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第256話

Author: かおる
男の長く白い指が、ゆっくりとグラスを揺らす。

「勇の言うことも......一理あるな」

勇は得意げに笑った。

「だろ?

こういうのは散々見てきた。

雅臣は俺の言う通りにすれば間違いない」

雅臣はグラスの酒を静かに口に含み、その深い瞳は何を考えているのか掴めない。

陰鬱な光が底に漂っているようだった。

航平がさらに諫めようとしたその時、雅臣の携帯が鳴った。

彼が電話に出ている間に、航平は声を落として勇に言った。

「勇、おまえずっと雅臣に星と離婚して清子を娶れって言ってただろ。

なのに、なんで今さら止めるんだ?」

勇は電話口の雅臣を一瞥し、小声で答えた。

「前はそう思ってたさ。

でも清子はもう長くない。

たとえ雅臣と結婚できても、数ヶ月と生きられないだろう」

「それなら、星を離婚させて自由にさせるより、徹底的に縛りつけてやった方がいい。

あいつが別の男とくっつくなんて許せない」

航平は眉をひそめる。

「でも......おまえら、清子の病を治す名医を見つけたんじゃなかったのか?」

「さあな」

勇は肩をすくめた。

「その爺さんは星と顔なじみらしい。

清子を本気で診てくれるかどうかはわからない」

「それに、不治の病なんてそう簡単に治るもんじゃない。

多少寿命を延ばせても、完治は無理だろ」

「もし奇跡的に治ったら?」

航平が問いかける。

「その時は離婚させればいい」

勇は即答した。

「清子の病は、どう考えても最低でも一年や二年は治療が必要だ。

その間、星を縛りつけて苦しめればいい」

航平はしばらく黙り込んだ末、問いかけた。

「勇......おまえ、どうしてそこまで星を嫌うんだ?

まるでご先祖の墓でも掘り返されたみたいだぞ」

その頃、雅臣は助手の誠からの電話を受けていた。

「神谷さん、奥さまの件で一つご報告があるのですが......お聞きになりますか?」

星と雅臣は、まだ手続き中とはいえ法的には夫婦だ。

誠は逡巡した末、やはり報告すべきと判断した。

「話せ」

雅臣の声は低く抑えられている。

「実は、私の知人が人探しを頼んできまして。

国外のワーナーという音楽家が、偶然あるヴァイオリン演奏の映像を見て衝撃を受け、ぜひその演奏者を探したいと」

「相手は我が国に不案内で、あちこち伝手を回した末に私のと
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