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3話

Autor: Amy
last update Fecha de publicación: 2026-09-23 14:11:41

若菜が幼稚園へ駆けつけると、祥子は門の前で湊の手を取っていた。

担任の琴音は湊の通園バッグを胸に抱え、困り切った顔で若菜を見た。若菜の姿を認めると、張り詰めていた息をそっと吐く。

そのすぐそばには、祥子が湊を車へ連れていかないよう、園の主任職員が立っていた。

門前に止まった黒塗りの車には、子ども用のシートが取り付けられている。

後部座席の足元には、新品の青いリュックが置かれていた。

朝の送りに来た保護者たちは、黒塗りの車と、湊の手を離そうとしない祥子を見比べ、子どもを園内へ送りながら何度も振り返っていた。

「湊」

若菜が呼ぶと、湊が振り返り、母へ手を伸ばした。

「お母さん」

それでも祥子は、湊の手を離さなかった。

「ちょうどよかったわ。今日は幼稚園を休ませて、本邸へ連れて帰ります」

「そんな話は聞いていません」

「いつまで待っても湊くんに会わせてもらえないから、ここで待っていたの」

祥子は空いた手で、車の後部ドアを開けた。

「本邸には、お父さんが子どもの頃に使っていた部屋が残っているの。昔の写真もたくさんあるわ。今日は幼稚園を休んで、おばあちゃんの家で過ごしましょう」

湊は車の中を見てから、祥子を見上げた。

「お母さんも行く?」

「若菜さんとは、あとで話すわ。さあ、乗って」

「待ってください」

主任職員が祥子を制し、若菜を見た。

「お母さま、湊くんはこのまま登園でよろしいですか」

「はい。お願いします」

主任職員は若菜の返事を確認すると、湊の前へ半歩出た。

「では、このまま園でお預かりします」

「家族の話です。口を挟まないでくださる?」

「園児の安全に関わることですので、そうはいきません」

「お母さん」

湊が若菜を見上げた。

祥子の指が緩んだ隙に、若菜は湊の手を取り、自分の隣へ寄せた。

「湊を連れていかないでください」

「あなたが仕事へ行っている間、湊くんに何かあったらどうするの」

「今までどおり、幼稚園と預かり保育を利用します」

「他人へ預けるくらいなら、祖母の私がいるでしょう」

若菜は、開いたままの後部座席へ目を向けた。

祥子はその視線を追い、足元に置かれていた青いリュックを取り出した。

ファスナーを開くと、中には新品のパジャマと歯ブラシ、数日分の着替えが詰められていた。

「湊くんの部屋も用意したわ。送り迎えも食事も、家の者が面倒をみるの。圭吾が育った家で暮らせば、湊くんだって父親を近くに感じられるわ」

若菜は、祥子の腕に抱えられたリュックを見た。

「今日だけ連れて帰るつもりではなかったんですね」

祥子はファスナーを閉めた。

「今日から本邸で暮らせばいいの」

若菜は後部座席に残された荷物から目を離さなかった。

「私に何も言わず、今日から湊を本邸へ連れて帰るつもりだったんですか」

祥子は若菜を見返した。

「先に話したら、あなたは連れて帰らせてくれた?」

若菜が答える前に、祥子は顎をわずかに上げた。

周囲の保護者が聞き耳を立てていることに気づいても、声を落とそうとはしない。

むしろ、若菜がどんな立場で榊原家へ入ったのか、ここで思い知らせるつもりのようだった。

「妊娠がなければ、あなたは榊原家に嫁ぐことなんてできなかったわ。圭吾に選ばれたからといって、自分まで榊原の人間になれたと思わないで」

その言葉に、若菜は結婚後初めて本邸の新年会へ招かれた日のことを思い出した。

祥子は親族を次々と座敷へ案内した。

最後に若菜が入ろうとしたところで、「ここは身内だけの席よ」と告げ、その目の前で襖を閉めた。

「家族写真を先に撮るから、あなたは外で待っていて」

しばらくして圭吾が迎えに来ると、祥子は笑顔を崩さないまま言った。

「籍を入れただけで、榊原の人間になれるわけではないでしょう」

身重だった若菜は、廊下の椅子に座って待った。

閉じた襖の向こうから、親族の乾杯とカメラのシャッター音が聞こえていた。

あの日から、祥子は若菜を家族に含めず、お腹の子だけを榊原の血として扱ってきた。

湊の指が、若菜の手をきゅっと握った。

その小さな力に、記憶の中の閉じた襖が遠のく。

目の前には、子ども用のリュックを抱えた祥子がいる。

祥子が今も欲しがっているのは若菜ではない。榊原の孫である、湊だけだった。

若菜は答えなかった。

「葬儀にも湊を連れてこなかった。今度は、圭吾が育った家にさえ近づけないつもり?」

「そういう話は、湊の前ですることではありません。今日は登園させます。続きは、あとで落ち着いて話しましょう」

「あとでって、いつよ」

祥子はリュックを抱く腕に力を込めた。

「電話では、会わせる日さえ決まらない。圭吾が亡くなってから、私は一度もこの子とゆっくり話せていないのよ」

「葬儀」という言葉に、門へ向かっていた保護者が振り返った。

事情を知らない子どもが湊を見つめ、母親に手を引かれて園内へ入っていく。

琴音は通園バッグを抱えたまま、心配そうに湊の顔をうかがった。

湊は若菜の手を握り、うつむいていた。

大人たちの視線が自分へ集まっていることだけは分かっている。

若菜は祥子へ声を落とした。

「これ以上は、ここで話せません」

祥子が焦る理由は、若菜にも分かっていた。

息子を失ったうえ、孫まで自分から離れていくのが怖いのだろう。

だから話し合うより先に、車も部屋も用意した。

それでも、湊をこのまま連れていかせることはできない。

祥子は若菜には答えず、リュックを抱えたまま湊の前へしゃがんだ。

「本邸に来れば、お父さんの写真をたくさん見られるのよ。見たいでしょう?」

湊は小さくうなずいた。けれど、若菜の手は離さなかった。

「見たい。でも、今日は幼稚園に行く。終わったら、お母さんとおうちに帰る」

祥子の唇が震えた。

「お母さんに、そう言われたの?」

「違うよ。僕、今日は幼稚園に行きたい」

湊は若菜の後ろへ半歩下がり、その服をつかんだ。

始業を知らせる音楽が園舎から流れた。

若菜は湊の前へしゃがみ、帽子をかぶり直してやった。

「先生と中へ行って。帰りはお母さんが迎えに来るから」

湊はうなずき、琴音に付き添われて門をくぐった。

途中で一度振り返ったが、祥子は手を振れなかった。

湊の姿が園舎へ消えると、祥子はリュックを抱えたまま立ち上がった。

若菜は主任職員へ頭を下げた。

「今後も、私から連絡がない限り、ほかの方には引き渡さないでください」

「私を他人扱いするの?圭吾を失った私に、残ったのはあの子だけなのよ」

若菜は何も言い返さなかった。

祥子の声が震えた。

「圭吾を失った私に、残ったのはあの子だけなのよ」

若菜は何も言い返さなかった。

祥子はリュックを車へ戻し、後部座席へ乗り込んだ。

扉が閉まったあと、窓がゆっくりと下がる。

「圭吾の四十九日には、私の実家の親族も大勢来るわ。葬儀のときのように、また私に恥をかかせたら、今度こそ許さない」

四十九日――その言葉に、若菜の表情が止まった。

白い菊。小さな遺影。祭壇の前で、最後まで顔を上げなかった人の背中。

胸の奥に沈めていた光景が浮かび、若菜の目に、怒りとも悲しみともつかない色がにじんだ。

だが、何かを言いかけたときには、窓が上がり、祥子の顔を隠していた。

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