蝋の火は、小さな心臓みたいに揺れていた。
冷えた石の壁は夜を抱え込み、息をするたび白くほどける。 机の上の薄い紙に、丸い染みがひとつ、またひとつ。 涙か、蝋か、血か。もう、どれでもよかった。 ——やり直せるなんて、思ってなかった。 でも、もしもう一度だけ“選べる”なら。 筆が静かに止まったとき、廊下の向こうで鉄が鳴った。 重たい扉が、きぃ……と、眠れない夜の背中を裂く。 黒が滲み、風が流れ込む。 そこに立つ輪郭は、冬を連れてきたみたいに、空気を澄ませた。 氷の色の瞳。無駄のない所作。息の音まで静かに整っている。 「……君が、最後に会いたい相手がいると聞いた」 低く、温度の決められた声。 蝋燭の炎がぱち、と跳ね、影が壁を登る。 「ええ。……あなた、です」 唇の端だけを、ほんの少し上げる。 笑ったのか、挑んだのか。自分でも判じきれない。 「……公爵閣下」 沈黙が、深く沈んだ水みたいに広がる。 彼の視線が机の端へ降り、手首の鎖をなぞった。鉄は冷たい。皮膚は慣れている。 「処刑前に……そんな冗談を言う気分か」 「冗談を言うほど、もう元気じゃありません」 小さく息を吸い、喉の奥で熱を飲む。 「でも、取引なら——まだ、できる」 紙の擦れる音が、夜の底を少しだけ明るくした。 机に一冊、薄い小さな本を置く。灰薔薇色。端が焦げたみたいに黒ずんで、ひんやり掌に馴染む。 「これが、わたしの唯一の力です」 ページをそっと開く。 「……未来の“感情”だけが、先に滲む本」 「感情?」 彼の眉がかすかに動く。氷に触れた指先みたいな変化。 「言葉じゃないの。 誰かの胸の温度とか、息の速さとか……そういう『残り香』だけが、先に浮くの」 紙の上に、薄い文字が灯る。 〈安堵〉 〈光〉。 二つの語の脇に、名前がうっすら結ばれている。彼と、わたし。 蝋の炎が細くなり、影が長く伸びた。 外では風が石壁に沿って巡り、遠くで木の足場が軋む音がする。明日の朝のための音。 「……何が言いたい」 彼の声は、静かに落ちる。水面の重さで、音が小さく沈む。 「王位継承戦」 指が紙に影を落とす。 「あなたは——裏切られる」 息が少し詰まって、胸が痛む。 「でも……勝てる方法を、知っている」 「どうやって」 「わたしと、結婚すれば」 音が消える。 夜鳥が一声、冗談みたいに鳴いて、すぐ黙った。 息を吸えば冷たさが肺に刺さり、吐けば白がほどけて灯に溶けた。 一歩、近づいてくる。 革靴の底が石を撫でるささやかな音。 氷の匂い。金具の擦れる音。 影が炎を覆い、世界が彼の輪郭で塗り替わる。 「……君は、何を望む」 「一年だけの契約婚」 喉の乾きを舌で整える。 「あなたを勝たせるかわりに、わたしを——生かして」 言葉の端が震えるのに、目だけは静かだった。 恐い。けど、逃げない。 その二つが、胸の同じ場所で脈を打っている。 「死にたくないのか」 「……終わりたくないだけです」 短い沈黙が、ひとつ。 彼は懐へ指を入れ、小さな銀の印章を取り出した。 冷えた光が蝋燭の縁に触れて、白い輪郭を作る。 その印が、私の手首にそっと触れた瞬間—— 薄いきしみ音。 氷の膜が、水面に花を咲かせるみたいに広がって、輪になった。 誓環。 冷たさが、うすく、締まる。逃げ場のない、透明の束縛。 「……痛い」 思わず漏れた声は、自分のものじゃないみたいだった。 「嘘をついた方が、痛むらしい」 感情のない言い方。なのに、どこか、尖りを研いで鞘に戻す手つきのように、優しい。 息を吸う。胸が小さく跳ねる。 視線が落ち、指が氷の輪を確かめる。透きとおって、脈に合わせてわずかに光る。 「……信じて、くれるの?」 「取引には興味がある」 そこでほんのわずか、口角が揺れた。 「君という“嘘”にも、な」 嘘という言葉に、誓環がひやりと光を深め、すぐ静まる。 ——痛みは来ない。私は、いま嘘をついていない。 胸の奥の何かが、知らないリズムで鳴いた。 鍵が回る。鎖が外れる。 鉄が床を撫でる音が、夜の底を滑っていく。 残った痕は、白く。冷たい指で触れたみたいに薄い。 「立てるか」 「ええ」 椅子が石を引っかく音を、そっと抑える。 足元が少し揺れて、支えるように机の端をつかむ。 彼が手を差し出した。白い手袋。 迷ってから、触れる。 誓環が、微かに点いた。 ちいさく、温度があがった。彼の方が。 一段目の石は冷たく、二段目は少し湿っていて、三段目で蝋燭の匂いが薄くなった。 階段は長い。 上へ、上へ。 それでも私は、今日の昼の自分より、少しだけ軽かった。 途中、息が揺れて、彼がわずかに振り返る。 「無理はするな」 「……してません」 言い切れないまま笑って、頬をこすった。指先が冷たい。 誓環の微光が、暗がりで心許ない灯りになった。 「生き延びたって……どこへ行けばいいのかしら」 自分でも驚くほど小さな声が、石の壁に吸われる。 「北境だ」 短い答え。 「寒いが、静かだ」 「……あなたみたい」 口にしてから、少し遅れて熱が頬にのぼる。 彼の肩が、気づかないふりの角度で、ほんのわずか動いた。 階段の上、扉の隙間から白が滲む。 夜の縁がうすく剥がれ、朝が覗いている。 外気はさらに冷たく、でも、匂いは新しい。 「契約を、後悔するなよ」 言葉は低く、石を踏む靴音に紛れる。 脅しにも聞こえるはずなのに、私には、守る約束みたいに響いた。 「後悔できるほど……生きてみたいの」 息が白い。白がすぐ消えて、空へ混ざる。 その速さに、少しだけ焦って、少しだけ笑う。 地上へ出る扉が開くと、光がひとつの生き物みたいにこちらへ流れ込んできた。 目が霞んで、涙か朝か、判断が追いつかない。 誓環が、光を飲んで、白く透けた。 広場の向こうで、木の足場がまだ濡れて光っている。 朝露。 死のための道具が、朝日に呼吸を教わっている。 滑稽で、残酷で、きれい。 この国はいつも、そうだ。 「寒い」 思わず両腕を抱いたら、彼の外套がふわりと肩に落ちた。 重さより、匂いが先に来る。 革、冬、鉄、そして——眠れない夜の気配。 「……ありがとう」 言えば、誓環が柔らかく灯る。 嘘ではない。だから痛まない。 こんなふうに確かめられることに、一瞬、救われた気がした。 「……行こう」 彼は短く言って、歩き出す合図だけを置いた。 私はうなずく。足並みを合わせる。 靴の音が、二つでひとつのリズムになっていく。 灰薔薇の日録を抱き直し、指でページの角を撫でた。 そこには、薄い矢印がいくつも交差していて、〈嫉妬〉と〈安堵〉が、互いの方へゆっくり滲んでいた。 ——嫉妬、なんて。誰の。 ——安堵、なんて。誰の。 答えは、きっとすぐには来ない。 でも、来ない方がいいこともある。 焦らせないことが、救いのかたちになる夜もある。 広場の片隅、風にめくられた瓦版が、ぱたぱたと弱い音を立てた。 風聞計の掲示はまだ早い時間で、誰も立ち止まっていない。 そこに貼られるはずの文字たち——噂の温度——を、私は指先の記憶で読んだ気がした。 〈断罪〉〈流言〉〈善〉〈祈り〉。 どれも私を切り裂く刃になり得るし、包帯にもなり得る。 使い方次第。 私の仕事は、選ぶこと。 石畳の角でふと立ち止まり、振り返る。 暗い階段の口に、まだ夜が溜まっていた。 そこからここまでの距離は短いのに、世界の温度が、はっきり変わっている。 「……公爵閣下」 呼べば、彼は足を止めず、顔だけこちらへ傾けた。 氷の瞳。朝の光で、すこしだけ薄い青に見える。 「契約の条文は……上で、決めましょう」 彼は短くうなずいた。 それ以上、言葉は要らなかった。 歩みが静かにほどけた。 王都の朝は、まだ人がまばらで、運河の水だけが先に目を覚ましている。 白い吐息と、石の冷えと、遠くの鐘。 全部がやさしくて、全部が痛い。 私の世界は、そうやってできている。 角を一つ曲がるたび、誓環が衣擦れの音と一緒に小さく鳴った。 契約という名前の鎖。 でも、鎖は必ずしも縛るためだけのものじゃない。 落ちていかないように、繋ぎ止めるための形だって、ある。 「北境は」 彼が不意に口を開いた。 「風がよく通る。……夜は、寝付きが悪い」 「じゃあ、厚い毛布と、温かい飲み物と」 少し考える。 「少しの——手」 言い終える前に、頬が熱くなる。 誓環が、ひときわ柔らかく灯る。 彼は何も言わない。 何も言わないのに、沈黙の温度が、少しだけ上がった。 生きたい。 はっきり思った。 後悔できるほど、生きたい。 その後悔を、笑って話せる夜が来るなら、なおいい。 運河沿いの小さな桟橋に、朝の色が差す。 水面が金と青の境目をつくって、波は新しい日付を刻んでいる。 彼の外套が肩から滑り落ちかけて、慌てて手を添えた。 手袋ごしに、彼の指先が一瞬触れて、誓環が淡く点火する。 唇に近い距離ではない。 それでも、三つ息を合わせれば、契約は呼吸で答えを返した。 「……大丈夫か」 「ええ」 呼吸を整え、彼の横顔を盗み見る。 寒さに強い顔をしているのに、目の下に薄い影。 眠れない夜を、いくつも並べてきた人の影。 聞かない。今は、まだ。 岸辺の石に、朝がゆっくりと降りてくる。 私は灰薔薇の日録を胸に抱き、ページをそっと押さえた。 〈安堵〉の語は、さっきより濃く、 〈光〉の語は、さっきより近く。 矢印は、まだ、誰に向いているのかわからない。 彼か、私か、世界か。 それは、明日の朝に尋ねればいい。 「行こう」 彼が言い、私はうなずいた。 朝が上がる。 氷の誓環が、白い光を抱いて脈をうつ。 冷たいのに、温かい。 終わりの夜に灯った、それは——たぶん、始まりの形をしていた。夜の底がほどけかけて、窓の白が少しずつ息をする。灰薔薇の日録をひらくと、昨日の〈名前〉のあとに、ごく薄い滲みが残っていた。指で触れた瞬間、手首の誓環があたたかく跳ねる。映像はないのに、胸の内側に——誰かを腕に抱いた、やわらかい重さだけが、そっと置かれた。廊下の向こうで足音が止まり、扉板が木の匂いを立てる。「……呼んだ?」声が出た自分に少し驚く。扉の隙がひらいて、低い呼吸が混ざる。「呼ばれた気がした」彼はいつもの角度で立ち、部屋の空気を崩さない。わたしたちはことばの先を持たないまま、窓辺へ並ぶ。外は白く、音が遠い。「袖……」視線の端、彼の手首近く。布の裏に、指先ほどの朱。彼は目で否定も肯定もしない。「……痛いの?」「痛みを残すと、静かになる」「静かにするために、痛むの?」「昔、消そうとして……声を失った」沈黙が、部屋の四隅へ薄く広がる。誓環がそのあいだで、小さな灯りを立てた。「その声……誰の?」彼は窓の外を見たまま、喉をひとつ動かす。白い庭に、吐く息が映る。「妹の。名は、もう覚えていない」冬の匂いが、胸の真ん中まで下りてきて留まる。言葉を入れると崩れる空気があって、いまはそれだった。ただ、隣に立つ。「君の誓環が、さっき……共鳴したのは、その記憶かもしれない」「……呼ばれたのは、あなたの過去」「そして、君が受け取った」ふたつの輪が、同じ速さで明滅して、すぐ引っ込む。灰薔薇の日録が、机の上でひとりでに息をした。紙の縁が、夜の名残りを吸って柔らかくなる。「触れて、いい?」返事を待たず、指の腹でページの端に触れる。瞬間、空気の密度が変わった。静かな部屋が、遠くの雪原みたいに広がって、時間が薄い膜になって揺れる。——雪の匂い。——少年の、少し高い声。——小さな手を抱いた、かすかな重さ。——呼んでも、返らない呼吸。彼の肩が、わずかに固くなる。息を吸い損ねたみたいに、胸の前で止まる。「……いま、誰を見てるの」声は小さく、輪に触れない。彼は答えないで、指の骨が白くなるほど手のひらを握った。「君じゃない。……でも、君の声で、呼ばれた」「じゃあ、戻ってきて。——もう一度」彼の手の上に、自分の手を置く。手袋ごしでもわかる温度。誓環が、合図みたいにふっと光った。しばらく、何も言わない。空気の波だけが
雪は降らない朝だった。白は残っているのに、庭の輪郭が少しだけ近い。灰薔薇の日録をひらくと、紙の上にひと文字だけ浮かぶ。〈沈黙〉指先で角をなぞって、閉じる。誓環はおとなしい。温度だけ、かすかに。扉の外で、弾む足音。ためらい一拍、ノック。「入るよ、お嬢」「どうしたの」「王都から……人。えっと、えらい感じの」ニナの声に、誓環がうすく灯る。拒むみたいに。深呼吸をひとつ。立ち上がる。*応接の空気は冷たく整っていて、硝子に薄い光が走っていた。若い男が立っている。灰の外套、真新しい手袋、腰の印章。「王都直属、調査の任にございます」言葉は丁寧。目だけ、探る音をしていた。レオンは椅子の背へ指先をかけ、座る気配を作る。私はその斜め隣。「先日の件、負傷者の傷に刻まれていた印を拝見したく」「記録は渡す。だが現物は消えた」「消える性質は、禁じられた術式に似ております」「似ている、ではなく同じだろう」短く切られて、男のまつ毛が一度揺れた。「その判断は、我々の権限で」「“痛み”を、見たんです」自分でも驚いた。言葉が先に出た。男の視線がこちらへ滑る。「痛み……と仰るのは」「印から、声がしました。あの朝」沈黙。レオンが、ゆっくり私を見る。誓環が指一本ぶん、明るくなる。「声、とは——」「彼女の言葉を、軽く聞くな」「いえ、ただ……記述のために」男のペン先が、空気を掴み損ねたみたいに小さく震えた。誓環の光が、テーブルの木目にひと拍強く落ちる。「……干渉反応、ですか。この光は」「質問の権利を失ったな」レオンの声は低く平らで、刃の背の温度。場が、すこし凍る。私は窓の硝子に目をやる。遠い白の上、赤い影が一瞬だけ浮かんで、消えた。残滓。誰かの呼気みたいな、薄い記憶。使者は紙をまとめ、礼を置いて下がる。扉が閉まる音が静かすぎて、心臓の音が少し大きくなる。*廊下に出ると、誰もいない朝の匂い。硝子越しに日が動く。「……怒った?」隣を歩く背に、問いだけ置く。返るまでの間が、長すぎず、短すぎず。「怒ってはいない」「でも、声が少し……冷たく」「冷やさないと、崩れる」「崩れても、いいのに」足音がそろって、ずれて、またそろう。誓環が一度、ふたりの間で明滅。「……君は、そうやって平気な顔をする」「平気じゃないよ。
世界は息をひそめて、窓の白だけがゆっくり動いていた。灰薔薇の日録には、今朝は何も浮かばない。ページは冷たく、手首の誓環はおとなしい。静けさは楽なのに、少しだけ、こわい。扉の向こうで、慌ただしい歩幅。ためらいが一拍、それからノック。「入るよ、お嬢」ニナの頬は風色で、目元だけ濡れていた。盆の上の湯気がゆらいで、言葉が落ちる。「門の外で……血が」体のどこかが、先に縮む。誓環が、遅れて、うすく灯った。*雪はひかりを細かく砕いて、庭じゅうに撒いていた。白い真ん中に、ひとつだけ赤。倒れた兵の肩口が染まっていて、手袋が濡れる前に、誓環が先に脈を打つ。「……知らない人なのに、どうして」自分に向けた声が外へこぼれる。足元の雪が、きゅ、と鳴る。「契約の範囲が広がっている」背後でレオンの息が白くほどける。膝をついた彼の指が、傷の縁に触れずに周りだけを見る。血の下に、黒い印。細い針で縫ったみたいな線が、肌のうえでほどけずに絡んでいる。「封じてある。……だれかの手が、近い」彼の声は低いのに、刃の背みたいに平ら。怒っている、というより、怒りを冷やして鞘に戻した温度。兵はうめいて、眉をよせる。誓環がさらに熱を足す。私の痛みじゃないのに、胸の内側が小さく引かれる。ニナが布を押さえ、兵の呼吸が浅く整っていく。雪の上に、赤い花がひとひら。冷たさに縁取られて、きれいで、いやだ。*夜が深くなる前、部屋の灯は低く、言葉は控えめになっていく。窓をかすめる風の音。机に置いた手の下で、誓環がまだ、薄く。「王都へ知らせる。印の出処がわかれば——」レオンが上着を取る。背中の布が鳴って、立ち上がる気配。「待って」袖口を指でつまむ。布越しの体温が、少しだけ高い。言い切る前に、言葉の色だけを渡す。「……まだ、だめ。あの印、あなたのと同じ匂いがした」「俺の?」ゆるく、視線が落ちてくる。「冷たいのに、焼ける。……そういう匂い」沈黙。誓環が、ほそく震えた。「俺が見てくる」「一人で行かないで」袖口の布が、指の間で少ししわになる。言った瞬間、誓環が柔らかく灯る。承諾の光。彼は短く息を吐き、上着を片手で直した。「夜明け前に出る」「ええ」言葉を置きすぎないように、うなずきだけで。*空があおくなる少し前、街道は音を吸っていた。雪はやみ、硬くなった地
雪は昼の光をやわらかく返して、薄い粉になって空気に混ざっていた。世界が静かすぎて、胸の奥の音が外へこぼれそうな午後。灰薔薇の日録をひらくと、紙の肌にゆっくりと言葉が上がってくる。〈共鳴〉〈安堵〉〈兆し〉手首の誓環が、同じ間隔でかすかに脈を打つ。痛みはない。ただ、温度だけ。その時、扉の向こうで短いノック。木の繊維がふるえ、低い声が落ちた。「入る」レオン。白手袋を外して近づき、封書を机へ置く。紋章の赤が光を吸って、朝より深い色。私は端だけ指でなぞり、目で読み、息をゆっくり吐いた。彼は何も言わない。沈黙が、部屋の隅からすこしずつ積もっていく。「……怖くは、ないんですね」自分の声が思ったより小さくて、驚く。彼は私の顔に浮いた影を一度拾い、視線を窓へ滑らせた。「慣れているだけだ」「慣れるほど、怖くなることも」薄い間。窓硝子の白がひろがる。喉がひとつ動く音。「……それも、知っている」誓環が、ほのかな光で答えた。痛みではなく、熱のほう。胸の内側でゆるんだ糸が、もう一度静かに結び直される感じ。封書は机の端へ寄り、彼は視線だけで礼の合図を置いてから出ていく。扉が閉まっても、部屋の空気には少しだけ彼の温度が残った。夕方、雪明かりが窓へ寄ってくる。外庭では近衛の稽古。白の上を刃の音が細く走っては、空にほどける。私はカーテンの縁を摘んで、指先の白さを確かめた。同じ窓辺へ、黒い外套の肩が来る。歩幅を崩さない足音。私の視界の端で、影が同じ高さに止まった。「……寒くないんですか」硝子に小さな霧がつく。彼はその曇りを目で追い、短く言う。「寒い」「じゃあ、なぜ」「静かなものは、壊されやすい。守るには音が要る」靴底が雪を踏む音。刃の交わる歌。掛け声。守るための音。その言葉に、誓環がふっと明滅する。炎ではなく、灯の明るさ。消えかけても、また戻ってくる種類の光。彼がゆっくりこちらを見る。氷の色の瞳に、一瞬だけ迷いの影。私は見つけたのに、何も言わない。言わない代わりに、一歩だけ近づく。誓環が温かく灯る。硝子に残った二人分の霧が、呼吸の拍で重なる。痛みのない光。互いを責めない沈黙の形。夜が深い場所へ傾いたころ、書庫の灯に呼ばれた。扉は半分開いていて、蝋の匂いがこぼれている。背表紙が縦に並ぶ奥で、レオンが立ったままページへ影を落とす。指を棚の角
世界はもう温まらないのに、息だけが先に温かかった。目を開けると、薄い光がカーテンの縁をゆらし、手首の誓環がほんのり色を含んでいた。赤というより、夜の名残のような色。触れれば、指先の内側で小さく跳ねる。扉の向こうで、器の当たる遠い音。運ばれてくる湯気の匂い。ノックの前の、ためらい一つ。「入るよ、お嬢」ニナの声は、朝を起こす声だった。盆の上で湯気が揺れ、軽いパンと、甘くない果実と、薄いスープ。彼女の頬は赤く、息は白い。「庭の方、ちょっとだけ騒がしい。剣の音、する。……あ、でも怖いほどじゃないやつ」「訓練?」「たぶん。ほら、聞こえる?」耳を澄ますと、金属が擦れる高い線が、朝の白の中に細く伸びた。遠いのに、まっすぐ届く。誓環がそれに合わせて、ほんの少しだけ脈を打つ。痛いとは言えない、でも、黙っていられないくらいの合図。「……変な感じ」「冷えるとき、古傷がうずく、みたいな?」「古傷、ね。あったかもしれない」笑うと、誓環がゆるむ。そんな気がした。スープの湯気を一口だけ分けてもらい、体の中心が静かにほどけていくのを待つ。「食堂、行ける? 運ぶこともできるけど」「行くわ。歩きたい」ニナの目が、安心で少し湿った。カーテンをほんの少し開けると、白い庭。氷の彫り物に朝が触れて砕け、粉になって風に混じっていた。遠く、掛け声。剣の線。足踏み。静かな戦いのリズム。廊下は冷たい石の匂い。壁の灯が丸く、足音をやわらかく呑んでいく。食堂の扉が開く前に、誓環が先に光った。微かな、挨拶みたいな光。彼はもう来ていた。長いテーブルの端、窓のそば。背に朝を背負って座ると、影が薄い青になって床に落ちた。二人分の器。間に、湯気がふたつ。「……静かですね」声に自分の寝起きが混じる。彼は器を取る手を止めなかった。「嵐の前は、いつも」沈黙。スプーンが器の内側に触れて、小さな音。外から風がひとつ入ってきて、白い花を浮かべた水面に円を走らせた。「それでも、風の音が恋しい」「……風は、味方じゃない」言葉を飲み込む音が、喉の奥で小さく鳴る。彼の視線が、一瞬だけこちらに留まって、すぐ窓の外へ戻った。外気の冷たさが、窓硝子の白で測れる。廊下の向こうから、靴の速い音。近衛のひとりが、肩の雪を落として入ってくる。低く頭を下げ、「今朝の報告を」と言いかけて、視線が私の
世界がまだ寒いのに、息だけが先に温かかった。護送馬車の幌が少し上がって、朝靄の底から邸が姿を上げる。黒と白の石が静かに積まれ、外壁の縁に薄い氷の彫り物。光がそこに触れて砕け、粉のような白が風に混ざった。門が開く瞬間、手首の誓環がほのかに灯る。約束に、朝が触れた合図。「——お嬢!」駆け寄ってきた影に腕をつかまれて、やっと笑みを作る。栗色の三つ編み、鍵束の音。ニナの息は白く、目は少し湿っている。「生きて……ちがう、よかった。ほんま、よかった」「泣かないで。泣いたら、私まで崩れる」泣き笑いの顔がぐしゃっと歪んで、すぐ戻る。ニナは袖で鼻を拭き、小声でささやいた。「ねぇ、お嬢。ここ、寒いけど……きれい。こわい、けど」「大丈夫。きれいの方、見ておこう」白手袋が光の中から現れた。歩幅を乱さず、まっすぐ近づいてくる背の高い影。氷の色の瞳がこちらを一度だけ横切る。「部屋は東棟だ。侍女も一緒でいい」ニナが胸に手を当てる。「光栄です、閣……」と出かかった言葉を、私の肘でそっと止めた。彼は気にした様子も見せず、淡く続ける。「朝食のあと、執務室へ。——契約を、文字に」「はい」それだけで、空気に薄い線が引かれた。境界というより、手すりみたいなもの。そこに指をかければ、落ちずに済む。邸の中は静か。石の床は冷たいのに、廊下の隅の灯は柔らかく、風の通り道だけがゆっくり温度を運んでいた。ニナが荷を抱えて隣を歩く。「お嬢、私、ここで——」「一緒にいて。私が倒れそうな顔をしたら、笑わせて」「任せて。わたし、顔芸は得意」くす、と喉の奥がほどける。誓環がその音に反応したのか、ふっと温かさを増した気がした。与えられた部屋は、窓が大きい。薄いカーテンの縁に朝が揺れている。花瓶には、小さな白い花。氷を溶かしてつくったみたいな、触れたら消えてしまいそうな花。「落ち着いたら呼んで」ニナが空気を読んで一旦下がる。扉が閉まって、ひとり分の静けさが戻った。胸の下で灰薔薇の日録を抱き、指で角を撫でる。紙の端から、薄い文字が浮かび、また沈んだ。〈安堵〉。さっきより濃い。鏡に映る自分はまだ、断罪の夜の影を引いていた。けれど、目の奥に宿った小さな光は、昨日より形がはっきりしている。執務室への道は、石の匂いと蝋の甘さで満ちていた。扉の前で一瞬だけ迷って、節で軽く叩く。内側から低い声。