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氷の邸と、誓環の息

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-16 18:49:14

世界がまだ寒いのに、息だけが先に温かかった。

護送馬車の幌が少し上がって、朝靄の底から邸が姿を上げる。黒と白の石が静かに積まれ、外壁の縁に薄い氷の彫り物。光がそこに触れて砕け、粉のような白が風に混ざった。門が開く瞬間、手首の誓環がほのかに灯る。約束に、朝が触れた合図。

「——お嬢!」

駆け寄ってきた影に腕をつかまれて、やっと笑みを作る。栗色の三つ編み、鍵束の音。ニナの息は白く、目は少し湿っている。

「生きて……ちがう、よかった。ほんま、よかった」

「泣かないで。泣いたら、私まで崩れる」

泣き笑いの顔がぐしゃっと歪んで、すぐ戻る。ニナは袖で鼻を拭き、小声でささやいた。

「ねぇ、お嬢。ここ、寒いけど……きれい。こわい、けど」

「大丈夫。きれいの方、見ておこう」

白手袋が光の中から現れた。歩幅を乱さず、まっすぐ近づいてくる背の高い影。氷の色の瞳がこちらを一度だけ横切る。

「部屋は東棟だ。侍女も一緒でいい」

ニナが胸に手を当てる。「光栄です、閣……」と出かかった言葉を、私の肘でそっと止めた。彼は気にした様子も見せず、淡く続ける。

「朝食のあと、執務室へ。——契約を、文字に」

「はい」

それだけで、空気に薄い線が引かれた。境界というより、手すりみたいなもの。そこに指をかければ、落ちずに済む。

邸の中は静か。石の床は冷たいのに、廊下の隅の灯は柔らかく、風の通り道だけがゆっくり温度を運んでいた。ニナが荷を抱えて隣を歩く。

「お嬢、私、ここで——」

「一緒にいて。私が倒れそうな顔をしたら、笑わせて」

「任せて。わたし、顔芸は得意」

くす、と喉の奥がほどける。誓環がその音に反応したのか、ふっと温かさを増した気がした。

与えられた部屋は、窓が大きい。薄いカーテンの縁に朝が揺れている。花瓶には、小さな白い花。氷を溶かしてつくったみたいな、触れたら消えてしまいそうな花。

「落ち着いたら呼んで」

ニナが空気を読んで一旦下がる。扉が閉まって、ひとり分の静けさが戻った。胸の下で灰薔薇の日録を抱き、指で角を撫でる。紙の端から、薄い文字が浮かび、また沈んだ。〈安堵〉。さっきより濃い。

鏡に映る自分はまだ、断罪の夜の影を引いていた。けれど、目の奥に宿った小さな光は、昨日より形がはっきりしている。

執務室への道は、石の匂いと蝋の甘さで満ちていた。扉の前で一瞬だけ迷って、節で軽く叩く。内側から低い声。

「どうぞ」

窓辺に立つ背。朝の光が肩に落ち、背筋に沿って細い線を作る。机の上には帳面、封蝋、地図。彼は椅子を指で示すだけで、余計な言葉を足さない。

二人のあいだに机。距離は、二歩ぶん。蝋の灯が、間の空気をかすかに揺らしている。

「契約、文字にしておきましょう。誓環だけじゃ、不安でしょう?」

彼は視線をこちらへ戻し、少しだけ首を傾けた。

「書きたければ、書け。……俺は、書いたものを信じるたちじゃない」

「信じるものがある人ほど、書くんです。忘れたくないから」

沈黙。椅子の背にもたれた彼の影が、机の天板に長く伸びる。私は淡く笑い、筆を取った。蝋の灯が、紙の白を薄く温める。

線を一本。言葉をひとつずつ置いていく。

一年の契約婚。

嘘をつけば痛む。

愛すれば光る。

満期で誓環が溶けたら、本心が証明される。

継承戦に勝つため、互いに最大限協力する。

筆先が止まり、息が静かに落ちた。彼はそれを見て、一言だけ。

「短いな」

「長く書くほど、嘘が混じります」

「……そうか」

帳面の端で、白手袋の指が軽く鳴る。言い合いにはならない。どちらも、いまは。

封蝋に火を近づける前、誓環がふっと締まった。胸の奥から、冷い針が立ち上がるみたいな痛み。息が詰まって、指が小さく動く。

「……痛い」

対面で、彼もわずかに眉を寄せた。

「ああ。こっちも」

蝋がぱち、と弾ける音。静けさの中で、二人の呼吸だけが近づいた。

「どちらが、嘘をついたんでしょうね」

「どちらでもない、と思う。……契約が、息をしただけだ」

硬い言い方なのに、不思議と優しく聞こえる。痛みは引いて、痕のような温度が残った。誓環の縁が、朝の光と一瞬だけ重なって、白が濃くなる。

筆を置く。沈黙が続く。窓辺から冷気が入り、カーテンがやわらかく揺れた。

「……寒い部屋ですね」

「人が、いなかった」

「これからは、います」

彼は小さく息を吐いた。その吐息が、ガラスに淡い霧をつくる。

「……落ち着かないな」

「それは、同じです」

机の上のカップを、彼がこちらへ押しやる。湯気が揺れ、苦い香りが立つ。

「茶は、苦い。眠れない時に効く」

指先を近づける。白手袋の端が視界をかすめ、誓環がふっと光った。驚いて、互いに少しだけ手を引く。

「……いまのは」

「知らない。だが——嘘では、なかった」

呼吸の拍だけが、ぴたりと合う。痛みじゃない共鳴が、そこにあった。

封蝋に火がふれて、赤い滴が紙の角に丸い印を作る。印章が紙に触れる音が、鼓動と同じ速さだった。彼の指は迷わない。私の胸の中だけが、少し迷う。

「部屋に戻れ。——休めるときに」

「あなたは?」

「いつも通り、だ」

「……眠らないんですね」

カーテンの縁がもう一度揺れる。彼は少し目を伏せ、ことばを探すみたいに間を置いた。

「夜が、静かすぎる」

「……あなたも?」

「昔から、夢を見ない」

「じゃあ、起きたまま、夢を見ればいいのに」

彼は笑わない。けれど、空気の温度がほんの少しだけ緩む。私はカップを戻し、椅子の音を小さく抑えて立ち上がった。礼をひとつ。扉に手をかけたとき、背に落ちてきた声が木に吸われて丸くなる。

「契約は、夜明けに発効する。それまでは——好きに」

「好きに、ですか」

「ここでは」

ここでは、という距離が、妙に胸に残る。廊下は明るく、床の石が朝を跳ね返していた。角の影から、ニナがひょいと顔を出す。

「どうだった? 閣下、怖い? 優しい? 両方?」

「両方。……上手い言葉」

くすっと笑いがこぼれる。部屋へ戻る。窓の向こう、庭の隅から、子どもの笑い声がひとかけら届いた。北から避難してきた民の子だろう。世界が変わった朝に、眠れないのは、きっと悪いことばかりじゃない。

ニナが湯を置き、髪をほどき、肩にショールをかける。ふと手が止まった。

「お嬢、その……手首」

白い氷の輪が、薄い朝に透けている。呼吸に合わせて、淡く点いたり消えたり。

「冷たくない?」

「少し。けど、痛くはない」

「ふーん。痛くなったら、私の手、出すから」

「あなたの手は、冷たい」

「あっためてもらうの、得意」

いつもの調子に救われる。ニナは部屋を出る前、扉の枠に指で小さな印を残した。三つの点。間を置いて、三回。

「合図ね」

「忘れたら困るから」

扉が閉まり、静かな部屋にひとり。窓辺に歩み、カーテンを指で少しだけ開く。庭の白、空の薄い青。誓環が、それを映したみたいに、淡く明るくなった。

——本当に、ここで、生きる。

遅れて実感が花粉みたいに舞い、胸の奥でむずむずする。笑いに変えて、深呼吸をひとつ。灰薔薇の日録を胸に抱き、ページをそっと押さえた。新しい文字が、滲んでくる。

〈痛み〉〈安堵〉

ふたつの言葉が、隣り合って光った。間に、細い矢印が一本、まだぼやけたまま。

扉の外に、人の気配。足音の重さで、誰かが分かる。レオンの影は扉を挟んでも冷たくて、なのに、心地よい。

「必要なものは」

扉越しの声は低く、木に吸われて丸い。

「……いまは、大丈夫」

「そうか」

短いやり取り。息が合っているのか、合っていないのか、まだ分からないのに、苦しくはない。扉に額を寄せると、木の匂いがした。向こう側にも、同じ匂いがしていればいいのに、と勝手なことを思う。

沈黙が、ゆっくり膨らむ。ことばをつなぐか迷ったのは、おそらく、同時。

「レオン様」

呼んでから、名前で呼んだことに気づき、指を握る。返ってきた声は、少しだけ近い。

「なんだ」

「……起きたまま、夢を見る方法、見つかったら、教えます」

扉の向こうで、空気がわずかに緩む。

「ああ」

本当は、いまこの瞬間が、もう夢の輪郭をしているのかもしれない。冷たくて、やさしくて、信じれば溶けてしまう種類の。

やがて足音が離れていく。廊下の影が薄くなり、部屋の中の光が濃くなる。ベッドの端に腰を下ろすと、誓環が肌と布のあいだでうすく鳴いた。心臓が拍を合わせに行っている。知らないうちに。

外から、子どもたちの笑い声がまた届く。誰かが転んで、誰かが手を引いて、また走り出す気配。世界は、思っていたより少しだけやさしいのかもしれない。少しだけ、残酷の形が違うのかもしれない。

目を閉じ、目を開け、息を整える。

冷たい指輪が、まだ知らない熱を覚えている。

それが、今日の朝のぜんぶ。ここから先は、二人で決めていけばいい。

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