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契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない
契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない
Author: 吟色

氷の誓環は、朝に溶ける。

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-15 20:40:26

蝋の火は、小さな心臓みたいに揺れていた。

冷えた石の壁は夜を抱え込み、息をするたび白くほどける。

机の上の薄い紙に、丸い染みがひとつ、またひとつ。

涙か、蝋か、血か。もう、どれでもよかった。

——やり直せるなんて、思ってなかった。

でも、もしもう一度だけ“選べる”なら。

筆が静かに止まったとき、廊下の向こうで鉄が鳴った。

重たい扉が、きぃ……と、眠れない夜の背中を裂く。

黒が滲み、風が流れ込む。

そこに立つ輪郭は、冬を連れてきたみたいに、空気を澄ませた。

氷の色の瞳。無駄のない所作。息の音まで静かに整っている。

「……君が、最後に会いたい相手がいると聞いた」

低く、温度の決められた声。

蝋燭の炎がぱち、と跳ね、影が壁を登る。

「ええ。……あなた、です」

唇の端だけを、ほんの少し上げる。

笑ったのか、挑んだのか。自分でも判じきれない。

「……公爵閣下」

沈黙が、深く沈んだ水みたいに広がる。

彼の視線が机の端へ降り、手首の鎖をなぞった。鉄は冷たい。皮膚は慣れている。

「処刑前に……そんな冗談を言う気分か」

「冗談を言うほど、もう元気じゃありません」

小さく息を吸い、喉の奥で熱を飲む。

「でも、取引なら——まだ、できる」

紙の擦れる音が、夜の底を少しだけ明るくした。

机に一冊、薄い小さな本を置く。灰薔薇色。端が焦げたみたいに黒ずんで、ひんやり掌に馴染む。

「これが、わたしの唯一の力です」

ページをそっと開く。

「……未来の“感情”だけが、先に滲む本」

「感情?」

彼の眉がかすかに動く。氷に触れた指先みたいな変化。

「言葉じゃないの。

誰かの胸の温度とか、息の速さとか……そういう『残り香』だけが、先に浮くの」

紙の上に、薄い文字が灯る。

〈安堵〉 〈光〉。

二つの語の脇に、名前がうっすら結ばれている。彼と、わたし。

蝋の炎が細くなり、影が長く伸びた。

外では風が石壁に沿って巡り、遠くで木の足場が軋む音がする。明日の朝のための音。

「……何が言いたい」

彼の声は、静かに落ちる。水面の重さで、音が小さく沈む。

「王位継承戦」

指が紙に影を落とす。

「あなたは——裏切られる」

息が少し詰まって、胸が痛む。

「でも……勝てる方法を、知っている」

「どうやって」

「わたしと、結婚すれば」

音が消える。

夜鳥が一声、冗談みたいに鳴いて、すぐ黙った。

息を吸えば冷たさが肺に刺さり、吐けば白がほどけて灯に溶けた。

一歩、近づいてくる。

革靴の底が石を撫でるささやかな音。

氷の匂い。金具の擦れる音。

影が炎を覆い、世界が彼の輪郭で塗り替わる。

「……君は、何を望む」

「一年だけの契約婚」

喉の乾きを舌で整える。

「あなたを勝たせるかわりに、わたしを——生かして」

言葉の端が震えるのに、目だけは静かだった。

恐い。けど、逃げない。

その二つが、胸の同じ場所で脈を打っている。

「死にたくないのか」

「……終わりたくないだけです」

短い沈黙が、ひとつ。

彼は懐へ指を入れ、小さな銀の印章を取り出した。

冷えた光が蝋燭の縁に触れて、白い輪郭を作る。

その印が、私の手首にそっと触れた瞬間——

薄いきしみ音。

氷の膜が、水面に花を咲かせるみたいに広がって、輪になった。

誓環。

冷たさが、うすく、締まる。逃げ場のない、透明の束縛。

「……痛い」

思わず漏れた声は、自分のものじゃないみたいだった。

「嘘をついた方が、痛むらしい」

感情のない言い方。なのに、どこか、尖りを研いで鞘に戻す手つきのように、優しい。

息を吸う。胸が小さく跳ねる。

視線が落ち、指が氷の輪を確かめる。透きとおって、脈に合わせてわずかに光る。

「……信じて、くれるの?」

「取引には興味がある」

そこでほんのわずか、口角が揺れた。

「君という“嘘”にも、な」

嘘という言葉に、誓環がひやりと光を深め、すぐ静まる。

——痛みは来ない。私は、いま嘘をついていない。

胸の奥の何かが、知らないリズムで鳴いた。

鍵が回る。鎖が外れる。

鉄が床を撫でる音が、夜の底を滑っていく。

残った痕は、白く。冷たい指で触れたみたいに薄い。

「立てるか」

「ええ」

椅子が石を引っかく音を、そっと抑える。

足元が少し揺れて、支えるように机の端をつかむ。

彼が手を差し出した。白い手袋。

迷ってから、触れる。

誓環が、微かに点いた。

ちいさく、温度があがった。彼の方が。

一段目の石は冷たく、二段目は少し湿っていて、三段目で蝋燭の匂いが薄くなった。

階段は長い。

上へ、上へ。

それでも私は、今日の昼の自分より、少しだけ軽かった。

途中、息が揺れて、彼がわずかに振り返る。

「無理はするな」

「……してません」

言い切れないまま笑って、頬をこすった。指先が冷たい。

誓環の微光が、暗がりで心許ない灯りになった。

「生き延びたって……どこへ行けばいいのかしら」

自分でも驚くほど小さな声が、石の壁に吸われる。

「北境だ」

短い答え。

「寒いが、静かだ」

「……あなたみたい」

口にしてから、少し遅れて熱が頬にのぼる。

彼の肩が、気づかないふりの角度で、ほんのわずか動いた。

階段の上、扉の隙間から白が滲む。

夜の縁がうすく剥がれ、朝が覗いている。

外気はさらに冷たく、でも、匂いは新しい。

「契約を、後悔するなよ」

言葉は低く、石を踏む靴音に紛れる。

脅しにも聞こえるはずなのに、私には、守る約束みたいに響いた。

「後悔できるほど……生きてみたいの」

息が白い。白がすぐ消えて、空へ混ざる。

その速さに、少しだけ焦って、少しだけ笑う。

地上へ出る扉が開くと、光がひとつの生き物みたいにこちらへ流れ込んできた。

目が霞んで、涙か朝か、判断が追いつかない。

誓環が、光を飲んで、白く透けた。

広場の向こうで、木の足場がまだ濡れて光っている。

朝露。

死のための道具が、朝日に呼吸を教わっている。

滑稽で、残酷で、きれい。

この国はいつも、そうだ。

「寒い」

思わず両腕を抱いたら、彼の外套がふわりと肩に落ちた。

重さより、匂いが先に来る。

革、冬、鉄、そして——眠れない夜の気配。

「……ありがとう」

言えば、誓環が柔らかく灯る。

嘘ではない。だから痛まない。

こんなふうに確かめられることに、一瞬、救われた気がした。

「……行こう」

彼は短く言って、歩き出す合図だけを置いた。

私はうなずく。足並みを合わせる。

靴の音が、二つでひとつのリズムになっていく。

灰薔薇の日録を抱き直し、指でページの角を撫でた。

そこには、薄い矢印がいくつも交差していて、〈嫉妬〉と〈安堵〉が、互いの方へゆっくり滲んでいた。

——嫉妬、なんて。誰の。

——安堵、なんて。誰の。

答えは、きっとすぐには来ない。

でも、来ない方がいいこともある。

焦らせないことが、救いのかたちになる夜もある。

広場の片隅、風にめくられた瓦版が、ぱたぱたと弱い音を立てた。

風聞計の掲示はまだ早い時間で、誰も立ち止まっていない。

そこに貼られるはずの文字たち——噂の温度——を、私は指先の記憶で読んだ気がした。

〈断罪〉〈流言〉〈善〉〈祈り〉。

どれも私を切り裂く刃になり得るし、包帯にもなり得る。

使い方次第。

私の仕事は、選ぶこと。

石畳の角でふと立ち止まり、振り返る。

暗い階段の口に、まだ夜が溜まっていた。

そこからここまでの距離は短いのに、世界の温度が、はっきり変わっている。

「……公爵閣下」

呼べば、彼は足を止めず、顔だけこちらへ傾けた。

氷の瞳。朝の光で、すこしだけ薄い青に見える。

「契約の条文は……上で、決めましょう」

彼は短くうなずいた。

それ以上、言葉は要らなかった。

歩みが静かにほどけた。

王都の朝は、まだ人がまばらで、運河の水だけが先に目を覚ましている。

白い吐息と、石の冷えと、遠くの鐘。

全部がやさしくて、全部が痛い。

私の世界は、そうやってできている。

角を一つ曲がるたび、誓環が衣擦れの音と一緒に小さく鳴った。

契約という名前の鎖。

でも、鎖は必ずしも縛るためだけのものじゃない。

落ちていかないように、繋ぎ止めるための形だって、ある。

「北境は」

彼が不意に口を開いた。

「風がよく通る。……夜は、寝付きが悪い」

「じゃあ、厚い毛布と、温かい飲み物と」

少し考える。

「少しの——手」

言い終える前に、頬が熱くなる。

誓環が、ひときわ柔らかく灯る。

彼は何も言わない。

何も言わないのに、沈黙の温度が、少しだけ上がった。

生きたい。

はっきり思った。

後悔できるほど、生きたい。

その後悔を、笑って話せる夜が来るなら、なおいい。

運河沿いの小さな桟橋に、朝の色が差す。

水面が金と青の境目をつくって、波は新しい日付を刻んでいる。

彼の外套が肩から滑り落ちかけて、慌てて手を添えた。

手袋ごしに、彼の指先が一瞬触れて、誓環が淡く点火する。

唇に近い距離ではない。

それでも、三つ息を合わせれば、契約は呼吸で答えを返した。

「……大丈夫か」

「ええ」

呼吸を整え、彼の横顔を盗み見る。

寒さに強い顔をしているのに、目の下に薄い影。

眠れない夜を、いくつも並べてきた人の影。

聞かない。今は、まだ。

岸辺の石に、朝がゆっくりと降りてくる。

私は灰薔薇の日録を胸に抱き、ページをそっと押さえた。

〈安堵〉の語は、さっきより濃く、

〈光〉の語は、さっきより近く。

矢印は、まだ、誰に向いているのかわからない。

彼か、私か、世界か。

それは、明日の朝に尋ねればいい。

「行こう」

彼が言い、私はうなずいた。

朝が上がる。

氷の誓環が、白い光を抱いて脈をうつ。

冷たいのに、温かい。

終わりの夜に灯った、それは——たぶん、始まりの形をしていた。

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