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雪の記憶を抱く手

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-22 09:13:29

夜の底がほどけかけて、窓の白が少しずつ息をする。

灰薔薇の日録をひらくと、昨日の〈名前〉のあとに、ごく薄い滲みが残っていた。指で触れた瞬間、手首の誓環があたたかく跳ねる。映像はないのに、胸の内側に——誰かを腕に抱いた、やわらかい重さだけが、そっと置かれた。

廊下の向こうで足音が止まり、扉板が木の匂いを立てる。

「……呼んだ?」

声が出た自分に少し驚く。

扉の隙がひらいて、低い呼吸が混ざる。

「呼ばれた気がした」

彼はいつもの角度で立ち、部屋の空気を崩さない。わたしたちはことばの先を持たないまま、窓辺へ並ぶ。外は白く、音が遠い。

「袖……」

視線の端、彼の手首近く。布の裏に、指先ほどの朱。

彼は目で否定も肯定もしない。

「……痛いの?」

「痛みを残すと、静かになる」

「静かにするために、痛むの?」

「昔、消そうとして……声を失った」

沈黙が、部屋の四隅へ薄く広がる。誓環がそのあいだで、小さな灯りを立てた。

「その声……誰の?」

彼は窓の外を見たまま、喉をひとつ動かす。

白い庭に、吐く息が映る。

「妹の。名は、もう覚えていない」

冬の匂いが、胸の真ん中まで下りてきて留まる。

言葉を入れると崩れる空気があって、いまはそれだった。

ただ、隣に立つ。

「君の誓環が、さっき……共鳴したのは、その記憶かもしれない」

「……呼ばれたのは、あなたの過去」

「そして、君が受け取った」

ふたつの輪が、同じ速さで明滅して、すぐ引っ込む。

灰薔薇の日録が、机の上でひとりでに息をした。紙の縁が、夜の名残りを吸って柔らかくなる。

「触れて、いい?」

返事を待たず、指の腹でページの端に触れる。

瞬間、空気の密度が変わった。

静かな部屋が、遠くの雪原みたいに広がって、時間が薄い膜になって揺れる。

——雪の匂い。

——少年の、少し高い声。

——小さな手を抱いた、かすかな重さ。

——呼んでも、返らない呼吸。

彼の肩が、わずかに固くなる。

息を吸い損ねたみたいに、胸の前で止まる。

「……いま、誰を見てるの」

声は小さく、輪に触れない。

彼は答えないで、指の骨が白くなるほど手のひらを握った。

「君じゃない。……でも、君の声で、呼ばれた」

「じゃあ、戻ってきて。——もう一度」

彼の手の上に、自分の手を置く。

手袋ごしでもわかる温度。

誓環が、合図みたいにふっと光った。

しばらく、何も言わない。空気の波だけが満ちたり引いたりして、やがて収まる。

窓の外の白に、ふいに、子どもの指の跡みたいな影がついた。

ほんの一瞬で消える。

見たのは、たぶんわたしたちだけ。

彼はゆっくり手をほどき、目を閉じて、開いた。

昔の誰かの呼び声は、もう遠い。

灰薔薇の日録が、光の粒をいくつか拾って、ページへそっと沈める。

浮かんだ文字は、いつもよりやわらかかった。

〈赦し〉

〈手〉

〈記憶〉

息を吐く。肩が軽く落ちる。

「……名前、呼んでいい?」

「名前?」

「いまのあなたを、呼びたい」

少しの間。

彼の喉仏がゆっくり上がって、下りる。

朝の光が、袖の朱を淡く洗う。

「……レオン」

わざと小さく。

名が空気に触れて、輪がやさしく灯る。

「レオン、って呼んで」

ふっと、硝子に雪が当たる音。

彼の口元に、笑いの手前のゆるみが、ほんの少し。

「その声で呼ばれると……世界が静かになる」

「静かでも、あなたの声がある」

誓環が、会釈を返すみたいに一度だけ光った。

白い光の輪郭が、朝の匂いに混ざってほどける。

昼の影が細くなって、邸は音を飲み込む。

レオンは短い用件に去り、部屋はまた、わたしひとりの呼吸だけになった。

静かすぎて、心臓の音が手に伝わる。

机の端で、日録の角を指でなぞる。紙は冷たく、すぐに体温を覚える。

扉の向こうで、ためらいが一拍。

ノックは来なくて、足音だけが少し近づいて、また離れた。

呼ばないことが、呼ぶよりも近いときがある。

「……レオン」

声はそこに届いたかどうか、わからない。

輪が、代わりに返事をした。

掌の内側で、心臓の拍に寄り添って、ゆっくり。

夕方になっても、窓の白は薄まらない。

雪は降り方を知っている。

音を立てないで、全部を包むこと。

夜。

灯を低くして、灰薔薇の日録をもう一度ひらく。

紙の端に、細い赤い線が一本。誰かの指が、昔そこを通ったみたいな、淡い跡。

誓環が、息を溶かすように明滅する。

耳ではなく、骨の内側で、声がひとつ。

「……ありがとう」

少女の声。

氷みたいに澄んで、あたたかい。

誰のものか、聞かなくても、わかる。

目を閉じる。

白い手のひらに、さっきの温度がまだいる。

輪の灯りが、そっと消えて、余韻だけが残る。

日録の最後の行に、ゆっくりと文字が滲んだ。

〈雪は、赦しの形をしていた〉

窓の外で風が一度だけ通り、部屋の匂いが入れ替わる。

息を吸って、吐く。

静かな夜は、静かなままで、優しかった。

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