人とも口数が少なくて、感情をあまり表に出さないんだと思ってた。だから、そのぶん私が愛情を伝えればいいって。

でも、いつまでもあなたたちを追いかけ続ける義務なんて、誰にもないの。

妻だから、母親だからって、何をされても受け入れて、一生そばにいなきゃいけないわけじゃない。

冷たくされれば、私だって傷つくわ。ひどいことを言われたり、ほかの人ばかり優先され
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  • 夫も息子も、喜んで差し上げます   第14話

    長い沈黙のあと、夏彦がかすれた声で言った。「ひより、今は信じてもらえなくてもいい。これからの人生をかけて、お前を愛していることを証明するから。離婚だけはやめてくれ。頼む。もう俺を好きじゃなくても、鏡也には母親が必要だ」私は鏡也を一瞥し、こう答えた。「新しい母親を探してあげればいいじゃない」鏡也は弾かれたように顔を上げ、ワッと声を上げて泣き出した。「嫌だ!ママがいい!ママじゃなきゃ嫌だ!」顔をくしゃくしゃにして、息を詰まらせながら激しく泣いていた。以前の私なら、すぐに駆け寄っていただろう。抱きしめて、背中を撫で、優しく声をかけたはずだ。けれど私は一歩後ろへ下がり、冷淡に、そして静かに告げた。「二人とも口数が少なくて、感情をあまり表に出さないんだと思ってた。だから、そのぶん私が愛情を伝えればいいって。でも、いつまでもあなたたちを追いかけ続ける義務なんて、誰にもないの。妻だから、母親だからって、何をされても受け入れて、一生そばにいなきゃいけないわけじゃない。冷たくされれば、私だって傷つくわ。ひどいことを言われたり、ほかの人ばかり優先されたりしたらね。この家族を守るために、私にできるだけのことはしてきた。愛情も十分すぎるほど注いだし、我慢も重ねてきた。だから、こうなったのは、私の忍耐が足りなかったからじゃない。私が駄目な妻や母親だったからでもない」二人をまっすぐ見つめる。「あなたたちが、その愛情を踏みにじり続けたからだよ」私はきびすを返し、ホテルの中へ向かって歩き出す。「これからは、自分たちで考えて生きていって。私はもう、あなたたちの人生には付き合いきれないわ」背後で、二人の泣き声が重なった。夏彦は、プライドの高い人だ。ここまで私にすがること自体、彼にとっては限界だったのだろう。私も言うべきことはすべてはっきりと伝えた。だから、あの夜を境に、彼が私の前に現れることはなくなった。それから数日後、私のもとに、夏彦の署名が入った離婚協議書が届いた。財産分与の条件が変更されており、私が受け取る額は、当初求めていた額の三倍近くになっていた。必要な手続きを済ませると、私たちの婚姻関係は終わった。財産分与を受け、私は当面働かなくても暮らしていけるほどの資産を手にした。

  • 夫も息子も、喜んで差し上げます   第13話

    街灯の下で、夏彦が静かに立っていた。その端正な顔は、以前より少しやつれて見えた。鏡也は彼の隣に立ち、小さな顔を上げて私を見つめていた。目は赤く、涙がいっぱい溜まっていた。私が近づくと、夏彦は一歩進み出て、すがるような目で私を見た。「紫苑には、会社を辞めてもらった。彼女にもはっきりと伝えたよ。これからはもう、一切関わらないって。ひより、一緒に帰ろう。な?」彼がここまで下手に出る姿は、初めて見た。けれど、私には滑稽にしか思えなかった。「彼女と縁を切れば、これまでのことが全部なかったことになると思ってるの?あなたが私に負わせた傷まで、なかったことにできるとでも?」夏彦は慌てて首を振った。「そんなつもりじゃない。彼女との距離の取り方を間違えて、お前を傷つけたことは分かってる。これからの人生をかけて、必ず償うから」私は乱れた髪を耳にかけ、淡々と答えた。「必要ないわ。私のこれからの人生に、あなたはもういらないの。早く離婚協議書にサインして。このまま話し合いに応じないなら、家庭裁判所に離婚調停を申し立てるわ」夏彦はその場で固まった。しばらくして、呆然と問い返した。「どうしてだ?どうしてそこまでするんだ?昔付き合っていた相手だから、少し気にかけていたかっただけだ。肉体関係があったわけじゃない。俺が愛しているのはずっとお前だけだし、心変わりしたことなんて一度もない」私を見つめる彼の目元が、かすかに赤くなっていた。「自分が間違っていたことは、もう分かってる。どうして、もう一度だけやり直す機会をくれないんだ?」彼の隣にいる鏡也も、小さくしゃくり上げながら、途切れ途切れに謝る。「ママ、ごめんなさい、ぼくが悪かったよ……紫苑ちゃんにママになってほしいなんて、本当は思ってないよ。ぼくのママは、ママだけだもん……もう悪いことしないから、もう一回だけ、パパとぼくを許して?」深く後悔しているように見える二人を前にしても、私には理解できなかった。どうして夏彦が離婚を拒むのか、ずっと分からなかった。あれほど紫苑を優先し、かばい、私が得るはずだったものまで彼女に与えてきたのに。それなら、離婚して彼女と一緒になればいい。そのほうが幸せなのではないのか。それなのに

  • 夫も息子も、喜んで差し上げます   第12話

    正直なところ、浪花市に来たばかりの頃は、少し圧倒されていた。ネットで「街じゅうが芸人」なんて言われているだけのことはある。どこを歩いても、妙におもしろい人に出会うのだ。川では、年配の男性がウイングフォイルに挑戦していた。何度も水に落ちては、めげずにボードによじ登っていた。公園では、ミニブタを散歩させながら、ご機嫌な様子で歌っている女性を見かけた。人力車に乗った時には、車夫のお兄さんから、信号待ちの間にカラスが彼の帽子をくわえて逃げてしまったという笑い話まで聞いた。道を尋ねるだけでも、親切な人がまるで漫才のような口調で教えてくれる。「お姉さん、まずあっち行ってな。あの信号、見えるやろ?そうそう、あれや。そこ左曲がって、次を右。ほら、もう着いたようなもんや!」こちらに来てからの最初の1週間は、そんな驚きの連続だった。けれど、その気取らない、軽やかな空気に、私はいつの間にか救われていた。気づけば、あんなに沈んでいた気持ちがずいぶんと軽くなっていた。毎日、のんびりと美味しいものを食べて、あちこちをぶらぶらと歩き回る。楽しい。そんな単純な気持ちを、ずいぶん久しぶりに取り戻していた。しかし、そんな平穏も長くは続かなかった――夏彦が別のやり方で、私に連絡を取ろうとし始めたのだ。今度は、少しやり方を変えたらしい。しつこく私のスマホに電話をかけてくることはなくなった。代わりに、周囲の人を介して私に連絡を取ろうとしてきたのだ。一度目は、浜都市で雷を伴う大雨が降った夜のことだった。家政婦さんから電話があり、鏡也が雷を怖がって眠れず、「ママ、ママ」と泣いていると伝えられた。確かに、あの子は小さい頃から雷が苦手だった。そんな夜は、私がしばらく抱きしめ、背中を撫でながら子守歌を歌ってやらないと、眠れなかった。あんなひどい態度を取られても、私が産み、育ててきた子には変わりない。さすがに胸が痛んだ。しばらく黙ったあと、私は電話越しに子守歌を一曲歌うことにした。だが歌い始める前に、家政婦さんにこう告げた。「今から歌うので、録音しておいてください。次に雷が鳴ったら、それを聞かせてあげて。もう、このことで私に電話しないでください」歌い終え、電話を切ろうとした時、鏡也の泣き叫ぶ声が聞こえた。

  • 夫も息子も、喜んで差し上げます   第11話

    子供の頃、私は『イタズラなKiss』という漫画が大好きだった。相手役の男の子は冷たくて、誰も簡単には近づけない完璧な存在だった。ヒロインの女の子は明るくて、かわいくて、いつも周りを照らしていた。彼女は少しずつ彼の凍った心をほどき、その内側へと入り込んでいった。あの物語が、私の恋愛観を形作ったのだと思う。そのせいか、大人になって夏彦に出会った時、私はこの口数が少なく、人との間に距離を置く青年に一目惚れしてしまった。そして、そのままのめり込んでいった。後先考えず、全力で愛した。彼のためなら、自分の持っているものをすべて差し出せると思っていた。あのヒロインのように、私も彼の心を温められると信じていたのだ。でも、そんな日は来なかった。6年間の結婚生活の末に残ったのは、ボロボロになった私だった。離婚を切り出した時、迷いはなかった。二人と離れることにも、未練はないつもりだった。それでも夜になると、抑え込んでいた感情が不意に湧き上がり、私を飲み込んでしまう。悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。ただ、ひどく疲れていた。いくら体を休めてもなかなか抜けない、泥のような深い疲労感だった。この結婚で受けた傷は、思っていた以上に深かった。夏彦と鏡也に冷たくあしらわれ、思いを踏みにじられる日々の中で、人を愛する気持ちも、誰かを素直に信じる心も、すり減って消え失せてしまっていた。もう元には戻らないし、取り戻すこともできない。退職後、すぐに新しい仕事を探すつもりだった。けれど、そのための気力すら残っていないことに気づいた。そこで私は、ネットの掲示板に書き込んでみた。【心身ともに疲れ果ててしまった時、気晴らしに行くならどの街がいいですか?】一番多くの「いいね」が集まっていたのは、南の島を勧めるコメントだった。忙しい日常から離れて、何もせずに過ごしたい人に人気の場所らしい。海はきれいで、冬でも暖かい。少し惹かれた。けれど、コメントを読み進めていくうちに、浪花市を勧めるある長文の書き込みが目に留まった。【投稿読む限り、ただ仕事に疲れてリフレッシュしたいっちゅうわけやなさそうやな。長いことしんどい思いしてきて、もういっぺん前向く元気を取り戻したいんかなって感じたわ。それや

  • 夫も息子も、喜んで差し上げます   第10話

    【もう、あのときの顔、ひよりにも見せたかった!】と、親しい同僚が面白がって伝えてきた。さすがに会議室では、社長に面と向かって非難することはできなかったらしい。けれど、気の合う仲間だけのグループチャットでは、みんな遠慮がなかった。クズ男だの、結婚しているのに元カノとズルズル関係を続けるなんて非常識だの。そのうえ、妻を隠し、職場で愛人を贔屓してモラハラするなんて、ひどすぎる、と。私はLINEのやり取りを読みながら、思わず吹き出してしまった。実のところ、あの日、車の中で夏彦が結婚を公表すると言った時、私が感じたのは喜びではなく、強い抵抗感だった。むしろ「やめてくれ」と懇願したいほどに。私は上司やコネ入社の社員たちから、6年間も嫌がらせを受け続けてきた。それなのに、会社のトップである夫はそれを見て見ぬふりをした。それどころか、元カノの肩を持って私を貶め、昇進の機会まで奪っていった。こんな惨めな結婚生活を送ってきたと同僚たちに知られたら、陰でどれほど笑われるのか、想像するだけで怖かった。幸い、実際に公表されても、私が恐れていたほど周囲の反応は冷たくなかった。様子を知らせてくれた同僚をはじめ、事情を汲んで寄り添ってくれる人もいた。彼女たちは夏彦に腹を立てながら、私にはこう言ってくれた。【男を見る目がなかっただけだよ。自分を責めないで】離婚すると決めた私のことも、心から応援してくれた。それからも、夏彦の動向をこまめに教えてくれた。どうやら今、彼には当然の報いが下っているらしい。会社の最大の取引先は「啓光グループ」だ。そこの社長は地方の小さな村の出身で、若い頃に妻と二人三脚で起業し、大企業を築き上げた今でも有名な愛妻家である。彼は以前から、「妻を大切にしない人間は、仕事でも信用できない」と話していたという。誰がチクったのかは分からないが、夏彦のしたことがその社長の耳にも入ったらしい。啓光の社長はこの件を不快に思い、取引の継続を見直しているという。夏彦は、その事態の収拾に追われていた。昼間は取引先への説明や対応に奔走し、夜は違う番号から何度も私に電話をかけてくる。「離婚には同意しない」言うことは、いつも同じだった。私は彼から電話が来るたびに、その番号を着信拒否リストに放り込

  • 夫も息子も、喜んで差し上げます   第9話

    けれど、どういうわけか、紫苑は一向に行動を起こさなかった。夏彦も先延ばしにするばかりで、どうしても署名しようとはしなかった。私はもう、あの父子の顔を見たくなかったから、荷物をまとめ、その夜のうちに家を出た。月曜日の朝、会社で仲の良かった同僚が、朝礼の様子をLINEで教えてくれた。夏彦は、ひどく機嫌が悪かったらしい。普段から近寄りがたい人だが、その朝はいつにも増して威圧的で、誰も声をかけられないほどだったという。会議室に入ると、夏彦は出席者の顔を見回していたそうだ。まるで、誰かを探しているかのように。朝礼が終わる頃、夏彦は低い声で「伝えておきたいことがある」と切り出した。紫苑は話の内容を察したらしく、唇を噛んで夏彦に小声で話しかけたという。「ねえ夏彦、やっぱりもう少し待たない?じゃないと、私、会社にいづらくなっちゃう……」しかし夏彦は冷酷な目で彼女を一瞥し、会議室全体に聞こえる声で言った。「私が妻の存在を公表するのに、どうしてお前が困るんだ?」紫苑はばつが悪そうにうつむいた。他の社員たちは顔を見合わせ、ひどく驚いていた。社内では、誰もが夏彦を独身だと思っていた。社長と親しい女性として知られていたのは、元カノの紫苑くらいだったからだ。一体いつの間に妻なんてできたのか?戸惑いの視線が集まる中、夏彦は口を開いた。「私の妻は、涼野ひよりだ。結婚して6年になる。今後、私と特定の社員の関係について、くだらない噂を流すのはやめてもらいたい」その言葉に、社員たちは顔を見合わせた。何人かが紫苑に視線を向け、小声で言葉を交わし始めた。「えっ……社長、結婚してたの?」「じゃあ笠原さん、社長が既婚者だって知ってて、あんなにべったりしてたわけ?」「人の旦那を狙ってたってこと?信じられない……」「しかも彼女、普段から涼野さんの案件を横取りしたり、目の敵にしてたよね。まさか奥さんだって知ってて、わざとあんな嫌がらせを……?」紫苑は席に座ったまま顔を真っ赤にし、居たたまれない様子だった。やがて堪えきれなくなり、涙をこぼしながら会議室を飛び出した。夏彦は彼女の後ろ姿を見ていたが、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。それから、人事担当者へ低い声で尋ねた。「ひよりは?今日はどうし

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