INICIAR SESIÓN若菜が幼稚園へ駆けつけると、祥子は門の前で湊の手を取っていた。
担任の琴音は湊の通園バッグを胸に抱え、困り切った顔で若菜を見た。若菜の姿を認めると、張り詰めていた息をそっと吐く。
そのすぐそばには、祥子が湊を車へ連れていかないよう、園の主任職員が立っていた。
門前に止まった黒塗りの車には、子ども用のシートが取り付けられている。
後部座席の足元には、新品の青いリュックが置かれていた。
朝の送りに来た保護者たちは、黒塗りの車と、湊の手を離そうとしない祥子を見比べ、子どもを園内へ送りながら何度も振り返っていた。
「湊」
若菜が呼ぶと、湊が振り返り、母へ手を伸ばした。
「お母さん」
それでも祥子は、湊の手を離さなかった。
「ちょうどよかったわ。今日は幼稚園を休ませて、本邸へ連れて帰ります」
「そんな話は聞いていません」
「いつまで待っても湊くんに会わせてもらえないから、ここで待っていたの」
祥子は空いた手で、車の後部ドアを開けた。
「本邸には、お父さんが子どもの頃に使っていた部屋が残っているの。昔の写真もたくさんあるわ。今日は幼稚園を休んで、おばあちゃんの家で過ごしましょう」
湊は車の中を見てから、祥子を見上げた。
「お母さんも行く?」
「若菜さんとは、あとで話すわ。さあ、乗って」
「待ってください」
主任職員が祥子を制し、若菜を見た。
「お母さま、湊くんはこのまま登園でよろしいですか」
「はい。お願いします」
主任職員は若菜の返事を確認すると、湊の前へ半歩出た。
「では、このまま園でお預かりします」
「家族の話です。口を挟まないでくださる?」
「園児の安全に関わることですので、そうはいきません」
「お母さん」
湊が若菜を見上げた。
祥子の指が緩んだ隙に、若菜は湊の手を取り、自分の隣へ寄せた。
「湊を連れていかないでください」
「あなたが仕事へ行っている間、湊くんに何かあったらどうするの」
「今までどおり、幼稚園と預かり保育を利用します」
「他人へ預けるくらいなら、祖母の私がいるでしょう」
若菜は、開いたままの後部座席へ目を向けた。
祥子はその視線を追い、足元に置かれていた青いリュックを取り出した。
ファスナーを開くと、中には新品のパジャマと歯ブラシ、数日分の着替えが詰められていた。
「湊くんの部屋も用意したわ。送り迎えも食事も、家の者が面倒をみるの。圭吾が育った家で暮らせば、湊くんだって父親を近くに感じられるわ」
若菜は、祥子の腕に抱えられたリュックを見た。
「今日だけ連れて帰るつもりではなかったんですね」
祥子はファスナーを閉めた。
「今日から本邸で暮らせばいいの」
若菜は後部座席に残された荷物から目を離さなかった。
「私に何も言わず、今日から湊を本邸へ連れて帰るつもりだったんですか」
祥子は若菜を見返した。
「先に話したら、あなたは連れて帰らせてくれた?」
若菜が答える前に、祥子は顎をわずかに上げた。
周囲の保護者が聞き耳を立てていることに気づいても、声を落とそうとはしない。
むしろ、若菜がどんな立場で榊原家へ入ったのか、ここで思い知らせるつもりのようだった。
「妊娠がなければ、あなたは榊原家に嫁ぐことなんてできなかったわ。圭吾に選ばれたからといって、自分まで榊原の人間になれたと思わないで」
その言葉に、若菜は結婚後初めて本邸の新年会へ招かれた日のことを思い出した。
祥子は親族を次々と座敷へ案内した。
最後に若菜が入ろうとしたところで、「ここは身内だけの席よ」と告げ、その目の前で襖を閉めた。
「家族写真を先に撮るから、あなたは外で待っていて」
しばらくして圭吾が迎えに来ると、祥子は笑顔を崩さないまま言った。
「籍を入れただけで、榊原の人間になれるわけではないでしょう」
身重だった若菜は、廊下の椅子に座って待った。
閉じた襖の向こうから、親族の乾杯とカメラのシャッター音が聞こえていた。
あの日から、祥子は若菜を家族に含めず、お腹の子だけを榊原の血として扱ってきた。
湊の指が、若菜の手をきゅっと握った。
その小さな力に、記憶の中の閉じた襖が遠のく。
目の前には、子ども用のリュックを抱えた祥子がいる。
祥子が今も欲しがっているのは若菜ではない。榊原の孫である、湊だけだった。
若菜は答えなかった。
「葬儀にも湊を連れてこなかった。今度は、圭吾が育った家にさえ近づけないつもり?」
「そういう話は、湊の前ですることではありません。今日は登園させます。続きは、あとで落ち着いて話しましょう」
「あとでって、いつよ」
祥子はリュックを抱く腕に力を込めた。
「電話では、会わせる日さえ決まらない。圭吾が亡くなってから、私は一度もこの子とゆっくり話せていないのよ」
「葬儀」という言葉に、門へ向かっていた保護者が振り返った。
事情を知らない子どもが湊を見つめ、母親に手を引かれて園内へ入っていく。
琴音は通園バッグを抱えたまま、心配そうに湊の顔をうかがった。
湊は若菜の手を握り、うつむいていた。
大人たちの視線が自分へ集まっていることだけは分かっている。
若菜は祥子へ声を落とした。
「これ以上は、ここで話せません」
祥子が焦る理由は、若菜にも分かっていた。
息子を失ったうえ、孫まで自分から離れていくのが怖いのだろう。
だから話し合うより先に、車も部屋も用意した。
それでも、湊をこのまま連れていかせることはできない。
祥子は若菜には答えず、リュックを抱えたまま湊の前へしゃがんだ。
「本邸に来れば、お父さんの写真をたくさん見られるのよ。見たいでしょう?」
湊は小さくうなずいた。けれど、若菜の手は離さなかった。
「見たい。でも、今日は幼稚園に行く。終わったら、お母さんとおうちに帰る」
祥子の唇が震えた。
「お母さんに、そう言われたの?」
「違うよ。僕、今日は幼稚園に行きたい」
湊は若菜の後ろへ半歩下がり、その服をつかんだ。
始業を知らせる音楽が園舎から流れた。
若菜は湊の前へしゃがみ、帽子をかぶり直してやった。
「先生と中へ行って。帰りはお母さんが迎えに来るから」
湊はうなずき、琴音に付き添われて門をくぐった。
途中で一度振り返ったが、祥子は手を振れなかった。
湊の姿が園舎へ消えると、祥子はリュックを抱えたまま立ち上がった。
若菜は主任職員へ頭を下げた。
「今後も、私から連絡がない限り、ほかの方には引き渡さないでください」
「私を他人扱いするの?圭吾を失った私に、残ったのはあの子だけなのよ」
若菜は何も言い返さなかった。
祥子の声が震えた。
「圭吾を失った私に、残ったのはあの子だけなのよ」
若菜は何も言い返さなかった。
祥子はリュックを車へ戻し、後部座席へ乗り込んだ。
扉が閉まったあと、窓がゆっくりと下がる。
「圭吾の四十九日には、私の実家の親族も大勢来るわ。葬儀のときのように、また私に恥をかかせたら、今度こそ許さない」
四十九日――その言葉に、若菜の表情が止まった。
白い菊。小さな遺影。祭壇の前で、最後まで顔を上げなかった人の背中。
胸の奥に沈めていた光景が浮かび、若菜の目に、怒りとも悲しみともつかない色がにじんだ。
だが、何かを言いかけたときには、窓が上がり、祥子の顔を隠していた。
「昨日、英明さんに電話した。何にどこまで出してくれるのか、聞いたんだ」湊が寝てからかけた電話で、直人は先にそう言った。若菜は居間の椅子に座り直した。今日のことを書いたメモの横に、圭吾のファイルを置いている。「何て?」「金額は、そのとき決めると。大きな金が必要なことは、決める前に話せと言われた」「話したら、あの人がいいと言うまで待つの?」「そこを聞いたら、相談もせず金だけ出せと言うのかって」若菜は目を閉じた。助けるという言葉だけを、何度も思い返していた。先へ進めば、何をするにも英明の返事を待つことになるのかもしれない。「まだ返事はしていない。お前と話してからにすると言った」「うん。……今日、圭吾のことで聞いたことがあるの」若菜はメモへ目を落とし、本邸での話を伝えた。圭吾が帰ろうとしたこと。英明が腕をつかみ、肩を押し戻したと言ったこと。頭を打った場所も、若菜が当時聞いていた話にはなかった。直人は途中で一度、短く聞き返した。「本人が、そう言ったんだな」「うん。祥子さんと相馬さんもいた」祥子が葬儀前から知っていたことまで話すと、若菜は携帯を膝へ下ろしかけた。まだ通話中だと思い出し、耳へ戻す。「今、大丈夫か」直人の声がした。「聞いたときより、今のほうが……」続きを言えなかった。人に話すと、英明の
「私も、圭吾の家族です」若菜は開いた扉の前で振り返った。英明は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。「家族なら、何をしてもこの家だけで済ませていいんですか」「誰がそんなことを言った。お前は、聞いたことを全部分かったつもりなのか」「分からないから、ほかの人にも聞いてもらいます」「何をする気だ」英明が椅子の肘をつかんだ。若菜はバッグの持ち手を握り直した。声を張り合えば、今度は何を言われるだろう。圭吾を失ってから、何度もこの家で答えを求められた。そのたびに、自分が隠していることが怖かった。今も、怖くなくなったわけではない。「私ひとりでは決められません。今日聞いたことも、まだ知らないこともあります。でも、なかったことにはしません」祥子が顔を上げた。「若菜さん。湊くんのことまで、人に話すことになるかもしれないのよ」その言葉に、足が止まった。湊の出生を伏せたのは自分だ。圭吾に言えなかったことも、言わずに過ごした日々もある。自分に都合の悪いところだけ閉じて、誰かに話を聞いてほしいとは言えない。「必要なら、私が答えます」若菜は祥子を見た。「でも、私に話せなかったことがあるからって、圭吾がどうして亡くなったのか、聞いてはいけないわけではないでしょう」祥子は返事をしなかった。相馬が廊下へ下がった。若菜はふたりに背を向け、開いている扉を通った。&n
「知っていて、私にあんなことを言ったんですか」若菜が尋ねると、祥子は膝の上で握っていた布を離した。白い花の前で、祥子は湊を呼び戻せと怒鳴った。父親との最後の別れまで奪うのかと、母親として何とも思わないのかと。そのとき、この人は知っていた。若菜の夫が、自分で転んだわけではなかったことを。「あの日は、圭吾のことしか考えられなかったの」祥子が言った。「棺が閉まったら、もう顔も見られない。なのに湊くんまでいなくて……」「私も、圭吾を見送っていたんです」若菜の声が震えた。棺のそばで立っていた自分を、祥子は見ていたはずだった。泣き崩れなかったから悲しくないとでも思ったのだろうか。湊がいない理由を説明するために立っていたわけではない。「祥子さんに責められながら、私も、あの人とお別れしていたんです」祥子は若菜を見た。何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。英明が椅子の上で身じろぎした。若菜はそちらを見ず、祥子へ尋ねた。「どうして、英明さんは話したんですか」「私が聞いたのよ。ふたりで話していただけなのに、どうしてあんなことになったのかって」祥子の目が、隣の英明へ向いた。「圭吾が亡くなってからよ。何度考えても、分からなかった。転んだとしか聞いていなかったから」英明は何も言わなかった。「引き止めただけだと言ったわ。話が終わるまで、部屋
「部屋へ戻そうとした」英明は立ったまま、若菜へ顔を向けた。「まだ話は終わっていなかった。あいつが勝手に出ていこうとするからだ」「腕をつかんで、戻したんですか」「こっちを向かせた。それから、肩を……」英明の手が胸の高さまで上がり、止まった。若菜はその手を見た。今、目の前の空気を押しかけた手に、あの夜は圭吾の体があった。「押し戻したんですね」「そうだ。だが、転ばせるつもりはなかった」隣の祥子が顔を背けた。若菜は英明から目を離せなかった。「どこで、ですか」「小書斎だ。扉のところでつかんだ。部屋へ戻れと言ったんだ」英明は上げていた手を下ろした。「圭吾が、よろけた。扉の脇に棚があるだろう。低い、木の収納だ。あそこに頭をぶつけた」若菜はその部屋を知っていた。扉を開けると、脇に英明の書類を収めた低い棚がある。以前、圭吾が書類を取りに入るのを、廊下で待ったこともあった。あの棚に。いつもの部屋と夫の姿が結びついた途端、若菜は膝の上のバッグを両手で押さえた。そこに倒れた圭吾を想像したくなかった。けれど、何が起きたかを聞きたかったのは自分だ。「圭吾が、自分で足を滑らせたんじゃなかったんですね」英明は返事をしなかった。扉の脇にいる相馬も動かない。誰かが違うと言うのを、若菜は待っていた。聞き間違いだと分かれば、今ならまだ、あの棚と圭吾を別
「帰ろうとしたことが、圭吾のせいになるんですか」若菜が言うと、英明は椅子の肘掛けから手を離した。「話の途中だったと言っている」「それで、圭吾をどうしたんですか」向かいの祥子が、隣の夫を見た。扉の脇にいる相馬も口を挟まない。若菜は膝に置いたハンカチを握り、英明の返事を待った。圭吾は、考えを変えなかった。そのことを聞いたときは、もう一度夫に会えたようでうれしかった。仕事を離れたら、どんな毎日にしたかったのだろう。その続きを聞く前に、帰ろうとした圭吾が悪かったことにされている。「腕をつかんだだけだ」英明は若菜を見返した。「まだ話が終わっていなかったんだからな」若菜の手が止まった。本邸で転んで、頭を打った。そう聞かされてから、何度も、どうして足を滑らせてしまったのだろうと思った。その前に、この人が圭吾の腕をつかんでいた。「……つかんだんですか」英明は答えず、肘掛けへ手を戻した。若菜は夫が帰ろうとしていたことを、さっき知ったばかりだった。帰ってきていれば、また顔を見られたのだろうか。玄関で湊を呼ぶ声を聞けたのだろうか。そう考えた瞬間、続きの言葉が出なくなった。目の前の人は、夫が向かおうとした先から引き止めた人だった。何が起きたのかを知るには、その人に聞くしかない。「そのことは、私には話してくださらなかったんですね」「引き止めただけだ。それを、お前はどう受け取るつもり
「あなたの話を信じたからでしょう」祥子は隣の英明へ体を向けた。「大げさにするなと言われて、私がどう思うと思うの?あなたが圭吾のそばにいたのよ」英明の口元が動いた。若菜は、その返事より先に祥子へ声をかけた。「圭吾のところへ行ったとき、呼びかけには答えたんですか」祥子が振り向いた。夫に向けていた勢いのまま何か言いかけ、若菜の顔を見ると口を閉じた。卓には、閉じた雑誌が置かれたままだった。若菜はその向こうの祥子を見て待った。ここでまたふたりが言い争えば、圭吾の様子を聞けないままになってしまう。「名前を呼んだら、こちらを見たわ」祥子の声が小さくなった。「返事もしたの」若菜は膝のバッグを握った。「声が、出ていたんですね」「ええ。でも、いつものように話せたわけではないわ。だから、先生に早く来てもらわないと、と思ったのよ」圭吾は、そのときまだ、人の声に応えていた。本邸で転び、救急車で運ばれた。若菜が聞かされてきたその短い説明の中に、夫が誰かの呼びかけを聞き、顔を向けた時間があった。自分も、名前を呼びたかった。そう思った途端、祥子の顔が見えにくくなった。若菜は目を伏せ、バッグからハンカチを出した。連絡があれば間に合ったのか。自分が来ていたら、何かできたのか。それは分からない。けれど、夫の声がまだ出ていたと聞けば、その場にいたかったと思わずにはいられなかった。どんな返事だったのだろう。&