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灯の名を知らない夜

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-18 22:03:24

雪は昼の光をやわらかく返して、薄い粉になって空気に混ざっていた。

世界が静かすぎて、胸の奥の音が外へこぼれそうな午後。灰薔薇の日録をひらくと、紙の肌にゆっくりと言葉が上がってくる。

〈共鳴〉

〈安堵〉

〈兆し〉

手首の誓環が、同じ間隔でかすかに脈を打つ。痛みはない。ただ、温度だけ。

その時、扉の向こうで短いノック。木の繊維がふるえ、低い声が落ちた。

「入る」

レオン。白手袋を外して近づき、封書を机へ置く。紋章の赤が光を吸って、朝より深い色。私は端だけ指でなぞり、目で読み、息をゆっくり吐いた。

彼は何も言わない。沈黙が、部屋の隅からすこしずつ積もっていく。

「……怖くは、ないんですね」

自分の声が思ったより小さくて、驚く。

彼は私の顔に浮いた影を一度拾い、視線を窓へ滑らせた。

「慣れているだけだ」

「慣れるほど、怖くなることも」

薄い間。窓硝子の白がひろがる。喉がひとつ動く音。

「……それも、知っている」

誓環が、ほのかな光で答えた。痛みではなく、熱のほう。胸の内側でゆるんだ糸が、もう一度静かに結び直される感じ。

封書は机の端へ寄り、彼は視線だけで礼の合図を置いてから出ていく。扉が閉まっても、部屋の空気には少しだけ彼の温度が残った。

夕方、雪明かりが窓へ寄ってくる。外庭では近衛の稽古。白の上を刃の音が細く走っては、空にほどける。私はカーテンの縁を摘んで、指先の白さを確かめた。

同じ窓辺へ、黒い外套の肩が来る。歩幅を崩さない足音。私の視界の端で、影が同じ高さに止まった。

「……寒くないんですか」

硝子に小さな霧がつく。彼はその曇りを目で追い、短く言う。

「寒い」

「じゃあ、なぜ」

「静かなものは、壊されやすい。守るには音が要る」

靴底が雪を踏む音。刃の交わる歌。掛け声。守るための音。

その言葉に、誓環がふっと明滅する。炎ではなく、灯の明るさ。消えかけても、また戻ってくる種類の光。

彼がゆっくりこちらを見る。氷の色の瞳に、一瞬だけ迷いの影。私は見つけたのに、何も言わない。言わない代わりに、一歩だけ近づく。

誓環が温かく灯る。硝子に残った二人分の霧が、呼吸の拍で重なる。

痛みのない光。

互いを責めない沈黙の形。

夜が深い場所へ傾いたころ、書庫の灯に呼ばれた。扉は半分開いていて、蝋の匂いがこぼれている。背表紙が縦に並ぶ奥で、レオンが立ったままページへ影を落とす。

指を棚の角に置き、木の冷たさを借りて呼吸をそろえる。

「眠れないんですか」

本が閉じる。紙が空気を切る、薄い音。

「……夢を見た。久しぶりに」

「どんな」

「人の声がした。——君のだったかもしれない」

蝋の滴が落ち、丸い痕。

私は棚の角から指を離し、ひと拍だけ何も言わず、呼吸だけを置く。

「夢を見たなら、それだけで少し……あたたかい」

「あたたかい、か」

口元に、笑う直前のゆるみが、ほんの少し。すぐ消える。

誓環が応えるように光を増す。今度は二つの光の強さがほとんど同じ。痛みも拒絶もない。ただ、灯が重なる。

輪の中で、棚に映った二人の影が一瞬重なる。氷が、音もなく呼吸しているみたい。名前のない現象に名前を付ける前の、やわらかな時間。

「……召喚の件」

声にすると、彼は目だけで合図を返す。話したくないでも、避けたいでもない。ただ、いまはここに置いておくという合図。

「報せが早い日ほど、夜が長い」

「夜が長いと、君は眠らない」

「あなたは?」

「昔から、夢を見ない」

「じゃあ……見つけたときだけ、報せ合いませんか」

言い終える前に、誓環がふわりと温度を上げる。言葉より先に、輪が合意の形を知っている。

彼は視線を伏せ、本を棚へ戻す。それが頷きの代わりに見えた。

書庫を出ると、廊下の灯は朝の手前の色。部屋に戻り、灰薔薇の日録をひらく。指先の温度が紙へ移るのを待っていると、淡いインクが滲み、輪郭が整った。

〈安堵〉

〈灯〉

〈夢〉

三つの言葉が並び、細い矢印がそれぞれをやわらかくむすぶ。今日という日の、見えない継ぎ目。私は小さく笑って、ページの角を指でなぞった。

誓環が、呼吸と同じリズムで光る。乱暴な心臓が、今日は不思議と整っている。

廊下で足音が止まる。重さで、誰かが分かる。扉板の向こうから、低い声が一言。

「……夢を見たら、報せろ」

返事は声にせず、笑みだけで。木に額を寄せると、薄い匂いの奥に夜の名残。雪、石、蝋。どれもかすかで、どれも確か。

夜明け前の光が、氷の邸を染めていく。

それは痛みではなく、静かな生の証。

輪がわずかに灯って、消えた。

灯の消えた場所に、呼吸だけが残る。

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  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   氷の庭に、痛みは芽吹く

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  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   氷の邸と、誓環の息

    世界がまだ寒いのに、息だけが先に温かかった。護送馬車の幌が少し上がって、朝靄の底から邸が姿を上げる。黒と白の石が静かに積まれ、外壁の縁に薄い氷の彫り物。光がそこに触れて砕け、粉のような白が風に混ざった。門が開く瞬間、手首の誓環がほのかに灯る。約束に、朝が触れた合図。「——お嬢!」駆け寄ってきた影に腕をつかまれて、やっと笑みを作る。栗色の三つ編み、鍵束の音。ニナの息は白く、目は少し湿っている。「生きて……ちがう、よかった。ほんま、よかった」「泣かないで。泣いたら、私まで崩れる」泣き笑いの顔がぐしゃっと歪んで、すぐ戻る。ニナは袖で鼻を拭き、小声でささやいた。「ねぇ、お嬢。ここ、寒いけど……きれい。こわい、けど」「大丈夫。きれいの方、見ておこう」白手袋が光の中から現れた。歩幅を乱さず、まっすぐ近づいてくる背の高い影。氷の色の瞳がこちらを一度だけ横切る。「部屋は東棟だ。侍女も一緒でいい」ニナが胸に手を当てる。「光栄です、閣……」と出かかった言葉を、私の肘でそっと止めた。彼は気にした様子も見せず、淡く続ける。「朝食のあと、執務室へ。——契約を、文字に」「はい」それだけで、空気に薄い線が引かれた。境界というより、手すりみたいなもの。そこに指をかければ、落ちずに済む。邸の中は静か。石の床は冷たいのに、廊下の隅の灯は柔らかく、風の通り道だけがゆっくり温度を運んでいた。ニナが荷を抱えて隣を歩く。「お嬢、私、ここで——」「一緒にいて。私が倒れそうな顔をしたら、笑わせて」「任せて。わたし、顔芸は得意」くす、と喉の奥がほどける。誓環がその音に反応したのか、ふっと温かさを増した気がした。与えられた部屋は、窓が大きい。薄いカーテンの縁に朝が揺れている。花瓶には、小さな白い花。氷を溶かしてつくったみたいな、触れたら消えてしまいそうな花。「落ち着いたら呼んで」ニナが空気を読んで一旦下がる。扉が閉まって、ひとり分の静けさが戻った。胸の下で灰薔薇の日録を抱き、指で角を撫でる。紙の端から、薄い文字が浮かび、また沈んだ。〈安堵〉。さっきより濃い。鏡に映る自分はまだ、断罪の夜の影を引いていた。けれど、目の奥に宿った小さな光は、昨日より形がはっきりしている。執務室への道は、石の匂いと蝋の甘さで満ちていた。扉の前で一瞬だけ迷って、節で軽く叩く。内側から低い声。

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