LOGIN「分かったわ」星は約束の二十分前にレストランへ着いた。しかし、そこにはすでに航平が待っていた。「いつから来ていたの?」星が近づいて尋ねる。航平は彼女の顔を見つめ、穏やかに微笑むと立ち上がり、椅子を引いた。「私も着いたばかりだよ」注文を済ませたあと、星は抑えきれずに切り出した。「航平、先輩の件......」その名を口にした瞬間、航平の表情がわずかに曇った。彼は小さくうなずいた。「間違いない。あれは雅臣の仕業だ」星は驚きの色を見せなかった。航平は彼女に水を注ぎながら続けた。「今日、仕事の打ち合わせを口実に雅臣のところへ行ったんだ。彼の言い方からすると、君にスタジオを手放させるつもりらしい。清子のために作曲をさせる件も、諦めていない」星は鼻で笑った。「もし私が拒み続けたらどうなる?先輩を潰し、彩香を狙った次は、私に矛先を向けるってこと?」航平の顔は険しい。「星、雅臣は清子のためなら手段を選ばない。まだ力をつけきっていない今、正面からぶつかるのは賢明じゃない。一つのスタジオにこだわる必要はないだろう」星は無意識にグラスを握りしめた。「スターという名前すら、私は滅多に表に出さない。そんな大事な名を、彼女を売り出すための道具にしろというの?」そのとき、携帯が鳴った。慌てた声が電話越しに響く。「星!あの卑劣な男、雅臣がDNAの鑑定機関を買収したのよ!さっきネットに結果が出て、親子関係だって証明されちゃった!」星の心は、真っ暗な奈落に落ちるようだった。握っていたグラスが手を離れ、床に落ちて甲高い音を立てる。彼女は瞼を閉じ、胸の奥に渦巻く怒りを押し殺した。「分かったわ」声音は凪のように静かで、感情の揺らぎを微塵も感じさせない。その冷ややかさに、彩香はかえって不安を覚える。「星、大丈夫?本当に平気なの?」「平気よ」星は淡々と答えた。「この件は、私が片をつけるわ」さらに言葉を続けようとした彩香に、彼女は通話を切った。蒼白な顔色のまま、星を見つめる航平が問いかける。「何があった?」星は苦笑し、声を震わせずに言った。「あなたの言ったとおりよ。雅臣は清子のためなら、本当に何でもやる」蒼白な顔に浮か
影斗の目は深く澄み、光を湛えていた。「怜がおまえを心配して、昨夜はずっと星野おばさんが気がかりだ、会いに行きたいと言っていた。ちょうど休暇中で暇だったから、久しぶりに怜と過ごせたよ」水を飲み終えると、星の喉は幾分楽になった。「榊さん、ありがとう。昨夜のことも......助けてくれて感謝してるわ」影斗は気にする様子もなく言った。「もう、お礼は何度も聞いた」星は少し間を置いてから言った。「ごめんなさい。昨日は頭が朦朧としていて、よく覚えていなくて」影斗は彼女をまっすぐに見つめた。「星ちゃん、無理することはない。俺も怜も、いつでも力になる。それに借りを気にする必要もない。俺たちの間柄は、そこまで他人行儀じゃないだろう」深い黒の瞳が彼女を捉える。その眼差しは深潭のように底知れず、覗き込めば魂を引きずり込まれそうだった。星は思わず息を詰め、視線を逸らした。そのとき、病室のドアが開いた。「榊さん、朝食を買ってき......」言いかけて彩香は、すでに目を覚ましている星に気づいた。「星!起きたのね!」小走りにベッドへ寄り、彼女の額に手を当てる。熱が引いているのを確かめ、ほっと息をついた。「よかった。早めに気づいて本当に助かったわ」彩香は星のためにも朝食を用意していた。三人で食事を済ませると、星は影斗を説得して帰らせた。影斗が病院を後にしたあと、星は尋ねた。「先輩の様子はどう?」「すべて計画どおり。遅くとも明後日には結果が出るわ。それと......」彩香は星を見つめる。「星、航平から何か知らせは来てない?」「ないわ」星は首を振った。「雅臣は勇のように口が軽い人じゃない。もしかしたら、そもそも彼に話していないのかもしれない」「航平に探ってもらったほうがいいんじゃない?」彩香が小声で言う。星は数秒考え、うなずいた。「分かった。頼んでみる」先輩の件に加え、昨日は彩香まで危うい目に遭った。こんな偶然が続けば、不穏な影を疑わずにはいられない。大切な人が関わることなら、人に借りを作ってでも守らねばならなかった。星はすぐに航平に電話をかけた。二回目のコールで通話が繋がった。「星」航平の声はいつ
星はひと呼吸ためらったのち、口を開いた。「お母さんが言っていたわ。もしお父さんが明日香と縁を切ってくれるなら、家に戻ると」正道の笑みはすうっと消え、眉間に皺を寄せた。「もういい年をして、おまえの母親はどうしてまだそんな分別のないことを言うんだ」たしかに母は星にこう告げていた。――もし父や三人の兄がなぜ帰らないのかと尋ねたら伝えなさい。彼らが明日香と絶縁すれば、私は再び雲井家の夫人に戻ると。その言葉を思い出し、正道の口から「分別がない」と突き放された瞬間、星の胸はずしりと沈んだ。雲井家に戻る前、母はすべてを包み隠さず語ってくれていた。その長い因縁で最大の犠牲を負ったのは母だったはず。なのに父は、母の心情を「わきまえぬ振る舞い」と断じたのだ。星がさらに言葉を返す前に、翔が部屋に飛び込んできた。彼は冷たい眼差しで星を射抜き、敵意を隠さず吐き捨てる。「星、おまえはなんて腹黒い。明日香を追い出すために、自分の母親まで利用するのか」星が戻って以来、翔は一度として彼女を受け入れなかった。星も、もはや取り繕う気はなかった。「私がそこまで計算高いと言うのなら、直接お母さんに会って確かめればいいじゃない」「会いに行ったさ!」翔は激昂した。「だが母は俺と会おうともしなかった!星、おまえが止めたんだろう!」星の声は冷たく響いた。「私にそんな力があるなら、とっくにお母さんを家に戻しているわ」翔は言葉を失った。正道が二人の間に割って入る。「もういい。彼女が戻りたくないのなら、それで構わん。いずれ影子が恋しくなれば、自分から戻ってくるさ」父の言葉で押しとどめられ、星も翔もそれ以上は口を開かなかった。だがそれ以来、二人の間で会話はほとんど絶えた。その後――明日香に幼いころから口約束で決められていた婚約者、誠一がこの話を聞きつけて戻ってきた。彼はときに勇よりも皮肉を口にしたが、少なくとも頭は回った。明日香は星より一歳年上で、商学部への進学を望み、卒業後は家業に携わろうとしていた。生来、商才に恵まれていた。ところが正道は、なぜか彼女に音楽を学ばせようとした。その理由を、周囲は「星が背後で唆したからだ」と言い立てた。やがて星は「腹黒女」「清純ぶった女」と
三番目の兄の言葉は、すぐさま父と長兄から叱責を受けた。しかし、その長兄もまた、厳めしい顔を向けて口を開いた。「影子、とにかく明日香は正真正銘俺たちと血のつながった妹だ。前の世代の恩讐を、俺たちの代に持ち込むな。心構えを正してほしい。雲井の家族は多くない。身内の不和など、噂にされたくないんだ」大財閥の家では、隠し子や偽りの令嬢といった醜聞まがいの話など珍しくない。雲井靖(くもい やすし)もそうした事例を散々見てきた。だからこそ家の安寧のため、世間に笑いものにされぬために、あえて最初から厳しい言葉を告げたのだ。靖の言葉に、父の正道が笑いながら口をはさんだ。「靖、おまえは真面目すぎる。今日は影子が帰ってきた初日だ。あまり怖がらせるな。家の作法なんてものは、少しずつ教えればいい。急ぐ必要はないさ」すると、それまで黙っていた次男――忠が言った。「いや、兄さんの言うことはもっともだ。最初にきちんと影子に話しておいた方がいい。軽率なことをして、雲井家の名に泥を塗られては困る。笑いものにでもなったら、良い縁談も望めなくなるだろう」その言葉からは、彼らが星の帰還を「箔をつけて良縁を得ようとしているのだ」と捉えていることが透けて見えた。なにしろ、雲井家は一流の名門なのだ。当時の星はまだ幼く、思い描いていた「家族の情」というものが、このようなものだとは夢にも思わなかった。同じ母から生まれた兄たちなら、冷たくされることはないと信じていたのだ。だが、現実は違った。彼らの態度には喜びの欠片もなく、ただ排斥の色ばかりがにじんでいた。一方、明日香は特に嫌悪を示すこともなかった。だが、殊更に親しもうとする様子もない。家族も「姉妹仲睦まじく」と強要することはなく、暗黙の了解として――表面上の和を保てれば十分と考えていた。星は、自分の加入によって、家の空気が微妙に変わったことをはっきりと感じ取っていた。彼女に与えられた部屋は明日香と同じ。衣食住もすべて令嬢の規格に合わせられ、明日香が持つものは一つも欠けることなく与えられた。決して誰かを差別することはなかった。完璧に平等で、揚げ足を取られる余地もないほどに。だが――そこにはどうしても何かが欠けている感覚があった。
彩香はこれまでも痴漢に遭ったことはあったが、今回のような状況は初めてだった。まるで街中で女を強引にさらうのと変わらない。星はそっと彼女を慰める。「彩香、大丈夫よ」影斗はにやりと笑いながらも冷ややかな視線を遠藤に向けた。「遠藤、どうして女の子を泣かせたんだ?」遠藤は悟った。完全に恐ろしい相手を怒らせてしまったのだと。彼は膝をつき、その場で土下座すると、自分の頬を容赦なく叩き始めた。「榊さん、俺が間違ってました。もう二度としません!」手加減する余裕もなく、力いっぱい叩くうちに顔はたちまち腫れ上がった。さらに影斗の怒りが収まらないのではと恐れ、遠藤は茶卓の酒瓶を手に取り、自らの頭に叩きつけた。「ガンッ、ガンッ!」ガラスの破片が飛び散り、個室の床一面に散乱する。誰一人、止める者はいなかった。部屋の中は水を打ったように静まり返り、響くのは瓶の砕ける音だけ。彩香も、そのあまりに異様な光景に言葉を失った。ついに遠藤は自分で自分を叩きのめし、血だらけで気を失った。影斗はようやく視線を外し、星に向かって言った。「彩香はもう受け取った。行こう」星は小さくうなずいた。出たところで、星は隣に目をやり、低い声で言った。「榊さん、今日は本当にありがとう」影斗は笑みを浮かべる。「俺たちの仲で、礼なんていらないだろう?」今回、影斗がいなければ、準備もなく彩香のもとへ駆けつけるなど絶対にできなかった。影斗は時計をちらりと見て言った。「病院に行こう。今すぐだ」彩香は、星が熱を出しているのに駆けつけてくれたことを思い、胸が痛んだ。「ごめん、星。私が無鉄砲だったせいで......」星は柔らかく笑った。「あなたは悪くないわ。自分を守ろうとしただけでしょう?それに――」彼女の瞳には、澄んだ冷ややかな光が流れていた。「今回のこと、ただの不運じゃないかもしれない。誰かが仕掛けたのかも」彩香は息を詰め、何かに気づいたように目を伏せた。三十分後、影斗は車を走らせて病院へ。彩香が付き添い、星は点滴を受けた。「榊さん、こんな遅くにまで手を煩わせてしまって申し訳ないわ。怜くんも待ってるだろうし、もう休んで」そう言う星に、影斗は首を横に振った。
その様子を見て、星はそれ以上拒まなかった。影斗の車に乗り込むと、星は住所を告げ、そのまま目を閉じた。頭は朦朧とし、体は力が入らない。シートに身を預けるうちに、いつしか眠りに落ちていた。どれほど経ったのか分からない。誰かに肩を揺すられて、星は目を覚ました。「星ちゃん、起きて」ようやく瞼を開けたものの、頭の中は真っ白で、自分がどこにいるのかも分からない。だがすぐに、彩香のことを思い出した。「もう着いたの?」動きの鈍い手でシートベルトを外し、ドアを開けて外へ出た。足を踏み出した途端、膝にうまく力が入らず、倒れそうになった。そのとき、白く長い指が支えた。「星ちゃん、歩けるか?」影斗の瞳に、普段の柔らかな笑みはなく、珍しく厳しい色が浮かんでいた。「ここで待ってて。俺が行ってくるよ」彼女の様子では、少し風が吹いただけでも倒れてしまいそうだ。「大丈夫よ」星は目を閉じ、しばし呼吸を整えた。「少し休めば歩けるわ」一分後、彼女は再び目を開けた。「行きましょう」問題の個室に入ると、彩香は数人の用心棒に壁際へ押しつけられていた。両頬は腫れ上がり、何度も平手を受けたのが一目で分かった。室内では、頭に白い包帯を巻いた若い男が、血走った目で彩香を睨みつけていた。「連れを呼んだそうだな?今日は誰が来ようと、ここから出すものか!」その言葉が終わるより早く、ドアが開いた。入ってきたのは蒼白な顔の女と、気怠げな美貌の男。女を見た瞬間、遠藤の目がぎらりと光った。驚嘆の色が走る。「おお、さっきの女よりもずっときれいじゃないか」口元にいやらしい笑みを浮かべ、星を頭から足まで舐めるように見つめる。獲物を狙う獣そのものの目つきだった。遠藤はもともと女癖が悪く、気に入った女は手段を選ばず我が物にしてきた。先ほど廊下で彩香を見かけたときも、力ずくで個室に引き込んだのだった。遠藤家はS市でも名の知れた家柄で、後始末はいつも家が引き受けてくれる。その安心感が、遠藤の傍若無人さをさらに助長していた。だがそのとき、不意に鋭く冷たい視線を感じた。入室して以来、遠藤の意識は星にばかり向いていたため、一緒に入ってきた男に気づいていなかったのだ。不快げに顔を向け、誰かと思