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第245話

Author: かおる
星は雅臣の妻である。

だからこそ勇も、彼女に手を出すことはできなかった。

狙える相手といえば、権力も後ろ盾もないあの嫌な老人くらい。

ふだん雅臣の前では星の悪口を言いたい放題だが、もし本当に手を出せば、雅臣が簡単に許すはずがない。

飼い犬を叩けば、飼い主が黙ってはいない――その道理は彼とてよく分かっていた。

今回、星たち三人がどうしても和解に応じず、事態が大きくなったのは、自分にとっても不利益だ。

勇は衝動的ではあるが、決して無分別ではなかった。

利害を理解すれば、しばしば大人しく身を潜める。

なにしろ、山田グループの後継者という立場を、そう簡単に失うわけにはいかない。

しかも和解書はいま星の手元にあり、これ以上事を荒立てるわけにはいかなかった。

勇は声を潜める。

「清子、もう少し我慢しろ。

聞いた話だと、雅臣と星は祝日明けに離婚の手続きをするそうだ」

清子は思わず息を呑んだ。

「離婚?」

「そうだ。

星が、お前の病と俺の和解書を持ち出して、二百億を要求した。

雅臣は頭にきて、離婚を決意したらしい」

「本当なの?

その情報、確か?」

勇も、雅臣と誠の会話を小耳に挟んだだけで、半分は自分の憶測にすぎなかった。

だが彼は自信ありげに低く告げる。

「間違いない」

清子は深く息を吸い、胸の高鳴りを必死で押さえ込んだ。

「祝日明けに......本当に手続きを?」

「そうだ。

俺が雅臣に直接聞いた。

本人がはっきり認めていた」

勇は鼻で笑うように続けた。

「もっとも、離婚には手続きがある。

手続きが過ぎたあと、本当にあの女が応じるかは分からん。

二百億もせしめておいて、手のひらを返すかもしれない」

その額を聞いた清子の胸は嫉妬と憤りで張り裂けそうだった。

――どうして星なんかが、そんな大金を手にできるの。

雅臣と結婚したら、そのお金はすべて自分のものになるはずなのに。

彼女は考え込んだ末、声を潜める。

「勇、いい考えがあるの。

星に一銭も渡さない方法よ」

星と雅臣の離婚話を知ってから、清子は急に大人しくなった。

その間、葛西先生がわざと茶汲みや雑用を命じ、あえて難しい仕事を割り振っても、彼女はぐっと堪えて従った。

それを見て、葛西先生は不審げに呟く。

「おかしいな......星、あの小林、何を企ん
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